第6話 黒い流星(前編)
その流星は、黒かった。
夜空を裂いて昇っていく、墨を流したような一筋の影。
それが星に届いた瞬間、星は砕けて、落ちた。
一晩に三つの星が消えてから、リオは眠らなくなった。
正確には、眠れなくなった。
日が沈むと観測室に上がり、夜明けまで望遠鏡の前を離れない。
星を数え、名前を確かめ、また数える。
昼間は、台所の椅子でうとうとするだけだ。
「リオ。ねむい、かお」
朝、日記を読み終えたあとで、ステラが言った。
「……大丈夫です」
「だいじょうぶじゃ、ない、かお」
ステラは、リオの目の下を、そっと指でなぞった。
隈が、くっきりと浮いていた。
「ほし、また、きえた?」
「……昨日の夜は、ひとつ」
二晩で、四つ。
祖父の記録なら、半年かけて見送る数だった。
消えた星の名前は、どれも知らない土地のものだった。
東の果ての港町。西の山脈の麓の村。南の平原の、小さな宿場。
星図に名前があるだけの、遠い場所。
それでも、リオは見送りの線を引くたびに、胸が冷えた。
そこにも、パン屋の夫婦がいたかもしれない。
灯籠まつりを楽しみにしている兄妹が、いたかもしれない。
鏡の前で、自分の名前を探す少女が。
「……ねえ、リオ」
ステラが、リオの手を握った。
「きょうは、わたしも、おきてる」
「え」
「いっしょに、ほし、みる。リオが、ねむくなったら、わたしが、かぞえる」
「数えられるんですか」
「……いち、に、さん、くらいまでなら」
リオは、思わず吹き出した。
笑ったのは、三日ぶりだった。
昼過ぎに、ミラが登ってきた。
マルタのパンと、領主館の台所で焼いたという焼き菓子を持って。
「父様がね、王都から返事が来たって」
ミラは、得意げに一通の手紙を広げた。
「クレイン監察官の具申、通ったんですって。天文台は正式に存続」
「……本当ですか」
「本当よ。あの眼鏡、意外と仕事は早いのね」
ミラは、焼き菓子をひとつステラに差し出した。
ステラは、目を輝かせてかぶりつく。
「あまい! これ、なに?」
「蜂蜜の焼き菓子よ。……わたしが焼いたの」
「ミラ、すごい!」
「べ、別に、すごくなんかないわよ」
ミラは赤くなって、そっぽを向いた。
それから、リオの顔を見て、眉をひそめた。
「……あなた、ひどい顔してるわよ」
リオは、迷った。
話すべきだろうか。
星が、立て続けに消えていること。
まるで誰かが、狙いを定めたように。
天文台が守られたと喜んでいるミラに、不安を背負わせたくなかった。
けれど、ミラは、ハロウの星が消えかけたことを知っている。
自分の名前が消えていく恐ろしさを、知っている。
「……実は」
リオは、観測録を開いて見せた。
見送りの線が引かれた、四つの名前。
日付を見て、ミラの顔色が変わった。
「これ、全部、この半月で?」
「はい。祖父の記録では、多くてもひと月にひとつでした」
「……何が、起きてるの」
「わかりません」
リオは、正直に答えた。
「でも、自然に消えているんじゃない気がするんです」
「ハロウのときは、少しずつ、少しずつ暗くなっていった」
「でも今度の星は、昨日まで普通に光っていたのに、急に消える」
「……まるで、誰かが」
その先は、言葉にならなかった。
・ ・ ・ ✦ ・ ・ ✧
その夜も、よく晴れていた。
天窓の向こうに、秋の星々が冷たく澄んでいる。
空気が乾いて、星の瞬きがいつもより鋭く見えた。
まるで、砕いた硝子を夜空に撒いたように。
ステラは約束どおり、リオの隣に座っていた。
淡く光る指で、ひとつ、ふたつ、と星を数えている。
三つ目でわからなくなって、また最初からやり直す。
その繰り返しが、なんだか微笑ましかった。
真夜中を、少し過ぎた頃だった。
「……リオ」
ステラの声が、強張っていた。
指が、南西の空を差している。
「あれ」
リオは、望遠鏡から顔を上げた。
南西の、低い空。
地平線の向こうから、何かが昇ってくるところだった。
最初は、煙かと思った。
遠い山火事の煙が、風に流されているのかと。
違った。
それは、細く、鋭く、まっすぐに。
夜空を、下から上へと貫いていく。
黒い、線。
流星だった。
流星の形をしていた。
尾を引いて、空を駆ける光の筋。
けれど、それは光ではなかった。
光を、吸い込んでいた。
通り過ぎたあとの空が、ほんの一瞬、周りよりも暗くなる。
墨を一滴、澄んだ水に落としたように。
リオは、息をするのも忘れて、それを目で追った。
黒い流星は、空の高みへと昇っていく。
西天第四区。
その先に、小さな星がひとつ瞬いていた。
――まさか。
黒い流星の先端が、星に届いた。
音は、なかった。
けれど、リオには聞こえた気がした。
硝子の鈴が、粉々に砕ける音が。
星が、砕けた。
無数の光の破片になって、はらはらと散った。
そして、落ちていった。
夜空を、ゆっくりと。
燃え尽きる火の粉のように。
散る花びらのように。
やがて、地平線の向こうへ消えていった。
あとには、何も残らなかった。
星があった場所に、黒い空が、ぽっかりと口を開けているだけだった。
「……あ」
リオの喉から、声にならない声が漏れた。
消えたのではない。
消されたのだ。
誰かが、星を撃ち落とした。
リオは、震える手で星図をめくった。
西天第四区。
砕けた星の位置に、名前があった。
知らない、遠い国の、小さな町の名前。
その町は今頃、白い霧に沈み始めているのだろう。
人々が、互いの名前を、自分の名前を、失い始めているのだろう。
誰にも知られずに。
誰にも、覚えてもらえずに。
「……リオ」
袖を、強く引かれた。
ステラが、震えていた。
光る体を小さく縮めて、両腕で自分を抱きしめている。
夜空色の瞳が、大きく見開かれていた。
「あれ、こわい」
「……ステラ?」
「あの、くろいの。こわい」
ステラは、歯の根が合わないほど震えていた。
リオは、彼女がこんなふうに怯えるのを、初めて見た。
朝日にも、湯気にも、知らない人にも、怯えなかったステラが。
「しってる」
ステラは、かすれた声で言った。
「わたし、あれ、しってる気がする」
「くろいのが、きて……それで……」
言葉が、途切れる。
ステラは、頭を抱えてうずくまった。
「わからない。おもいだせない。でも、こわい」
リオは、ステラの肩を抱いた。
光る体は、氷のように冷たかった。
初めての夜、あの丘で、寒さに震えていたときのように。
「大丈夫。大丈夫です」
何が大丈夫なのか、自分でもわからなかった。
それでも、繰り返した。
ステラの震えが、少しずつおさまっていく。
リオは、祖父の覚え書きを片手で開いた。
星送りの頁の、少し前。
読み飛ばしていた頁に、短い一節があった。
『落星術について』
『星を、意図して撃ち落とす術。天文台守の禁術である』
『黒き流星として見ゆ。撃たれた星は砕け、その土地は一夜にして白地となる』
『決して用いるべからず。決して、許すべからず』
祖父の字が、最後の一行だけ、ひどく乱れていた。
ペン先が紙を裂くほどに、強く。
・ ・ ・ ✦ ・ ・ ✧
ステラが眠りについたのは、夜明けの少し前だった。
リオの膝にしがみついたまま、ようやく浅い寝息を立て始めた。
リオは、動かなかった。
膝の上の温もりを、起こしたくなかった。
天窓の向こうで、東の空がかすかに白み始めている。
――誰が。
――何のために。
頭の中で、同じ問いがぐるぐると回る。
禁術だと、祖父は書いていた。
天文台守の、禁術だと。
なら、それを使っているのは。
天文台守の術を知る、誰か。
けれど、王国の天文台は、ここが最後のひとつのはずだ。
天文台守は、自分ひとりのはずだ。
東の空が、さらに白んでいく。
リオは、ステラを起こさないように、そっと天窓の外を見た。
眼下の山道。
ハロウへと続く、千四百十二歩の細い道。
そこに、灯りが見えた。
ひとつ。
ふたつ。
五つ、六つ、七つ。
松明の火だった。
夜明け前の薄闇の中を、一列になって、ゆっくりと登ってくる。
ハロウの人たちではない。
ハロウの人たちなら、こんな時刻に、松明を掲げて登ってはこない。
松明の列が、つづら折りの曲がり角に差しかかる。
火の明かりが、先頭の人影を、一瞬だけ照らし出した。
黒い外套。
そして、顔のあるべき場所に。
白い仮面が、浮かんでいた。




