第5話 閑職の意味(後編)
故郷を出たのは、十五年前の春だった。
それから一度も、帰っていない。
帰らなくても、村はそこにあり続けるものだと、男は思っていた。
夜が来た。
観測室には、ランプがふたつ灯されていた。
クレインは机に陣取り、書棚の観測録を一冊ずつ検めている。
表題と年代を、細い字で目録に書き写していく。
その手つきは、几帳面で、正確で、少しも迷いがなかった。
――祖父に、少し似ている。
リオは、そう思ってしまった自分が嫌だった。
兵士たちは、階下で酒を呑んでいる。
ミラは、帰らなかった。
「見張ってるのよ」と言って、観測室の隅の椅子に陣取っている。
腕を組み、監察官の背中をにらみつけたまま。
日が沈みきると、ステラの体が光り始めた。
指先から、手の甲へ。
髪の先から、全身へ。
クレインの手が、止まった。
眼鏡の奥の目が、大きく見開かれる。
「……なんだ、それは」
椅子が、がたりと鳴った。
監察官は立ち上がり、腰の短剣に手をかけていた。
「魔物か」
「ちがいます」
リオは、ステラの前に立った。
自分でも驚くほど、すぐに体が動いた。
「この子は……ステラです」
「空から、落ちてきたんです」
「星が落ちて、その場所に、いたんです」
クレインは、しばらく黙っていた。
光る少女を、じっと見つめて。
迷信だ、と言われると思った。
頭がおかしい、と笑われると思った。
けれどクレインは、何も言わなかった。
短剣から、ゆっくりと手を離した。
目の前で淡く光る少女を、否定する言葉が見つからなかったのだろう。
ステラは、怯えた様子もなく、クレインを見上げていた。
それから、とことこと近づいていく。
「ステラ」
リオが呼び止めるより先に、ステラは監察官の前に立った。
「ねえ」
「……何だ」
「あなたの、まちは、どこ?」
クレインは、虚を突かれた顔をした。
「私の、町?」
「うまれた、ところ」
監察官は、少しの間、黙った。
眼鏡を押し上げる指が、わずかに迷った。
「……南だ。王都より、さらに南」
「ウィロウデイルという、小さな村だ」
「もう十五年、帰っていないがな」
ステラは、くるりとリオを振り返った。
「リオ。さがして」
・ ・ ・ ✦ ・ ・ ✧
ウィロウデイルの星は、南天の低い空にあった。
祖父の星図の、南天第五区。
秋のこの時期だけ、山の上からかろうじて見える位置だ。
地平線すれすれの、南の空。
リオは、望遠鏡をその方角へ向けた。
レンズの奥に、南の星々が浮かぶ。
星図と見比べながら、ひとつずつ、たどっていく。
「……あった」
見つけた。
見つけて、リオは、言葉を失った。
小さな星だった。
ハロウの星が消えかけていた夜と、同じような。
いや――もっと、弱い。
瞬くたびに、光が途切れる。
灯っては、消え。消えては、灯る。
息を、懸命に継ごうとしているように。
ステラが、リオの隣に来た。
望遠鏡を覗かなくても、彼女には見えているようだった。
夜空色の瞳が、南の空の一点を、じっと見つめている。
やがて、ステラは振り返った。
クレインに向かって、まっすぐに。
「あなたの、まち」
静かな声だった。
「もう、はんぶん、きえてる」
観測室が、しんと静まり返った。
クレインは、何も言わなかった。
それから、乾いた笑いを漏らした。
「……馬鹿な」
「子どもの戯言に、付き合うつもりは……」
「クレインさん」
リオは、望遠鏡から離れた。
「ひとつ、訊いてもいいですか」
「……何だ」
「ウィロウデイルのことで、覚えていることを」
「村の名前のほかに、何か」
クレインは、眉をひそめた。
「覚えているとも。私の故郷だぞ」
「村の真ん中を、川が流れていた」
「子どもの頃、毎日、そこで泳いだ」
「その川の、名前は」
クレインの口が、開きかけた。
そして、止まった。
「……川の、名前は」
眼鏡の奥の目が、宙をさまよう。
「名前は……ある。あったはずだ。毎日、呼んでいた……」
言葉が、続かない。
リオは、もうひとつ訊いた。
自分でも、残酷な問いだとわかっていた。
それでも、訊かなければならなかった。
「……お母さんの、名前は」
クレインの顔から、血の気が引いた。
監察官は、ゆっくりと椅子に腰を落とした。
膝の上で、目録を書いていた手が、震えている。
「母は……」
「母の顔なら、覚えている」
「台所で、林檎の皮をむいていた。長く、途切れないように」
「私がそれを、首に巻いて遊んで、叱られた」
「……名前が」
クレインは、両手で顔を覆った。
「名前が、出てこない」
部屋の隅で、ミラが小さく息を呑んだ。
「……わたしも、そうだったの」
ミラは、椅子から立ち上がった。
監察官の前に、歩み寄る。
さっきまでの、にらむような目ではなかった。
「六日前の朝。鏡を見たら、自分の名前が出てこなかった」
「父様は、わたしを『娘』としか呼べなかった」
「流行り病なんかじゃ、なかったわ」
「町の星が、消えかけてたの」
クレインは、顔を上げなかった。
長い、長い沈黙が落ちた。
ランプの芯が、じじっと鳴った。
「……戻す方法は、あるのか」
ようやく、かすれた声が聞こえた。
リオは、少し考えてから答えた。
「ハロウは、星送りで戻せました」
「でも、それは、星が消える前だったから」
「それに、ウィロウデイルは遠すぎます。思い出を集めに行けない」
クレインの肩が、落ちる。
「……でも」
リオは、言葉を継いだ。
「名星は、その土地を想う人の心で、灯るんです」
「誰かが思い出してくれる限り、星は、まだ消えない」
「あなたが、思い出してあげてください」
「手紙を書くでも、帰るでも、いいから」
「名前を、呼んであげてください」
クレインは、ゆっくりと顔を上げた。
眼鏡の奥の目が、赤く濡れていた。
「……十五年」
監察官は、呟いた。
「十五年、一度も、手紙を書かなかった」
「王都で出世すれば、いつでも帰れると思っていた」
「村は、いつまでもそこにあると……」
声が、途切れた。
ステラが、そっとクレインの手に触れた。
光る指先で、震える手の甲を、包むように。
「まだ、まにあうよ」
ステラは言った。
「わたしが、みえるもん。あなたの、ほし」
「まだ、ちゃんと、ひかってる」
クレインは、光る少女の手を見つめていた。
長い間、ずっと。
・ ・ ・ ✦ ・ ・ ✧
夜明け前、監察官は目録を閉じた。
そして、それを二つに裂いた。
「……クレインさん?」
「目録に、不備があった」
クレインは、淡々と言った。
いつもの、感情の読めない声で。
「接収品目の照合ができん。作り直しが必要だ」
「作り直すには、時間がかかる。少なくとも、数年はな」
それから、新しい紙を取り出し、さらさらと何かを書きつけた。
リオに、差し出す。
『王立記録院への具申』
『北の天文台は、現役の観測施設として存続させるべし』
『所蔵の星図は、現地にて保管・運用することを要す』
『天文台守の職務は、王国にとって必要不可欠と認む』
『監察官 エドガー・クレイン』
リオは、紙を持ったまま、動けなかった。
「……いいんですか」
「いいも悪いもない。監察の結果だ」
クレインは外套を羽織り、眼鏡を押し上げた。
「閑職だと、思っていた」
ぽつりと、言った。
「星を数えるだけの、誰も困らない仕事だと」
「……私の仕事も、似たようなものだがな」
薄い唇の端が、ほんのわずかに上がった。
今度は、確かに笑ったのだとわかった。
「帰りに、南へ回る」
扉の前で、クレインは振り返らずに言った。
「王都へは、少し遅れて戻ることにする」
「……母の名前を、思い出しに行かねばならん」
馬の蹄の音が、山道を遠ざかっていく。
空の木箱は、ひとつ残らず置いていかれた。
「……薪にでもしろ、だって」
ミラが、呆れたように言った。
それから、こらえきれずに笑い出した。
リオも、笑った。
ステラは、ふたりを見て、わけもわからず一緒に笑った。
けれど、その夜明け前の空で。
リオだけが、気づいていた。
監察官を見送ったあと、いつものように望遠鏡を覗いた。
夜明け前の、最後の観測。
数えた。
一区ずつ。ひとつずつ。
「……千二百四」
数え棒を落とす手が、止まった。
昨夜の観測の始めには、千二百七あった。
この一晩で、三つ、減っている。
東の空で、ひとつ。
西の空で、ひとつ。
南の低い空で、もうひとつ。
ウィロウデイルでは、なかった。
南天第五区の、あの小さな星は、まだ懸命に瞬いていた。
けれど、そのすぐ隣の星が、消えていた。
吸って、四つ。吐いて、四つ。
リオは、祖父の観測録を開いた。
何十年分もの記録を、震える指でめくっていく。
星が消えるのは、多くても、ひと月にひとつ。
祖父の生涯で、一晩にふたつ消えた夜は、一度もなかった。
一晩に、三つ。
それも、ばらばらの方角で。
まるで、誰かが、狙いを定めたように。
東の空が、白み始めていた。
ステラが、回廊へ出ていく足音が聞こえる。
今日も、初めての朝日を見るために。
リオは、観測録に星墨で三つの名前を書きつけた。
それから、見送りの線を三本、引いた。
線を引く手が、止まらなかった。
――何かが、起きている。
この空の、どこかで。
――ステラの日記 八日目
『ステラは、知らない人の町の星を見つけた。その人は、お母さんの名前を思い出しに行くと言った』




