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星を数える仕事をしています ~閑職と笑われた最後の天文台守、消えた国を描き戻す旅に出る~  作者: 有馬 茶
第1部「星落ちの夜」

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第9話 名前のない村(後編)

言葉を失った子守歌に、言葉を返したのは。

この村を、一度も訪れたことのないはずの少女だった。

 

ステラは、竈のほうへ歩いていった。

光る足で、灰色の床を、一歩ずつ。

ノアの母が、鍋をかき混ぜる手を止めて、振り返った。

不思議そうに、首をかしげる。

「……どうしたの?」

ステラは、答えなかった。

ノアの母の隣に、そっと立った。

そして、旋律に合わせて、唇を開いた。

 

『ねむれ ねむれ そらのの子』

 

澄んだ声だった。

鈴を振るような、それでいて、どこか懐かしい声。

灰色の部屋の空気が、ふるりと震えた。

 

『ほしが おまえの なを よぶよ』

 

ノアの母の手から、木の匙が落ちた。

からん、と床で乾いた音を立てる。

 

『あしたの あさも なまえを よぼう』

『ねむれ ねむれ そらのの子』

 

歌が、終わった。

部屋の中が、しんと静まり返った。

竈の火だけが、ぱちぱちと小さく爆ぜている。

リオは、壁にもたれたまま、動けなかった。

ノアは、口を両手で覆って、立ち尽くしていた。

ノアの母は、ステラを見つめていた。

灰色の瞳が、大きく見開かれている。

その目尻から、ひと筋、涙がこぼれた。

「……そらのの、こ」

かすれた声で、呟いた。

「そらの……ソラノ」

「そう……そうよ。ソラノ」

「この村の名前。……ソラノ」

ノアの母は、両手で顔を覆った。

肩が、小さく震えている。

「どうして……どうして、忘れていたのかしら」

「毎晩、歌っていたのに」

「あの子に……ずっと、歌っていたのに」

あの子。

その言葉に、ノアが息を呑んだ。

ノアの母が、顔を上げる。

涙に濡れた目が、部屋の隅のノアを、とらえた。

何かを探すように。

遠い霧の向こうに、手を伸ばすように。

「……ノ」

唇が、震えた。

「ノ……」

ノアの全身が、こわばった。

三年間、一度も呼ばれなかった名前。

地面に書き続けてきた、二文字の名前。

ノアの母の唇が、もう一度、その形を作ろうとした。

けれど。

声は、そこで途切れた。

ノアの母は、困ったように眉を寄せた。

それから、また、あの穏やかな微笑みに戻ってしまった。

「……あら。ごめんなさいね」

「何か、言いかけたのだけれど」

ノアは、何も言わなかった。

ただ、ぎゅっと唇を噛んで、うつむいた。

その小さな肩を、リオは見ていられなかった。

 

 

     ・ ・ ・ ✦    ・ ・ ✧     

 

 

家の外に出ると、ステラは戸口の石段に座り込んでいた。

光る膝を抱えて、自分の唇に指を当てている。

「……ステラ」

リオが隣に座ると、ステラはゆっくりと顔を上げた。

夜空色の瞳が、戸惑いに揺れていた。

「わたし、どうして、しってたんだろう」

「あのうた」

「ここに、きたこと、ないのに」

「……わかりません」

リオは、正直に答えた。

ステラは、自分の胸に手を当てた。

いつか「からっぽのところがある」と言った、その場所に。

「ふしを、きいたら、ことばが、でてきたの」

「かんがえたんじゃ、ないの。かってに、くちから」

「むかし、だれかが、うたってくれた、きがする」

「だれか?」

「……わからない」

ステラは、首を振った。

「おとなの、こえじゃなかった。ちいさな、こえ」

「へたくそで、ちょっと、おんちで」

「でも、いっしょうけんめいで……」

ステラは、そこで言葉を切った。

霧の空を見上げる。

「……おもいだせない」

リオは、ステラの横顔を見つめた。

空から落ちてきた少女。

「くらくて、さむいところ」にいた少女。

この村の白い霧を、「しってる気がする」と言った少女。

そして、この村の子守歌を、知っていた少女。

ステラは、何者なのだろう。

ルミナという名の星は、どこの土地の星だったのだろう。

問いが、霧のように胸の中に立ちこめる。

けれど、今は。

リオは、ミラの帳面を開いた。

『□ ラ □』

看板の欠片。

『空の野に生まれ、空の野に還る』

墓石の欠片。

そして、今、三つ目の欠片を書き加える。

『ねむれ ねむれ そらのの子』

子守歌の欠片。

三つの欠片が、ひとつの名前を指していた。

星墨のペン先が、頁の真ん中に、その名を記す。

『ソラノ』

藍色の三文字が、霧の中で、静かに瞬いた。

「……見つけた」

リオは、呟いた。

「この村の、名前」

「ソラノ」

戸口の内側から、小さな足音が近づいてきた。

ノアだった。

目を真っ赤に泣き腫らして、それでも、まっすぐにリオを見ていた。

「……ソラノ」

ノアが、言った。

「わたしの、むら」

「わたしは、ソラノの、ノア」

言ってから、ノアは、その言葉を確かめるように胸に手を当てた。

「……リオ」

「なに?」

「なまえが、わかったら、ほし、もどせる?」

「おかあさん、わたしのなまえ、よんでくれる?」

リオは、ノアの灰色の瞳を見つめた。

ハロウで、ミラに「お願い」と言われたときと、同じ目だった。

「……戻します」

リオは、言った。

「必ず」

 

 

     ・ ・ ・ ✦    ・ ・ ✧     

 

 

星送りには、名前と、思い出と、星図が要る。

名前は、見つかった。

星図も、ある。

あとは、思い出だった。

この村の人たちの、ソラノで過ごした日々の思い出。

「でも、みんな、わすれてる」

ノアが、不安げに言った。

「なまえも、むかしのことも」

「……全部じゃないと思う」

リオは、ノアの家の窓を振り返った。

竈の前で、ノアの母が、まだ涙をぬぐっている。

「ノアのお母さんは、子守歌の節を、ずっと覚えてた」

「言葉は忘れても、ふしは残ってた」

「軒下のおじいさんも、ステラの光を見て、昔の星を思い出しかけてた」

「名前が消えても、思い出は、どこかに沈んでるんだ」

「ハロウの人たちも、そうだった」

埃をかぶった宝石箱の底に、眠っていたように。

誰かが蓋を開けてくれるのを、待っていたように。

「その蓋を開ける、鍵がいる」

リオは、ステラを見た。

「……あのうた?」

ステラが、首をかしげた。

「はい。それと、名前です」

「ソラノ、っていう名前を、みんなに聞かせるんです」

「子守歌と一緒に」

ノアの目が、輝いた。

「わたし、みんなを、よんでくる!」

「ひろばに、あつめる!」

そう言うが早いか、ノアは霧の中へ駆け出していった。

小さな背中が、白の中に溶けていく。

今夜。

今夜、星送りをする。

リオは、祖父の星図を広げた。

『名を知らず』と添えられた、見送りの線の引かれた小さな点。

この点の上に、星を描き直す。

その傍らに、名前を書き入れる。

ソラノ、と。

星墨の瓶の栓を抜こうとした、そのときだった。

「――リオ!」

ノアの声が、霧を裂いた。

悲鳴に近い声だった。

リオは、弾かれたように立ち上がった。

村の入り口のほうから、ノアが走ってくる。

転がるように。

顔が、真っ青だった。

「どうしたの!?」

「……むらの、そと」

ノアは、息を切らしながら、霧の向こうを指差した。

「門の、むこう」

「霧の、なかに……ひかりが、ある」

リオは、村の門のほうを見た。

霧の壁の、その向こう。

乳白色の帳の中に、にじむような橙色の光が、ぽつ、ぽつと浮かんでいた。

ひとつ。

ふたつ。

五つ。

松明の、火だった。

一列に並んで、ゆっくりと、こちらへ近づいてくる。

霧に音を吸われて、足音は聞こえない。

ただ、揺れる火だけが、確かに、近づいてくる。

「……あれ、だれ?」

ノアが、リオの袖を握りしめた。

「しろい、かおの、ひとたち……」

ステラが、リオの背中にしがみついた。

光る体が、小刻みに震えている。

北の天文台が燃えた朝と、同じ震えだった。

松明の灯りが、霧の中で揺れる。

その火に照らされて、白いものが、ちらりと浮かんだ。

顔のない、白い仮面。

――夜明けの徒。

星図を、追ってきたのだ。

リオは、鞄を胸に抱きしめた。

紺色の革表紙の、硬い感触。

今夜、星を描くはずだった、その星図を。

 

 

――ステラの日記 十四日目

『ステラは、知らないはずの子守歌を歌った。ノアのお母さんが、泣いた』

 

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