第8話 白地の村(前編)
その村では、誰も、誰の名前も呼ばなかった。
呼ぶ名前を、もう誰も持っていなかったから。
それでも村人たちは、穏やかに笑っていた。
霧の壁の前で、リオは長いこと立ち尽くしていた。
近くで見ると、それは壁というより、滝のようだった。
乳白色の霧が、音もなく、空から地へと流れ落ちている。
いや、流れているように見えて、少しも動いていない。
時間ごと、凍りついてしまったように。
手を伸ばせば、触れられそうだった。
触れたら、二度と戻ってこられない気もした。
「……引き返して、別の道を探しましょうか」
リオは、地図を見下ろした。
街道は、この霧の中をまっすぐ貫いている。
迂回路は、山をひとつ越えなければならない。
何日も、余計にかかる。
「リオ」
ステラが、リオの手を取った。
「わたし、さきに、いく」
「え」
「こわくない。……たぶん」
ステラは、霧の壁を見上げていた。
夜空色の瞳が、乳白色を映して、淡く揺れている。
「なんだか、ね」
「この、しろいの。しってる、きがする」
「くらくて、さむいところと、すこし、にてる」
リオは、ステラの手を握り返した。
冷たい、小さな手だった。
「……一緒に、行きましょう」
「手、離さないでください」
「うん」
ふたりは、霧の中へ足を踏み入れた。
・ ・ ・ ✦ ・ ・ ✧
音が、消えた。
最初に感じたのは、それだった。
風の音も、鳥の声も、自分の足音さえも。
厚い綿にくるまれたように、遠く、くぐもって聞こえる。
次に、色が消えた。
足元の街道の土は、灰色だった。
道端の草も、灰色。
ステラの空色の襟巻きも、色の抜けた古い水彩画のように、淡くぼやけている。
見上げると、太陽が、白い円盤のように浮かんでいた。
眩しくない。
温かくもない。
ただ、そこに、紙を切り抜いて貼りつけたように。
「いち。に。さん……」
リオは、歩数を数え始めた。
数えていないと、どれだけ歩いたのかわからなくなる。
前も後ろも、右も左も、同じ白だった。
自分がまっすぐ歩いているのかどうかさえ、確かではない。
握ったステラの手だけが、確かだった。
百。二百。三百。
五百を過ぎた頃、白の向こうに、ぼんやりと影が浮かんだ。
石を積んだ、低い垣根。
その向こうに、屋根の連なり。
村だった。
八百十二歩目で、ふたりは村の入り口に立った。
門柱が、二本。
けれど、その上に掲げられているべき看板は、なかった。
門柱の間に、錆びた鎖が、だらりと垂れ下がっているだけだった。
村には、人がいた。
井戸のそばで、水を汲んでいる女。
畑で、灰色の麦を刈っている男たち。
軒下の長椅子で、日向ぼっこをしている老人。
路地を駆け回る、子どもたち。
どこにでもある、小さな村の昼下がりだった。
ただ、静かすぎた。
誰も、誰かを呼んでいない。
子どもたちは、鬼ごっこをしていた。
鬼が誰かを捕まえるたびに、きゃっと笑い声が上がる。
けれど、「待て!」も、「捕まえた!」も、名前を呼ぶ声も、ひとつもない。
ただ、笑い声だけが、霧の中に吸い込まれていく。
井戸の女が、リオたちに気づいた。
灰色の水桶を置いて、にこりと微笑む。
「まあ。旅の方?」
穏やかで、優しい声だった。
「……はい」
リオは、ためらいがちに頭を下げた。
「あの、ここは、何という村ですか」
女は、首をかしげた。
「むら……?」
「村の、名前です」
「なまえ」
女は、その言葉を、口の中で転がした。
遠い国の言葉を、思い出そうとするように。
「なまえ……というのは、なんでしたかしら」
リオの背筋が、冷たくなった。
女は、少しも困っていなかった。
申し訳なさそうに、ただ微笑んでいる。
忘れたことさえ、覚えていない顔だった。
「……あなたの、お名前は」
「わたしの?」
女は、自分の胸に手を当てた。
それから、くすりと笑った。
「わたしは、わたしですよ」
「それで、困ることはありませんもの」
軒下の老人にも、訊いた。
畑の男たちにも、訊いた。
答えは、どれも同じだった。
「さあ……昔は、あったような気もしますがねえ」
「名前? なくても、べつに」
「みんな、仲良くやってますよ。喧嘩もしない」
誰も、悲しんでいなかった。
誰も、苦しんでいなかった。
ハロウの人たちが、名前を失って泣いていたのとは、違う。
パン屋のマルタが、夫の名前を呼べずに顔を歪めていたのとは、違う。
ここの人たちは、もう、失ったことさえ忘れていた。
穏やかに。
静かに。
まるで、凪いだ水の底で暮らす、影のように。
「……リオ」
ステラが、リオの袖を握った。
「みんな、やさしい。でも……」
「さみしい、ね」
「……はい」
リオは、うなずいた。
この村の人たちは、きっと、もう寂しささえ感じていない。
だからこそ、寂しかった。
・ ・ ・ ✦ ・ ・ ✧
井戸の女は、空き家をひとつ貸してくれた。
「どうぞ。誰も住んでいませんから」
灰色の黒パンと、灰色の山羊の乳も分けてくれた。
どこまでも、親切だった。
リオは、空き家の卓の上に、祖父の星図を広げた。
ハロウから、街道を一日半、南へ。
その方角にあたる星を、探す。
北天第一区から、第二区へ。
ハロウの星。
そのすぐ下の、ルミナと書かれた、空にない星。
そして、さらに南寄りの、少し離れたところに。
小さな点が、ひとつ打たれていた。
見送りの線が、引かれている。
この星は、もう空にない。
けれど――
「……名前が、ない」
リオは、呟いた。
点の傍らに、名前が書かれていなかった。
代わりに、祖父の細い字で、小さくこう添えられていた。
『名を知らず』
リオは、その文字を、指でなぞった。
祖父でさえ、知らなかったのだ。
あまりに小さな村の、あまりに小さな星だったから。
名前を記録する前に、消えてしまったのかもしれない。
星墨で書かれていない名前は、リオも覚えていない。
村の人たちも、覚えていない。
――星送りには、まことの名が要る。
覚え書きの、最初の一行。
名前がわからなければ、星は描けない。
空へ、還せない。
「リオ。そと、みて」
窓辺にいたステラが、手招きした。
夕暮れが、近づいていた。
霧の中では、夕焼けも灰色だった。
白い太陽が、少しずつ鈍い鉛色に沈んでいく。
村の広場の、真ん中に。
小さな人影が、うずくまっていた。
女の子だった。
十歳くらいだろうか。
膝をついて、細い木の枝を握りしめている。
その枝で、灰色の地面に、何かを書いていた。
書いて。
消えて。
また、書いて。
リオは、空き家を出て、広場へ近づいた。
地面に書かれていたのは、文字だった。
たった二文字の、拙い文字。
『ノア』
女の子は、その二文字を、何度も、何度も書いていた。
書いたそばから、地を這う霧が、それを撫でて消していく。
砂の上の文字を、波がさらっていくように。
それでも、女の子は手を止めなかった。
『ノア』
『ノア』
『ノア』
枝を握る指先が、土で汚れて、ひび割れていた。
どれほど長い間、そうしてきたのだろう。
「……あの」
リオが声をかけると、女の子の手が止まった。
ゆっくりと、顔を上げる。
大きな、灰色の瞳だった。
霧の中で、その瞳だけが、くっきりと何かを見ていた。
穏やかに微笑む村の人たちとは、違う目だった。
怯えて、疲れて、それでもまだ、何かにしがみついている目。
女の子は、リオと、その後ろのステラを、じっと見つめた。
それから、かすれた声で、言った。
「……あなたたち」
「なまえ、ある?」




