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星を数える仕事をしています ~閑職と笑われた最後の天文台守、消えた国を描き戻す旅に出る~  作者: 有馬 茶
第1部「星落ちの夜」

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第7話 旅立ち(後編)

その夜、ハロウの山は、星空になった。

誰かがいつか「見てみたい」と言った、その願いを。

本人が忘れても、町じゅうが覚えていたから。

 

昼過ぎ、リオはステラを連れて、天文台の焼け跡へ登った。

千四百十二歩。

毎日数えてきた歩数が、今日は少しだけ長く感じた。

焼け跡は、まだかすかに燻っていた。

黒く煤けた石の塔が、空に向かって口を開けている。

円屋根のあった場所には、もう空しかなかった。

リオは、崩れた入り口から、中に足を踏み入れた。

床一面に、灰が積もっている。

踏むたびに、さくり、と乾いた音がした。

百年分の観測録の、なれの果てだった。

ステラは、入り口で立ち止まっていた。

今朝、リオが読んで聞かせた日記を、思い出しているのかもしれない。

燃える天文台を見て泣いた、と書いてあった、昨日の自分を。

「……ここ、リオの、おうち?」

「はい。……おうちでした」

観測室のあった場所に、溶けて歪んだ真鍮の残骸が転がっていた。

望遠鏡だった。

筒は熱でねじれ、三脚は折れ、もとの形をほとんど留めていない。

リオは、その前に膝をついた。

灰の中に、手を差し入れる。

指先に、何か硬いものが触れた。

丸くて、滑らかで、ひんやりとしたもの。

そっと、灰を払う。

レンズだった。

望遠鏡の、いちばん大きなレンズ。

真鍮の枠は焼けただれていたけれど、硝子は、ひびひとつ入っていなかった。

リオは、それを掌に載せて、空にかざした。

午後の青空が、レンズの中で丸く切り取られる。

祖父の膝の上で、初めて覗いた夜。

このレンズの向こうに、生まれて初めて見る星があった。

「……残ってた」

リオの声が、かすれた。

「ひとつだけ、残ってた」

ステラが、そばに来て、レンズを覗き込んだ。

夜空色の瞳が、硝子越しに大きく映る。

「きれい。……そら、まるい」

リオは、少しだけ笑った。

レンズを布に包んで、鞄の奥にしまった。

星見の丘の、祖父の墓は、炎に焼かれずに残っていた。

リオは、墓石の前に立った。

「おじいちゃん」

風が、丘の草を揺らしていく。

「天文台、守れなかった」

「……ごめんなさい」

返事は、ない。

リオは、胸のポケットから銀の懐中時計を取り出した。

止まったままの針。

蓋の裏の、真鍮の鍵。

「でも、星図は守ったよ」

「おじいちゃんの覚え書きも」

「それから――」

隣に立つステラを、見た。

「ステラのことも、守る」

「だから、行ってくる」

「始まりの天文台に」

風が、強く吹いた。

丘の草が、一斉に波打った。

背中を押されたような気がした。

 

 

     ・ ・ ・ ✦    ・ ・ ✧     

 

 

夕方、館に戻ると、ミラが玄関で待ち構えていた。

旅支度が、すっかり整えられていた。

丈夫な革の背嚢がふたつ。

厚手の外套。

替えの靴。

干し肉と、固焼きのパンと、水筒。

「父様の書斎から、地図も持ってきたわ」

ミラは、折り畳んだ大きな羊皮紙を差し出した。

「王国全土の地図。大陸の真ん中までは載ってないけど、途中までなら」

「……ミラ、これ」

「それから、これ」

ミラは、ステラの首に、何かを巻きつけた。

淡い空色の、毛織りの襟巻きだった。

「母様の、形見」

「え……」

「夜は冷えるでしょ。あなた、光ってるくせに寒がりなんだから」

ステラは、襟巻きに頬をうずめた。

「……あったかい。いい、におい」

「でしょ」

ミラは、少しだけ得意げに笑った。

それから、ふたりの背中を押した。

「さあ、行きましょう」

「え、ミラも一緒に……?」

「町の門までよ。見送りくらい、させなさい」

日が沈みかけていた。

西の空が、茜色から菫色へと移ろっていく。

ステラの指先が、淡く光り始めた。

町の大通りを、門へ向かって歩く。

妙だった。

通りに、人の姿がない。

窓にも、灯りがひとつもともっていない。

パン屋も、閉まっていた。

「……みんな、どこに」

リオが言いかけたとき、ミラが足を止めた。

町の門の前だった。

「リオ。ステラ」

ミラは、門の外を指差した。

「振り返って。山を、見て」

リオとステラは、振り返った。

ハロウの町の、その向こう。

暮れなずむ空を背に、黒々とそびえる、ハロウの山。

その山肌に。

ひとつ、灯りがともった。

山の中腹の、のぞみ坑の入り口。

灯籠の、橙色の灯り。

それを合図にしたように。

ふたつめが、ともった。

みっつめが。

よっつめが。

山の上から、下から、右から、左から。

閉ざされていたはずの坑道の入り口に、次々と灯りがともっていく。

板を外され、何年かぶりに口を開けた坑道の奥から。

小さな灯籠の光が、ひとつ、またひとつと、こぼれ出していく。

山が、光っていた。

無数の灯りが、黒い山肌に散らばっている。

それは、まるで――

「……ほしぞら」

ステラが、呟いた。

「やまが、ほしぞらに、なってる」

夜空と、山の灯りとの、境目がわからなかった。

空の星が山に降りてきたのか。

山の灯りが、空へ昇っていこうとしているのか。

どこまでが空で、どこからが地上なのか。

そこには、ただ、星があった。

天と地を埋め尽くす、ひとつながりの星空があった。

「灯籠まつり」

ミラが、静かに言った。

「町のみんなで、坑道を開けたの。一日がかりで」

「……どうして」

「トビとリリがね、言ったのよ」

「ひかるおねえちゃんが、見たいって言ってたからって」

リオは、息を呑んだ。

――みてみたかったな。ほしぞらの、やま。

あの日、井戸のそばで、ステラが呟いた言葉。

リオは、日記に書いていた。

けれど、ステラ本人は、もう覚えていない。

覚えていたのは、あの兄妹だった。

町の人たちだった。

山道のほうから、ざわめきが近づいてきた。

ランタンを手にした町の人たちが、坂を下りてくる。

トビとリリが、先頭を駆けてくる。

「ひかるおねえちゃん!」

「見えた!? ぴかぴか、見えた!?」

ステラは、答えられなかった。

両手で口を覆って、山を見つめたまま。

その夜空色の瞳から、涙があふれていた。

ぽろぽろと、止まらずに。

「……きれい」

ようやく、声が出た。

「きれい、すぎて……」

リリが、ステラの手をつかんだ。

「なんで泣いてるの?」

「……わからない」

ステラは、泣きながら笑った。

「わたし、みたいって、いったこと、おぼえてない」

「でも、みんなが、おぼえててくれた」

「それが……うれしくて」

 

町の人たちが、ふたりを囲んだ。

マルタが、パンの包みを背嚢に押し込んでくる。

「ちゃんと食べるんだよ。痩せて帰ってきたら承知しないからね」

ヨハンが、無言で黒パンをもうひとつ足した。

老鉱夫が、小さな銀のかけらをリオの手に握らせた。

「のぞみ坑の、最初の銀だ。お守りにせい」

領主バルトロが、ずっしりと重い財布を差し出した。

「天文台の手当ての、前払いだ。……帰ってきたら、新しい天文台を建てよう」

リオは、ひとつひとつに頭を下げた。

言葉が、うまく出てこなかった。

最後に、ミラが前に出た。

腕を組んで、いつものように、少し高いところからリオを見下ろして。

「リオ」

「……はい」

「あなたが、星を数えてたこと」

「ハロウの星を、呼んでくれたこと」

「わたしたちは、ずっと覚えてる」

ミラの声が、震えた。

「あなたが忘れても、わたしたちが覚えてる」

「ハロウは、あなたを覚えてる」

「だから――」

ミラは、ぐいと袖で目元をぬぐった。

「必ず、帰ってきなさい」

「この町の星を、ちゃんと、数えに」

リオは、まっすぐにミラを見た。

「……はい」

「必ず」

 

 

 ・ ・ ・ ✦   ・ ・ ・ ✧   ・ ・ ・ ・ ✦   ・ ・ ✧   ・ ・ ・ ✦ 

 

 

ふたりは、南へ続く街道を歩いた。

何度も、振り返った。

そのたびに、山の灯りは、少しずつ小さくなっていった。

それでも、いつまでも消えなかった。

丘をひとつ越えても。

林をひとつ抜けても。

夜空の端に、地上の星空が、小さく、確かに瞬いていた。

リオは、歩きながら、その灯りを数えた。

百十二。

ハロウの山の、坑道の数だった。

ひとつ残らず、灯っていた。

真夜中、街道脇の古い木の下で、野宿をした。

ステラは、ミラの襟巻きに顔をうずめて、すぐに眠ってしまった。

リオは、ミラにもらった新しい帳面を開いた。

最初の頁に、星墨で日付を書いた。

それから、見上げた夜空の星を、目で数え始めた。

望遠鏡はない。

いつもの観測室も、もうない。

それでも、星はそこにあった。

昨日と同じように。

祖父と見上げた夜と、同じように。

 

翌朝、ステラの涙で、目が覚めた。

いつものように、朝日を見て泣いていた。

昨夜、山の星空を見て泣いたことは、もう覚えていない。

リオは、日記を読み聞かせながら、街道を歩いた。

昼を過ぎた頃、道は、なだらかな谷へと下っていった。

ミラの地図によれば、この先は小さな村をいくつか抜けて、南の宿場町へ続いているはずだった。

谷の底に着いたとき、リオは足を止めた。

「……リオ」

ステラが、袖を引いた。

「あれ、なに?」

街道の、ずっと先。

谷を横切るように。

白い壁が、そびえていた。

霧だった。

地を這うのではない。

空まで届くほど高く、垂直に切り立った、乳白色の霧の壁。

風が吹いても、少しも揺らがない。

陽の光さえ、跳ね返している。

街道は、まっすぐに、その白の中へと吸い込まれていた。

リオは、ミラの地図を広げた。

街道をたどる指が、谷の底で止まる。

地図の上の、この場所には。

何も、描かれていなかった。

村も、川も、丘も。

街道の線だけが、白い余白の中を、ぷつりと途切れるまで続いていた。

――白地。

ハロウの外れに迫っていた、あの霧と同じもの。

星の落ちた土地が、沈む白。

けれど、あれよりも、ずっと深い。

ずっと、古い。

 

 

――ステラの日記 十一日目

『ステラは、星空になった山を見た。見たいと言ったことは、覚えていなかった。でも、ハロウのみんなが覚えていた』

 

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