第10話 星送りの戦い(後編)
その夜、霧の村に、夜明けよりも早い光が射した。
誰かを守りたいと願った、ひとりの少女の光だった。
黒い矢じりが、放たれた。
音は、なかった。
ただ、光を喰らう一筋の闇が、霧を裂いてまっすぐに飛んでくる。
リオは、動けなかった。
星図を胸に抱いたまま、足が石畳に縫いつけられたように。
――間に合わない。
そう思った瞬間。
リオの前に、光が立った。
「――だめ」
ステラだった。
両腕を広げて、リオと黒い矢じりの間に。
銀の髪が、ふわりと舞い上がった。
そして。
ステラが、光った。
淡い光ではなかった。
毎晩、彼女の体を包んでいた、熾火のような柔らかな光ではなかった。
夜明けだった。
山の端から朝日があふれ出す、その最初の一瞬。
世界のすべてが、白と金色に塗り替えられる、あの瞬間の光。
それが、ステラの小さな体から、あふれ出した。
黒い矢じりが、光に触れた。
溶けた。
朝日に照らされた霜のように。
あっけなく、音もなく、光の中にほどけて消えていった。
「……っ!」
仮面の女が、腕で顔を覆った。
他の仮面たちも、たたらを踏んで後ずさる。
松明の火が、光に呑まれて、ちっぽけな火の粉のように見えた。
広場を覆っていた霧が、ステラを中心に、波紋のように押し広げられていく。
灰色の石畳が、一瞬だけ、本来の色を取り戻した。
温かな、砂色。
「ステラ……!」
「リオ」
ステラは、振り返らなかった。
光の中で、両腕を広げたまま。
その声は、少し震えていた。
「はやく、よんで」
「わたし、ずっとは、むり、かも」
・ ・ ・ ✦ ・ ・ ✧
仮面の女が、光の向こうで、もう一度右手を上げた。
指先に、また闇が凝り始める。
さっきよりも、大きく。
さっきよりも、黒く。
「小娘が……」
そのとき。
リオの前に、もうひとつの影が立った。
ノアの母だった。
ステラの隣に、並ぶように。
両腕を広げて。
何も持たない、細い腕で。
「……なにを、している」
仮面の女の声が、初めて揺らいだ。
ノアの母は、答えなかった。
ただ、唇を開いた。
ふん、ふん、ふん、と。
言葉のない、子守歌の旋律。
その隣に、軒下の老人が並んだ。
震える足で。
井戸の女が並んだ。
その夫が並んだ。
畑の男たちが、子どもたちが。
ひとり、またひとりと。
三十人の村人が、手をつないで、リオとステラを囲む輪になった。
誰も、なぜそうしているのか、わかっていなかったかもしれない。
名前も、まだ思い出せていない。
それでも、彼らは歌っていた。
ノアの母の旋律に、声を重ねて。
言葉のない子守歌を、三十の声で。
霧が、その歌に震えていた。
ステラの光が、その歌に応えるように、ひときわ強く輝いた。
仮面の女の指先で、闇の塊が、ゆらりと揺らいだ。
放てずに、迷っている。
「……リオ!」
輪の内側から、ノアが叫んだ。
リオの隣に駆け寄り、その手を握った。
「いっしょに、よぶ」
灰色の瞳が、涙でいっぱいだった。
「わたしも、よぶ。わたしの、むらの、なまえ」
リオは、ノアの手を握り返した。
小さな手だった。
地面に名前を書き続けて、ひび割れた指先。
三年間、たったひとりで、記録し続けてきた手。
リオは、星図を高く掲げた。
描き直した星。
その傍らの、『ソラノ』の三文字。
その周りを巡る、無数の光の文字。
凧揚げ。井戸のそばの告白。麦の穂。焚き火の夜。
そして、名前の欄だけを空けた、ひとつの思い出。
霧の向こうの、見えない空を見上げる。
そこに、星がある。
見えなくても、ちゃんと、そこにある。
ずっと、ずっと、呼ばれるのを待っている。
リオは、大きく息を吸った。
隣で、ノアも、息を吸った。
「――ソラノ!!」
ふたりの声が、重なった。
・ ・ ・ ✦ ・ ・ ✧
星図が、光った。
描き直した星が、紙の上から浮かび上がる。
小さな光の珠になって。
その周りを、光の文字が螺旋を描いて、昇っていく。
広場の石畳から、霧の天井へ。
まっすぐに。
光の柱が、霧を貫いた。
乳白色の帳に、穴が空く。
その穴が、ぐんぐんと広がっていく。
霧が、裂けた。
破れた帳の向こうに。
夜空が、あった。
三年ぶりの、ソラノの夜空だった。
深い、深い藍色。
星墨の瓶の底と、同じ色。
そこに、数えきれない星々が瞬いていた。
霧に閉ざされていた間も、ずっとそこにあった星々が。
光の柱の先端が、空の一点に届いた。
何もなかった、暗がり。
そこに――星が、灯った。
小さな、小さな星だった。
ハロウの星よりも、もっと小さい。
けれど、確かに、そこにあった。
か細く、懸命に、瞬いていた。
生まれたばかりの赤子が、初めて息をするように。
光の柱が、ほどけた。
無数の光の粒が、村じゅうに降り注いだ。
霧の名残を溶かしながら。
灰色の屋根に、灰色の麦畑に、灰色の人々の肩に。
光の粒が触れたところから、色が戻っていく。
石畳は、温かな砂色に。
屋根は、焼き煉瓦の赤茶色に。
麦畑は、松明の灯りを受けて、波打つ金色に。
ステラの襟巻きが、淡い空色に。
見上げる村人たちの頬が、血の通った薄紅色に。
世界が、目を覚ましていく。
そして。
「……ノア」
その声が、聞こえた。
ノアの全身が、凍りついた。
ゆっくりと、振り返る。
ノアの母が、立っていた。
光の粒の降る中で。
両手で口を覆って。
涙に濡れた瞳で、まっすぐに、ノアを見つめていた。
「ノア」
もう一度。
今度は、はっきりと。
「ノア。……わたしの、ノア」
ノアの唇が、震えた。
声が、出ない。
三年間、地面に書き続けた二文字。
三年間、一度も呼ばれなかった二文字。
それが今、母の唇から、こぼれ落ちた。
「……おかあさん」
ノアが、駆け出した。
母の胸に、飛び込んだ。
母が、その小さな体を、強く、強く抱きしめた。
「ノア……ごめんね、ノア……」
「ずっと、そばにいたのに……」
「ずっと、呼んであげられなくて……」
ノアは、母の胸に顔をうずめて、泣いた。
声を上げて、子どものように泣いた。
三年分の涙だった。
それから、顔を上げた。
涙でぐしゃぐしゃの顔で、夜空に向かって、叫んだ。
「わたしは、ノア!!」
「ソラノの、ノア!!」
小さな星が、それに応えるように、ちかりと瞬いた。
広場のあちこちで、名前が弾けた。
軒下の老人が、自分の名前を叫んでいた。
井戸の女と、その夫が、互いの名前を呼び合っていた。
子どもたちが、鬼ごっこの続きを始めていた。
「待てよ、ペーター!」
「捕まえた、アンナ!」
三年ぶりに、名前を呼びながら。
仮面の者たちは、いつの間にか、広場の端まで退いていた。
仮面の女が、顔を覆っていた腕を、ゆっくりと下ろす。
顔のない白い仮面が、光の降る広場を、じっと見つめていた。
泣きながら名前を呼び合う、村の人々を。
「……引くぞ」
仮面の女が、低く言った。
他の仮面たちが、戸惑ったように顔を見合わせる。
「しかし、星図は……」
「首領に、伝える」
仮面の女は、リオを振り返った。
仮面の切れ込みの奥で、何かが揺れていた。
怒りなのか、それとも、別の何かなのか。
「天文台守が、星を還した、と」
黒い外套が、翻った。
五つの松明が、溶けていく霧の向こうへ、遠ざかっていく。
やがて、夜の闇に紛れて、見えなくなった。
リオは、その場に立ち尽くしていた。
光の粒が、頬に触れて、ふわりと溶ける。
温かかった。
そのとき、ふと。
胸の奥から、何かが、すっと抜けていく感覚があった。
手のひらに載せた雪が、溶けて消えるように。
小さな、何か。
リオは、胸に手を当てた。
何が、なくなったのだろう。
考えても、わからなかった。
なくなったものが何だったのかさえ、もう、思い出せなかった。
「……リオ」
背後で、か細い声がした。
リオは、振り返った。
ステラが、立っていた。
両腕を、ゆっくりと下ろして。
さっきまでの、夜明けのような光は、もうどこにもなかった。
体を包む光が、弱い。
いつもの夜よりも、ずっと。
熾火の、最後の残り火のように。
「……ちょっと、つかれた」
ステラは、笑おうとした。
その膝が、かくん、と折れた。
「ステラ!」
リオは、駆け寄った。
倒れかけたステラの体を、両腕で受け止める。
軽かった。
驚くほど、軽かった。
まるで、光でできた羽根を抱いているように。
そして、冷たかった。
初めての夜、あの丘で、寒さに震えていたときよりも。
「ステラ……ステラ!」
腕の中で、ステラの光が、瞬いた。
灯っては、消え。
消えては、灯る。
リオは、その瞬き方を、知っていた。
北の天文台の、望遠鏡の向こうで、何度も見てきた。
ウィロウデイルの星。
ハロウの星。
消える寸前の、名星の瞬き方。
「……リオ」
ステラが、薄く目を開けた。
夜空色の瞳が、ぼんやりとリオを見上げる。
「ノア、なまえ、よんでもらえた?」
「……はい」
リオの声が、震えた。
「呼んでもらえました。何回も」
「そっか」
ステラは、満足そうに、目を細めた。
「よかった」
それきり、ステラの瞼が、ゆっくりと閉じた。
腕の中の光が、また、弱く瞬いた。
空では、生まれ直したソラノの小さな星が、懸命に輝いていた。
その星の、ずっと北の空。
ハロウの星の、すぐ下の、何もない暗がりを。
リオは、なぜか、見上げずにはいられなかった。
――ステラの日記 十四日目・夜
『ステラは、ソラノの村を照らした。それから、とても静かに眠った。光が、いつもより弱い』




