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星を数える仕事をしています ~閑職と笑われた最後の天文台守、消えた国を描き戻す旅に出る~  作者: 有馬 茶
第1部「星落ちの夜」

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第9話 名前のない村(前編)

名前は、消えても、どこかに影を落としている。

見えなくなった星が、それでも空にあるように。

その影を、ひとつずつ拾い集める。

それもまた、星を数えることに似ていた。

 

霧の中に、夜が来た。

灰色の空が、鈍い鉛色に、それから墨色に沈んでいく。

星のない夜だった。

村の広場で、リオは膝を抱えて座っていた。

隣には、淡く光り始めたステラ。

少し離れたところで、ノアが地面に名前を書いている。

『ノア』

『ノア』

霧が、それを撫でて消していく。

――名前のない村を、星に還すことはできない。

昼間から、その言葉が頭を離れなかった。

天文台守にも。誰にも。

「……リオ」

ステラが、リオの袖を引いた。

「ほし、みえないね」

「……はい。霧で、隠れてます」

「でも」

ステラは、霧の空を見上げた。

「みえなくても、そこに、あるんでしょ」

リオは、顔を上げた。

「……え」

「リオが、いってた。にっきに、かいてあったよ」

「ひるまも、ほしは、ちゃんと、そこにあるって」

二日目の朝。

朝日の中で星が消えていくのを見て、ステラは「みんな、きえちゃった」と怯えた。

リオは、祖父の言葉を借りて答えたのだ。

見えなくなるだけだ、と。

見えなくても、ちゃんとそこにある、と。

ステラは、もちろんそれを覚えていない。

けれど、毎朝リオが読む日記の中で、何度も聞いていた。

「この、むらの、なまえも」

ステラは、言った。

「みえなくなった、だけじゃない?」

「どこかに、まだ、あるんじゃない?」

リオは、ステラの顔を見つめた。

光る頬。夜空色の瞳。

何も知らないからこそ、まっすぐに投げかけられる問い。

――見えなくなっただけ。

リオは、ゆっくりと立ち上がった。

「……そうだ」

星は、消えても、星図に点が残る。

トレイユの名も、ハロウの名も、記録の中に残っていた。

なら、この村の名前も。

村の人たちの記憶からは消えても。

村の、どこかに。

石に、木に、紙に、歌に。

何かの形で、影を落としているかもしれない。

「探しましょう」

リオは、ステラとノアを振り返った。

「この村の、名前の欠片を」

 

 

     ・ ・ ・ ✦    ・ ・ ✧     

 

 

最初に、村の門へ向かった。

二本の門柱と、その間に垂れた錆びた鎖。

かつて、ここに看板が掲げられていたはずだ。

「ノア。この看板、覚えてる?」

ノアは、門柱を見上げて、眉を寄せた。

「……あった。木の、かんばん」

「霧がきてから、しばらくして、おちたの」

「おとなのひとが、どこかに、もっていった……」

「どこに?」

ノアは、首を振った。

「わからない。……でも、かわのほう、だったかも」

村の東側に、細い小川が流れていた。

水も、灰色だった。

音もなく、凍った時間の中をゆっくりと流れている。

岸辺には、背の高い葦が生い茂っていた。

リオはランプを掲げ、葦をかき分けて歩いた。

ステラも、光る手で、葦の根元を照らしてくれる。

ノアは、小枝で泥をつついている。

百歩。二百歩。

何も、見つからない。

三百歩を過ぎたとき。

「……リオ!」

ステラが、声を上げた。

葦の根元に、何かが埋もれていた。

泥にまみれた、古い板切れ。

リオは、膝まで泥に浸かって、それを引き上げた。

大人の腕ほどの長さの、厚い板だった。

両端が、斧で叩き割られたように砕けている。

真ん中のあたりに、彫り込まれた文字の跡があった。

リオは、袖で泥を拭った。

ランプの灯りに、かざす。

文字は、ほとんど削れていた。

霧に撫でられ続けて、輪郭が溶けている。

けれど、真ん中の一文字だけが、深く彫られていたせいか、かろうじて形を留めていた。

『ラ』

「……ラ」

リオは、その文字を、指でなぞった。

板の幅と、文字の大きさを比べる。

左右に、それぞれ一文字ずつ分の余白が、砕けて欠けている。

「三文字だ」

リオは、呟いた。

「この村の名前は、たぶん、三文字」

「真ん中が、『ラ』」

鞄から、ミラの帳面を取り出す。

星墨で、書きつけた。

『□ ラ □』

「……すごい」

ノアが、帳面を覗き込んで、息を呑んだ。

「なまえの、かけら」

「はい。ひとつ目の、欠片です」

リオは、少しだけ笑った。

星図に、最初の星をひとつ打ったような気持ちだった。

 

 

     ・ ・ ・ ✦    ・ ・ ✧     

 

 

二つ目の欠片を探して、村の裏手の小さな礼拝堂へ向かった。

真夜中だった。

礼拝堂の裏には、墓地があった。

灰色の墓石が、霧の中に、ぼんやりと並んでいる。

「……こわい?」

ステラが、ノアの手を握った。

ノアは、ふるふると首を振った。

「こわくない。おばあちゃんも、ここにいるから」

「おばあちゃんの、なまえは?」

「……わからない」

ノアは、少しだけうつむいた。

リオは、墓石をひとつずつ照らしていった。

墓石には、名前が刻まれているはずだった。

眠る人の名前と、生まれた村の名前が。

けれど、どの墓石の文字も、滲んでいた。

看板と同じだ。

霧に撫でられて、刻まれた溝さえも浅く、平らに均されている。

まるで、最初から何も刻まれていなかったかのように。

十。二十。三十。

どれも、読めない。

墓地の、いちばん奥。

古い糸杉の根元に、ひときわ古い墓石が、傾いて立っていた。

苔に覆われて、半分、土に埋もれている。

リオは、その苔を、指でそっと剥がした。

現れた文字を見て、息を止めた。

読めなかった。

滲んでいたからではない。

それは、この国の文字ではなかった。

細い線と点を組み合わせた、星の配置のような文字。

――星の言葉。

天文台守が、代々使ってきた古い言葉。

祖父の書斎にあった辞書に、載っていた文字。

「ステラ」という名前を、見つけた辞書。

あの辞書は、天文台と一緒に燃えてしまった。

けれど――

リオは、鞄から祖父の覚え書きを取り出した。

最後の数頁に、祖父が書き留めた、星の言葉の単語帳があった。

よく使う言葉だけを、ほんの少し。

墓石の文字と、単語帳を、ひとつずつ照らし合わせていく。

霧のせいだろうか。

この墓石の文字だけは、少しも滲んでいなかった。

まるで、星の言葉そのものが、霧に抗っているように。

「……この者」

リオは、ゆっくりと読み上げた。

「この者……『空』の……」

単語帳をめくる。

次の文字。

「……『野』」

「空の、野に、生まれ」

次の文字。

「空の、野に……還る」

リオは、墓石の前で、立ち尽くした。

『この者、空の野に生まれ、空の野に還る』

空の野。

星の言葉で、空は――「ソラ」と読む。

野は――「ノ」。

「……ソ、ラ、ノ」

呟いた瞬間、背筋が震えた。

帳面を、開く。

『□ ラ □』

三文字。

真ん中が、『ラ』。

「ソラノ」

もう一度、声に出した。

霧の中で、その名前が、かすかに響いた気がした。

「……ソラノ?」

ノアが、繰り返した。

灰色の瞳が、揺れている。

「それが、わたしの、むらの、なまえ?」

「……たぶん」

リオは、答えた。

答えてから、唇を噛んだ。

たぶん、では、いけないのだ。

祖父の覚え書きの、星送りの頁。

その隅に、小さく書き添えられていた一行を、リオは覚えていた。

『名は、一音たりとも違えてはならぬ』

『違えた名に、星は応えぬ』

看板の『ラ』と、墓石の『空の野』。

ふたつの欠片が、同じ名前を指しているように見える。

けれど、確かではない。

墓石の言葉が、村の名前ではなく、ただの祈りの言葉だったら。

看板の『ラ』が、まったく別の名前の一部だったら。

空の野。ソラノ。

あるいは、ソラヌ。ソラネ。ソラナ。

星の言葉の読み方も、地方によって少しずつ違う。

もし、一音でも違えば。

星は、応えない。

ノアの母は、ずっとノアを「あなた」と呼び続ける。

「……もうひとつ」

リオは、帳面を握りしめた。

「もうひとつ、欠片が要る」

「この名前が正しいって、確かめられる、何かが」

 

夜が明けても、霧の中に朝日は射さなかった。

白い太陽が、ただ、ぼんやりと浮かぶだけ。

ステラは、それでも東の空を見つめて、涙をこぼした。

「……あさ、なのに、まるくて、しろいだけ」

「それでも、きれい?」

リオが訊くと、ステラはうなずいた。

「うん。……でも、すこし、かなしい」

その日、三人は村じゅうを歩き回った。

井戸の縁石を調べた。

礼拝堂の古い鐘を調べた。

家々の扉に刻まれた、魔除けの印を調べた。

どれも、霧に溶けていた。

三つ目の欠片は、見つからなかった。

夕暮れが、また来た。

ノアの家に戻ると、竈の前で、ノアの母が鍋をかき混ぜていた。

その唇から、いつもの旋律がこぼれていた。

言葉のない、子守歌。

ふん、ふん、ふん、と。

リオは、疲れ切って、壁にもたれた。

ステラは、窓辺に座っていた。

日が沈み、その体が淡く光り始める。

そのとき。

ステラが、すっと立ち上がった。

リオは、顔を上げた。

ステラは、竈の前のノアの母を、まっすぐに見つめていた。

光る唇が、かすかに震えている。

「……このうた」

ステラが、言った。

「わたし、しってる」

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