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星を数える仕事をしています ~閑職と笑われた最後の天文台守、消えた国を描き戻す旅に出る~  作者: 有馬 茶
第1部「星落ちの夜」

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第6話 黒い流星(後編)

その朝、北の天文台は燃え落ちた。

百年分の夜空と、一緒に。

 

「ステラ。起きてください」

リオは、膝の上のステラの肩を揺すった。

ステラは、ぼんやりと目を開けた。

夜明け前の、まだ光の残る指で、目をこする。

「……あさ?」

「まだです。でも、誰か来ます」

リオの声の硬さに、ステラの目が覚めた。

天窓から、外を覗く。

松明の列は、もう天文台のすぐ下まで来ていた。

七つの火。

七つの、白い仮面。

黒い外套の裾が、夜明けの風にはためいている。

仮面には、顔がなかった。

目の部分に、細い切れ込みがあるだけ。

口も、鼻も、表情も、何もない。

まるで、名前を削り取った墓石のようだった。

「……こわい」

ステラが、リオの袖を握った。

昨夜、黒い流星を見たときと、同じ震えだった。

「大丈夫です」

リオは、そう言うしかなかった。

吸って、四つ。吐いて、四つ。

数えても、心臓の音はおさまらなかった。

扉を叩く音がした。

三度。

ゆっくりと、礼儀正しく。

それが、かえって恐ろしかった。

「天文台守」

扉の向こうから、声がした。

男の声だった。

仮面越しの、くぐもった、感情のない声。

「星図を渡せ。そうすれば、誰も傷つかない」

リオは、階段の上で立ち尽くした。

星図。

祖父の星図。

何代もの天文台守が、書き継いできた夜空。

「……あなたたちは、誰ですか」

声が、震えた。

扉の向こうで、短い沈黙があった。

「我らは、夜明けの徒」

「名を捨て、名のない夜明けを待つ者だ」

「……星を撃ち落としているのは、あなたたちですか」

答えは、なかった。

沈黙が、答えだった。

「どうして」

リオは、叫んでいた。

「星が消えたら、そこに住んでる人たちは、名前を失うんです!」

「家族の名前も、自分の名前も、呼べなくなるんです!」

「それが、救いだ」

扉の向こうの声は、揺らがなかった。

「名があるから、人は奪い合う」

「名があるから、国境が引かれ、戦が起きる」

「名を失った者は、もう誰とも争わない」

「……名前がなかったら」

リオの声が、かすれた。

「誰も、誰かを、呼べない」

答えの代わりに、扉が軋んだ。

蝶番が、外から壊される音がした。

 

 

     ・ ・ ・ ✦    ・ ・ ✧     

 

 

「ステラ、こっちです!」

リオは、ステラの手を引いて、観測室へ駆け上がった。

机の上の鞄に、手当たり次第に詰め込む。

紺色の革表紙の、祖父の星図。

祖父の覚え書き。

『ステラの日記』。

星墨の小瓶。

銀の懐中時計は、もう胸のポケットに入っている。

それ以上は、入らなかった。

振り返ると、壁一面の書棚があった。

何十冊もの観測録。

祖父の、祖父の祖父の、そのまた前の天文台守たちの。

毎晩、欠かさず書き継がれてきた、百年分の夜空。

全部は、持っていけない。

ひとつも、持っていけない。

「リオ!」

ステラの声で、我に返った。

階下で、重い足音がする。

書棚を荒らす音。

本が、床に叩きつけられる音。

「星図は、これではない」

「探せ。先代が使っていた、紺の革表紙のものだ」

――知っている。

あの人たちは、祖父の星図のことを、知っている。

「見つからぬなら」

仮面の男の声が、階段を上ってきた。

「すべて、燃やせ」

「記録が残る限り、星は描き戻される」

松明の火が、投げ込まれる音がした。

乾いた紙が、一斉に燃え上がる音。

焦げた匂いが、階段を這い上がってくる。

「……やめて」

リオの喉から、声が漏れた。

「やめて、それは……!」

「リオ!」

ステラが、リオの腕を強く引いた。

光の薄れかけた手で、驚くほどの力だった。

「いこう。いかなきゃ」

ステラは、まっすぐにリオを見ていた。

夜空色の瞳が、炎の色に揺れている。

「リオが、もえちゃう」

リオは、唇を噛んだ。

書棚に背を向ける。

観測室の、回廊へ続く扉を開けた。

冷たい夜明けの風が、頬を打った。

円屋根の外を巡る石の回廊。

その端に、鉄の梯子がある。

祖父が屋根の修理に使っていた、古い梯子。

天文台の裏手、星見の丘へ下りられる。

「先に、行ってください」

ステラを先に下ろし、リオも梯子に足をかけた。

下りながら、最後に一度だけ、観測室を振り返った。

天窓の向こうに、真鍮の望遠鏡が見えた。

毎晩、一緒に星を数えた望遠鏡。

祖父の膝の上で、初めて覗いた望遠鏡。

煙が、それをゆっくりと呑み込んでいった。

 

 

     ・ ・ ・ ✦    ・ ・ ✧     

 

 

星見の丘に駆け上がったとき、炎は円屋根まで届いていた。

リオとステラは、祖父の墓石の陰に身を伏せた。

息が切れて、うまく吸えない。

四つ、数えることもできなかった。

天文台が、燃えていた。

石の塔の窓という窓から、赤い舌が這い出している。

白い円屋根が、内側から焼かれて、黒く煤けていく。

そして――崩れた。

円屋根が、悲鳴のような軋みを上げて、内側へ落ちていく。

火柱が、夜明けの空へ噴き上がった。

無数の火の粉が、舞い上がる。

赤く、金色に、光りながら。

その中に、白いものが混じっていた。

紙だった。

燃えながら、熱風に巻き上げられていく、無数の頁。

観測録の頁だった。

縁を炎に縁取られて、ひらひらと、空へ昇っていく。

まるで、流星群だった。

地上から天へと、逆さまに降る流星群。

百年分の夜空が、火の粉になって、空へ還っていく。

リオは、それを見ていた。

声も出なかった。

涙も、出なかった。

ただ、頁が一枚昇るたびに、胸の中で何かが数えていた。

一枚。二枚。三枚。

祖父の字。祖父の祖父の字。顔も知らない誰かの字。

毎晩、毎晩、星を数えて、名前を呼んで、書き留めてきた人たちの。

――山の上の古い建物と、誰も読まない帳面だけじゃない。

いつか聞いた言葉が、耳の奥で響いた。

今、その建物も、帳面も、燃えていく。

何も、残らない。

「……リオ」

手を、握られた。

ステラだった。

夜が明けて、彼女の光はもう消えかけていた。

それでも、その手は温かかった。

東の空から、朝日が昇り始めていた。

山の端から、金色の光があふれ出す。

毎朝、ステラが泣いて見つめる、あの光。

今朝の朝日は、燃える天文台の煙に滲んで、赤く濁っていた。

ステラは、朝日を見なかった。

リオの顔だけを、見ていた。

その頬を、涙が伝っていた。

「……ステラ」

「きれいだから、じゃない」

ステラは、ぽろぽろと泣きながら言った。

「リオが、ないてないから」

「リオが、なけないから、わたしが、なくの」

リオの視界が、ようやく滲んだ。

熱いものが、堰を切ったように頬を伝い落ちる。

リオは、墓石にすがって、声を殺して泣いた。

ステラは、ずっと手を握っていてくれた。

 

どれくらい、そうしていただろう。

炎の勢いが、少しずつ衰えていく。

黒い煙が、朝の空に細く長くたなびいている。

仮面の者たちの姿は、もう見えなかった。

松明の列が、山道を下っていくのが遠くに見える。

――行った。

リオは、ゆっくりと顔を上げた。

そのとき。

背後で、草を踏む音がした。

リオは、凍りついた。

ゆっくりと、振り返る。

丘の稜線に、ひとりの男が立っていた。

背の高い男だった。

黒い外套が、朝の風にはためいている。

他の者たちと、同じ装い。

けれど、仮面だけが違っていた。

白い仮面の、右半分が、欠けている。

三日月のように。

欠けた部分は、黒い布で覆われていた。

男は、リオを見ていなかった。

祖父の墓石を、見ていた。

長い間。

朝日を背に受けて、身じろぎもせずに。

やがて、仮面の奥の視線が、リオに移った。

リオは、鞄を胸に抱きしめた。

星図の、硬い革表紙の感触。

渡さない。

これだけは、絶対に。

男は、近づいてこなかった。

ただ、静かに言った。

「その星図は、お前には重すぎる」

扉の向こうの声とは、違っていた。

もっと低くて、もっと、どこか――懐かしい響きの声。

「置いていけ。そうすれば、追わない」

「……いやです」

リオは、首を横に振った。

震える声で、それでもはっきりと。

「これは、おじいちゃんの……天文台守の、星図です」

男は、しばらく黙っていた。

仮面の切れ込みの奥で、何かが揺れた気がした。

「……そうか」

男は、背を向けた。

黒い外套が、朝日の中に翻る。

煙の向こうへ、歩き去っていく。

リオは、その背中を見つめていた。

見つめながら、ひとつのことに気づいて、息が止まった。

――天文台守、としか、名乗っていない。

扉の向こうの男も、自分を「天文台守」と呼んだ。

リオ・アステル、とは、一度も名乗っていない。

なのに。

煙の向こうから、声が届いた。

振り返らないまま。

風に、溶けるように。

「――また会おう、リオ」

 

 

――ステラの日記 十日目

『ステラは、燃える天文台を見て泣いた。きれいだから、じゃなかった』

 

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