↓ ↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
星を数える仕事をしています ~閑職と笑われた最後の天文台守、消えた国を描き戻す旅に出る~  作者: 有馬 茶
第1部「星落ちの夜」

この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

PR
16/24

第8話 白地の村(後編)

忘れないために、書く。

消えても、また書く。

それは、北の山の上で星を数えてきた少年と、同じ祈りだった。

 

「……リオ、です」

リオは、女の子の前にしゃがんで、答えた。

「リオ・アステル」

女の子の灰色の瞳が、大きく見開かれた。

「リオ」

確かめるように、繰り返す。

「リオ。……なまえ。ほんとの、なまえ」

「はい」

「わたしは、ステラ」

リオの後ろから、ステラが顔を出した。

「リオが、つけてくれたの」

女の子は、ステラを見上げた。

「ステラ」

それから、急に、ぽろりと涙をこぼした。

自分でも驚いたように、慌てて袖で拭う。

「……ごめんなさい」

「なまえ、ひさしぶりに、きいたから」

女の子は、地面の文字を指差した。

霧に撫でられて、半分消えかけた二文字。

「わたしは、ノア」

「……たぶん」

「たぶん?」

「おかあさんが、つけてくれたの」

「でも、おかあさんは、もう、おぼえてない」

「だから、わたしが、おぼえてないと」

ノアは、木の枝を握りしめた。

「わすれたら、きえちゃう気がするの」

「わたしが、わたしじゃなくなる気がするの」

リオは、地面に書かれた拙い文字を見つめた。

書いて、消えて、また書いて。

誰にも頼まれず。誰にも褒められず。

たったひとりで、毎日、毎日。

――記録しておくよ。

自分が、毎晩星に向かって言ってきた言葉。

この子は、自分の名前に向かって、同じことをしていたのだ。

「……すごいね」

リオは、心から言った。

「ノアは、ずっと、記録してたんだね」

「きろく?」

「忘れないように、書き残すこと」

「僕も、毎晩、星の名前を書いてるんだ」

ノアは、ぽかんとリオを見た。

それから、はにかむように、少しだけ笑った。

霧の中で初めて見る、色のある笑顔だった。

 

 

     ・ ・ ・ ✦    ・ ・ ✧     

 

 

ノアの家は、村の外れにあった。

小さな石造りの家。

戸口に、色の抜けた花の鉢がひとつ置かれている。

「おかあさん。おきゃくさん」

ノアが扉を開けると、竈の前にいた女性が振り返った。

三十過ぎくらいの、優しげな人だった。

灰色の前掛けで手を拭きながら、にこりと微笑む。

「まあ、いらっしゃい」

それから、ノアに向かって、同じ笑顔で言った。

「あなたも、いらっしゃい。旅の方のお連れ?」

リオは、息を呑んだ。

ノアは、何も言わなかった。

ただ、小さく首を横に振って、母親の横をすり抜けていった。

慣れた仕草だった。

何百回も、繰り返してきたように。

「……おかあさん、わたしのこと、ちゃんと、やさしくしてくれるの」

部屋の隅で、ノアがぽつりと言った。

「ごはんも、くれるし、ねるところも、くれる」

「でも、それは、わたしが、むすめだからじゃないの」

「この村のひとは、みんな、だれにでも、やさしいから」

ノアは、壁を指差した。

石の壁に、刃物で刻んだような線が、三本並んでいた。

「ふゆが、きたかず」

「霧がきてから、三回、ふゆがきた」

「さいしょのふゆは、まだ、おかあさん、わたしのなまえ、よんでくれてた」

「つぎのふゆには、ときどき、まちがえた」

「みっかめのふゆには……」

ノアの声が、途切れた。

リオは、壁の三本の線を、じっと見つめた。

この子もまた、数えていたのだ。

失っていくものを。

失わずにいるために。

「紙には、書かなかったの?」

リオが訊くと、ノアは首を振った。

「かいた。でも、霧が、けしちゃうの」

「インクで書いても、つぎのあさには、しろくなってる」

「じめんに、かくほうが、いい」

「きえても、すぐ、またかけるから」

リオは、鞄から星墨の小瓶を取り出した。

それから、ミラにもらった帳面の、最後の頁を破り取った。

星墨にペン先を浸す。

丁寧に、二文字を書いた。

『ノア』

藍色の文字が、霧の中で、かすかに瞬いた。

灰色の部屋で、そこだけが、夜空のように深い色をしていた。

「……え」

ノアが、目を丸くした。

「いろが、ある」

「星墨っていうんです。特別なインクで」

「霧に消されるかどうかは、わからないけど」

リオは、その紙をノアに手渡した。

「僕は、これを書いたから、ノアの名前を忘れない」

「たとえノアが、いつか忘れても」

「僕が、覚えてる」

ノアは、紙を両手で受け取った。

しばらく、藍色の二文字を見つめていた。

それから、紙を胸に抱きしめて、声を殺して泣いた。

三年分の涙だった。

 

その夜、ノアの母は、竈のそばで繕い物をしながら、歌を口ずさんでいた。

言葉のない、歌だった。

ふん、ふん、ふん、と。

旋律だけを、静かに、ゆっくりと。

「……あのうただけは」

ノアが、小さな声で言った。

「おかあさん、わすれてないの」

「ことばは、なくなっちゃったけど、ふしだけ、のこってるの」

「わたしが、ちいさいころ、ねるまえに、うたってくれたうた」

リオは、その旋律に耳を澄ませた。

優しい、揺りかごを揺らすような調べ。

霧の中にいても、そこだけは温かかった。

ふと見ると、ステラが、窓辺でじっと動かなくなっていた。

日はとうに沈み、彼女の体は淡く光り始めている。

その光る横顔が、旋律に聞き入っていた。

夜空色の瞳が、どこか遠くを見ていた。

 

 

     ・ ・ ・ ✦    ・ ・ ✧     

 

 

夜が更けると、不思議なことが起きた。

村の人たちが、ノアの家の前に、集まってきたのだ。

ひとり、またひとりと。

灯りも持たずに、霧の中を、ふらふらと。

窓辺で光るステラに、引き寄せられるように。

夜の灯に集まる、蛾のように。

「……ひかり」

軒下にいた老人が、呟いた。

昼間、名前を訊いても「昔はあったような気も」と笑っていた老人だった。

その目が、ステラの光を映して、かすかに揺れていた。

「むかし……こんな、ひかりが、あった」

「よるになると、そらに……」

老人は、霧に覆われた空を見上げた。

星は、ひとつも見えない。

霧が、空まで塗り潰している。

「……なんだったかなあ」

老人は、首をかしげた。

それきり、また穏やかな微笑みに戻ってしまった。

村の人たちは、しばらくステラを眺めていた。

それから、ひとり、またひとりと、霧の中へ帰っていった。

何事もなかったように。

何も、思い出さなかったように。

リオは、窓辺に立った。

霧の向こうの、見えない空を見上げる。

この村の人たちも、昔は星を見上げていたのだ。

この村の名前を預けた、小さな星を。

「ノア」

リオは、振り返って訊いた。

「この村の、名前は」

ノアは、首を横に振った。

「……しらない」

「わたし、ななつのとき、霧がきたの」

「じぶんのなまえは、かきつづけたから、のこった」

「でも、むらのなまえは……かいてなかった」

「きづいたら、もう、わからなくなってた」

リオは、ノアの母にも訊いた。

首をかしげて、微笑むだけだった。

翌朝、村じゅうを回って訊いた。

井戸の女も、畑の男たちも、子どもたちも。

誰ひとり、知らなかった。

門柱の看板は、ない。

祖父の星図には、『名を知らず』。

星墨で記されていない名前は、リオの記憶にもない。

この世界のどこにも、この村の名前は、残っていなかった。

日が傾き始めた頃、リオは村の広場に座り込んだ。

灰色の地面を、じっと見つめる。

昨日、ノアが名前を書いていた場所。

――星送りには、まことの名が要る。

ハロウを救えたのは、リオがその名を知っていたからだ。

毎晩、観測録に書き続けてきたからだ。

けれど、この村の名前は、誰も知らない。

名前がわからなければ、星は描けない。

描けなければ、空へ還せない。

ノアの母は、ずっと、ノアを「あなた」と呼び続ける。

ノアは、ずっと、地面に自分の名前を書き続ける。

いつか、ノア自身が、それを忘れてしまうまで。

「……リオ」

ステラが、隣に座った。

何も言わずに、リオの手を握った。

リオは、その手を握り返すことしかできなかった。

名前のない村を、星に還すことはできない。

天文台守にも。

誰にも。

 

 

――ステラの日記 十三日目

『ステラは、ノアと一緒に、地面に名前を書いた。霧が消しても、また書こうねと、約束した』

 

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。