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星を数える仕事をしています ~閑職と笑われた最後の天文台守、消えた国を描き戻す旅に出る~  作者: 有馬 茶
第1部「星落ちの夜」

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第7話 旅立ち(前編)

家を失った夜、リオは生まれて初めて、星を数えなかった。

数えた星を、書き留める場所が、もうどこにもなかったから。

 

ハロウの人たちが駆けつけたのは、炎がおさまりかけた頃だった。

山の上から立ちのぼる黒い煙を、町じゅうが見ていたのだ。

先頭を走ってきたのは、ミラだった。

赤い髪を振り乱し、裾を泥だらけにして。

その後ろに、バケツを抱えたヨハンと、鶴嘴を担いだ老鉱夫。

息を切らした領主と、町の男たちが続いた。

「リオ……!」

ミラは、焼け跡の前で立ち止まった。

黒く焼け焦げた石の塔。

崩れ落ちた円屋根。

くすぶる煙の向こうに、溶けて歪んだ真鍮の残骸が見える。

「……なによ、これ」

ミラの声が、震えた。

「なんで、こんな……」

それから、星見の丘に座り込むリオとステラを見つけた。

駆け寄ってくる。

リオの前に膝をつき、両肩をつかんだ。

「怪我は!? どこか、痛いところは!?」

「……ありません」

「ステラは!?」

「だいじょうぶ」

ステラが、小さく答えた。

ミラは、ふたりの顔を交互に見た。

それから、唇を噛みしめて、リオの胸を拳で叩いた。

一度。

二度。

力のない拳だった。

「……よかった」

ミラの目から、涙がこぼれた。

「生きてて、よかった……」

リオは、何も言えなかった。

ただ、胸に当てられたミラの拳の温もりだけを、感じていた。

 

領主は、ふたりを館に迎え入れた。

「好きなだけいればいい。部屋なら、いくらでもある」

バルトロ・ハロウェルは、汗を拭きながら、何度もそう言った。

マルタは、焼きたてのパンを山ほど届けてくれた。

町の子どもたちは、窓の外から心配そうに覗き込んでいた。

誰もが、優しかった。

その優しさが、リオには、少しだけ遠かった。

 

 

     ・ ・ ・ ✦    ・ ・ ✧     

 

 

その夜。

領主館の客間は、リオが今まで見たどの部屋よりも広かった。

天蓋のついた寝台。

分厚い絨毯。

暖炉の火が、ぱちぱちと静かに爆ぜている。

ステラは、寝台の上で丸くなって眠っていた。

淡く光る体を、柔らかな羽根布団に埋めて。

今日一日のことは、もう、半分も覚えていないのだろう。

リオは、窓辺に立っていた。

分厚い硝子の向こうに、夜空が広がっている。

今夜も、よく晴れていた。

星が、数えきれないほど瞬いていた。

数えようとして――指が、動かなかった。

数えても、書き留める観測録がない。

確かめる星図の写しも、焼けてしまった。

望遠鏡も、もうない。

祖父の膝の上で、初めて星を覗いたあの真鍮の筒も。

毎晩、当たり前のように繰り返してきたことが。

今夜は、何ひとつ、できなかった。

扉が、小さく叩かれた。

「……起きてる?」

ミラだった。

湯気の立つ茶器を、盆に載せて持っている。

「眠れないだろうと思って」

ミラは、窓辺の小さな卓に茶器を置いた。

香草の、甘い匂いがした。

ふたりは、窓辺の椅子に並んで座った。

しばらく、どちらも何も言わなかった。

暖炉の火が、爆ぜる。

ステラの寝息が、かすかに聞こえる。

「……数えないの?」

ミラが、ぽつりと言った。

「星。毎晩、数えてたんでしょ」

「……数えても、書く帳面がないんです」

リオは、膝の上で手を握った。

「全部、燃えてしまいました」

「百年分の記録が、全部」

ミラは、何も言わなかった。

それから、立ち上がって、部屋を出ていった。

戻ってきたとき、その手には一冊の帳面があった。

上質な革の表紙。

まだ、一頁も書かれていない。

「父様の書斎から、持ってきたの」

ミラは、それをリオの膝の上に置いた。

「勝手に持ってきたけど、父様なら許してくれるわ」

「……これ」

「書けばいいじゃない」

ミラは、そっぽを向いて言った。

「百年分は燃えちゃったかもしれないけど」

「今夜の分から、また始めればいいでしょ」

リオは、帳面を見下ろした。

真っ白な、最初の頁。

指先で、そっと撫でる。

「……ありがとう、ミラ」

「別に。お礼を言われることじゃないわ」

いつもの言葉だった。

けれど、その声は、いつもより少しだけ柔らかかった。

リオは、鞄から星墨の小瓶を取り出した。

窓の外の星を見上げる。

ひとつ。ふたつ。三つ。

望遠鏡がなくても、目で見える星だけでも。

数え始めると、指が、ようやく動いた。

 

「……ねえ」

星を数えるリオの横で、ミラが言った。

「今朝の、仮面の人たち」

「あなたの名前を、知ってたんでしょう」

リオの手が、止まった。

丘の上に立っていた、欠けた仮面の男。

煙の向こうから届いた、低い声。

――また会おう、リオ。

「……知り合い、なの?」

「知りません」

リオは、首を横に振った。

「あんな人、見たこともない」

けれど。

あの声を、どこかで聞いたことがある気がした。

ずっと昔に。

自分の名前を、あんなふうに、低く、少し不器用に呼ぶ声を。

祖父ではない。

祖父の声は、もっと嗄れていて、温かかった。

だとしたら――

リオは、ふと、ひとりの顔を思い浮かべかけた。

輪郭のぼやけた、少年の横顔。

自分より、ずっと背が高かった。

いつも星図を広げて、難しい顔をしていた。

――兄さん。

七年前、リオが八つのときに。

旅先で死んだと、祖父から聞かされた。

顔も、声も、もうほとんど覚えていない。

「……リオ?」

ミラの声で、我に返った。

リオは、小さく首を振った。

「なんでもないです」

いるはずがない。

兄さんは、もういないのだから。

 

 

     ・ ・ ・ ✦    ・ ・ ✧     

 

 

ミラが部屋を出ていったあとも、リオは眠らなかった。

暖炉の灯りの下で、祖父の覚え書きを、最初の頁から読み直した。

あの仮面の者たちは、祖父の星図を知っていた。

紺色の革表紙だと、知っていた。

なら、また来る。

必ず、取り戻しに来る。

そのとき、自分がハロウにいたら。

今度燃えるのは、この館かもしれない。

マルタのパン屋かもしれない。

リオは、頁をめくり続けた。

名星のこと。星墨のこと。白地のこと。

星送り。落星術。

そして、覚え書きの、いちばん最後の頁。

そこに、他の頁よりも古びた文字で、こう書かれていた。

『始まりの天文台について』

リオは、ランプを引き寄せた。

『千年前、世界はあらゆる名を失いかけた』

『そのとき、初代の天文台守が、土地の名を星として空に預けた』

『その最初の天文台が、大陸の中央、霧の山脈の向こうに在るという』

『そこには、原星図が収められている』

『空に預けられた、すべての名の原図』

『消えた星の名さえも、そこには記されているという』

リオの心臓が、大きく跳ねた。

消えた星の名さえも。

――ルミナ。

空のどこにもない星。

祖父の星図にだけ書かれた、角ばった字の名前。

もし、原星図に、その名があるなら。

その星が、どこの土地の星だったのか、わかるかもしれない。

そして――

リオは、寝台を振り返った。

淡く光る、銀の髪。

空から落ちてきた、名前のない少女。

ステラの、本当の名前も。

覚え書きの最後の一行は、祖父の字だった。

細くて、右肩上がりの、癖のある字。

けれど、いつもより、少しだけ弱々しい。

『天文台守の務めを継ぐ者は、いつか、そこを訪れよ』

『わしは、ついに行けなかった』

『リオ。お前は、行け』

リオは、その一行を、何度も読み返した。

自分の名前が、そこにあった。

祖父が、自分に宛てて書いた言葉が。

「……リオ?」

寝台から、眠そうな声がした。

ステラが、光る目をこすりながら、身を起こしていた。

「まだ、おきてるの?」

「……ステラ」

リオは、覚え書きを閉じた。

そして、寝台のそばに膝をついた。

「ステラの、本当の名前が、わかるかもしれない場所があるんです」

ステラは、まばたきをした。

「ほんとうの、なまえ?」

「遠いです。大陸の、真ん中です」

「何日も……何十日も、かかるかもしれない」

ステラは、しばらく黙っていた。

光る指先で、自分の胸に触れる。

いつか、「からっぽのところがある」と言った、その場所に。

「……いきたい」

ステラは、まっすぐにリオを見た。

「わたし、しりたい。わたしが、だれなのか」

「リオと、いっしょに」

 

翌朝、リオはミラにそれを告げた。

旅に出ます、と。

ミラは、何も言わなかった。

長い間、リオの顔をじっと見ていた。

それから、くるりと背を向けた。

「……ばか」

それだけ言って、部屋を出ていこうとする。

扉の前で、立ち止まった。

振り返らないまま、言った。

「今日の夕方まで、待ちなさい」

「……え」

「絶対に、黙って行ったりしないで」

「行ったら、一生許さないから」

扉が、ばたんと閉まった。

廊下を駆けていく足音が、遠ざかっていく。

リオとステラは、顔を見合わせた。

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