第10話 星送りの戦い(前編)
剣を持たない者にも、守れるものがある。
それは、名前を呼ぶということ。
忘れられた誰かを、もう一度、この世界に呼び戻すということ。
松明の列は、まだ霧の壁の向こうにあった。
霧が、彼らの足を遅らせているのだろう。
リオたちが八百歩かけて歩いた白の中を、彼らも手探りで進んでいる。
――どれくらい、時間がある。
リオは、空を見上げた。
星は見えない。
時間を測るものが、何もない。
吸って、四つ。吐いて、四つ。
心臓の音で、数えるしかなかった。
「……逃げましょう」
リオの口から、そんな言葉がこぼれかけた。
星図を抱えて、ステラの手を引いて、村の反対側へ。
霧の中なら、きっと逃げ切れる。
北の天文台から、そうして逃げたように。
けれど。
リオの袖を、小さな手が握っていた。
ノアだった。
灰色の瞳が、まっすぐにリオを見上げていた。
怯えている。
震えている。
それでも、目を逸らしていなかった。
――おかあさん、わたしのなまえ、よんでくれる?
リオは、唇を噛んだ。
逃げたら、この村は、ずっとこのままだ。
ノアは、明日も、地面に名前を書き続ける。
霧に消されて、また書いて。
いつか、自分でも、その二文字を忘れてしまうまで。
「……ノア」
リオは、ノアの前にしゃがんだ。
「村のみんなは、集まってる?」
「……うん。ひろばに」
「わかった」
リオは、立ち上がった。
鞄を肩にかけ直す。
星図の、硬い革表紙の感触。
「今から、星を描きます」
「あの人たちが、ここに来る前に」
・ ・ ・ ✦ ・ ・ ✧
広場には、村の人たちが集まっていた。
三十人ほどだろうか。
老人も、子どもも、畑の男たちも、井戸の女も。
ノアが、ひとりひとりの手を引いて、連れてきたのだ。
誰も、なぜ呼ばれたのかわかっていなかった。
穏やかに微笑んで、ぼんやりと立っている。
霧の中の、影のように。
リオは、広場の中央の石畳に膝をついた。
星図を広げる。
『名を知らず』と添えられた、小さな点。
見送りの線が引かれた、もう空にない星。
その上に、星墨のペン先を置いた。
点を、丸く、ゆっくりと大きくしていく。
星墨が紙に染みた瞬間、藍色の底で、光の粒がふるりと震えた。
灰色の世界で、そこだけが、夜空の色をしていた。
そして、その傍らに。
見送りの線と、『名を知らず』の文字の、すぐ横に。
リオは、名前を書き入れた。
『ソラノ』
星墨の三文字が、ちかりと瞬いた。
広場の村人たちが、かすかにざわめいた。
「……次は、思い出です」
リオは、顔を上げた。
三十人の、穏やかな顔。
何も覚えていない顔。
ここから、思い出を引き出さなければならない。
松明の火が、門の向こうに、さっきより大きく見えていた。
「ステラ」
リオが呼ぶと、ステラはうなずいた。
光る足で、広場の真ん中に進み出る。
村人たちが、その光に、ふっと顔を上げた。
昨夜、窓辺に引き寄せられてきたときのように。
ステラは、ノアの母のほうを見た。
ノアの母は、村人たちの輪の中に立っていた。
胸の前で、手を握りしめて。
ステラが、小さく微笑んだ。
ノアの母も、それに応えるように、唇を開いた。
ふん、ふん、ふん、と。
言葉のない、子守歌の旋律。
そこに、ステラの澄んだ声が重なった。
『ねむれ ねむれ そらのの子』
『ほしが おまえの なを よぶよ』
霧が、ふるりと震えた。
村人たちの顔から、穏やかな微笑みが、すうっと消えていく。
代わりに浮かんだのは、戸惑いだった。
遠い何かを、思い出しかけている顔。
リオは、立ち上がった。
星墨の帳面を胸に抱いて、村人たちに向かって、はっきりと言った。
「この村の名前は、ソラノです」
「ここは、ソラノという村です」
「皆さんの、故郷の名前です」
沈黙が、落ちた。
それから。
「……ソラノ」
誰かが、呟いた。
軒下の老人だった。
昼間、「昔はあったような気も」と笑っていた老人。
その目に、涙がにじんでいた。
「……凧」
老人は、霧の空を見上げた。
「春になるとな、空の野で、凧を揚げたんだ」
「村じゅうの子どもが、自分で作った凧をな」
「赤いの、青いの、黄色いの……」
「空が、凧で埋まってなあ。まるで、昼間に咲いた星みてえだった」
「わしの凧が、いちばん高く揚がった年があってな……」
リオのペンが、走った。
『春の凧揚げ。空の野を、色とりどりの凧が埋めた。昼間に咲いた星のように』
書きつけた文字が、瞬いた。
「……井戸のそばで」
今度は、井戸の女だった。
両手で口を押さえて、震える声で。
「初めて、名前を呼ばれたの。あの人に」
「水を汲んでいたら、後ろから……」
「振り返ったら、真っ赤な顔をして、立ってた」
その隣で、畑の男のひとりが、鼻をすすった。
「……俺だ。それ、俺だ」
「おまえの名前を、どうしても呼びたくてな」
「三日、練習したんだ」
リオのペンが、走る。
『井戸のそばで、初めて名前を呼ばれた。三日、練習した、と彼は言った』
「麦の、穂がな」
「秋の祭りの、焚き火の夜……」
「礼拝堂の鐘の音が……」
思い出が、こぼれ始めた。
ひとつ、またひとつと。
霧の底に沈んでいた宝石が、子守歌に揺すられて、浮かび上がってくる。
リオは、書き続けた。
描き直した星の周りに、渦を描くように。
星図の上の夜空が、少しずつ明るくなっていく。
藍色の文字が、ひとつ、またひとつと紙から浮かび上がり、星の周りを巡り始める。
最後に、ノアの母が、前に進み出た。
ステラの隣で、まだ旋律を口ずさみながら。
その頬を、涙が伝っていた。
「……あの子が、生まれた夜」
ノアの母は、言った。
「わたし、窓辺で、あの子を抱いて、この歌を歌ったの」
「窓の外に、小さな星が見えたわ。この村の星」
「わたし、その星に向かって、この子の名前を教えたの」
「この子の名前を、どうか覚えていてねって」
「この子の、名前は……」
ノアの母の声が、途切れた。
唇が、震える。
その名前が、まだ、出てこない。
輪の外で、ノアが、両手を握りしめて立っていた。
唇を噛んで、泣くのをこらえていた。
リオは、ペンを走らせた。
『あの子が生まれた夜、窓辺で子守歌を歌った。村の星に、その子の名前を教えた』
名前の欄だけを、空けて。
あとで、きっと、そこに書き入れられると信じて。
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松明の火が、門をくぐった。
五つの火。
五つの、白い仮面。
黒い外套の裾が、霧の中を滑るように近づいてくる。
村人たちの歌が、途切れた。
ざわめきが、広場に広がる。
先頭の仮面が、広場の端で立ち止まった。
他の者よりも、細身の影だった。
仮面の下から、声がした。
女の声だった。
低く、冷たく、少しも揺らがない声。
「天文台守」
北の天文台で聞いた男の声と、同じ呼び方だった。
「星図を渡せ」
リオは、星図を胸に抱いたまま、動かなかった。
星図の上では、描き直した星と、巡る光の文字が、まだ淡く瞬いている。
あとは、名前を呼ぶだけ。
たった、それだけなのに。
「……渡しません」
声が、震えた。
「この村の名前を、今から、空に還すんです」
仮面の女は、広場の村人たちを見回した。
涙を流している老人を。
顔を覆っている井戸の女を。
戸惑いの表情を浮かべた、三十人の顔を。
「見ろ」
仮面の女は、言った。
「名を思い出しかけただけで、この者たちは泣いている」
「霧の中で、彼らは穏やかだった。争わず、悲しまず、静かに暮らしていた」
「名を戻せば、苦しみも戻る」
「失ったものを、失ったと知る苦しみが」
「それが、お前の言う救いか」
リオは、言葉に詰まった。
仮面の女の言うことは、間違っていなかった。
この村の人たちは、霧の中で、確かに穏やかだった。
今、思い出を取り戻しかけて、泣いている。
それでも。
リオは、輪の外に立つ、小さな影を見た。
ノアを。
三年間、たったひとりで、地面に名前を書き続けてきた少女を。
「……苦しみも」
リオは、言った。
「この人たちのものです」
「悲しいことも、つらいことも、全部、この人たちが生きてきた証です」
「それを、勝手に消していい人なんて、どこにもいない」
仮面の女は、しばらく黙っていた。
それから、小さく、ため息のような音を漏らした。
「……首領と、同じことを言う」
「え……?」
「ならば」
仮面の女は、右手を持ち上げた。
黒い手袋に覆われた、細い指。
その指先に、何かが、集まり始めた。
闇だった。
周りの光を吸い込んで、凝り固まっていく、黒い塊。
松明の火が、それに引き寄せられるように、ゆらりと傾いた。
リオは、それを知っていた。
北の天文台の観測室から、見上げた夜空で。
星を撃ち落とした、あの――
――黒い流星。
「その星図ごと、霧の底に沈め」
黒い塊が、鋭く尖った。
矢じりのように。
その切っ先が、まっすぐに、リオの胸元の星図へ向けられた。




