第7話:嵐の目
湾岸エリア、廃工場を改装したアリーナ「アイアン・テンプル」。
オイルと汗、そして数百人の観客が放つ過剰なマブイが焼ける臭いが、現代の闘技場を満たしていた。
「震えてるのか、嵐」
隣に立つ木村が、タバコの煙を吐き出す。
「いえ。……最高の気分です」
安道 嵐は、己の『クロオビ』の胸甲を叩いた。そこにはもう、叔父の遺した恐怖はない。あるのは、自分が作り上げた「武」への信頼だけだ。
一回戦。対戦相手・板垣の『ブルドーザー』が、重機の咆哮を上げて突進する。だが嵐の視界には、「道」が見えていた。
(三歩――。そこで油圧のラグが出る)
嵐は動かない。鼻先を掠める巨拳。わずか一ミリの回避から、無電源の踏み込みを爆発させた。
カチッ。
『クロオビ』の重量が、一点の淀みもなく正拳に乗る。装甲の隙間を貫通した衝撃は、板垣の内部回路をマブイごと粉砕した。十二秒。板垣は自分がなぜ倒れたのかも理解できず、鉄屑となって沈んだ。
「からくりの音がしない突き」に、観客はかつてのアンディを超えた何かの予感に戦慄した。
準決勝。対岸から現れた男が、アリーナの空気を凍りつかせた。
ミルカラス。鉛色の義肢『ボルト』を鳴らし、周辺のマブイを無慈悲に凪がせていく。
「アンディの未練を捨てたか、小僧」
「捨てたんじゃない。俺の一部にしたんだ」
銅鑼が鳴り、ミルカラスの左脚が物理法則を無視して跳ね上がった。嵐は回避を捨て、右拳を突き出す。
『ボルト』から数万ボルトの放電が迸った。嵐は『クロオビ』の接地フレームを強制的に床へ叩き込み、電流の半分をアリーナの構造体へと逃がす。
「アース……! 刹那にこの電力を捌いたか」
ミルカラスの瞳に、初めて驚愕が宿った。だが代償は重い。嵐の右腕の人工筋肉が沸騰し、白煙を上げる。吹き飛んだ嵐がリングの端に叩きつけられた時、右腕はもう炭化した肉と鉄の塊だった。
ミルカラスがトドメを刺すべく左脚を振り上げた瞬間、貴賓席から後藤の怒号が飛んだ。
「さっさとそのガラクタを解体しろ!」
ミルカラスの足が、止まった。後藤を路傍の石のように一瞥し、静かに視線を嵐へ戻す。
「……私の『静寂』に、泥を塗るな」
右腕は死んでいる。だが嵐の瞳は、まだミルカラスの心臓を射抜いていた。このまま倒せば勝てる。だがそれは空手の勝利ではなく、ただの処刑だ。ミルカラスの中に眠る武人の魂が、それを拒絶した。
「――棄権だ」
アリーナが爆発的な騒然に包まれた。リングを降りながら、ミルカラスは嵐にだけ聞こえる声で告げる。
「三時間後、地下の訓練場に来い。後藤のカメラも、無粋な歓声もない。俺とお前の、真実の空手をしよう」
一歩止まり、付け加えた。
「……その折れた右腕、木村に直させろ。俺が認めた男が、不完全なまま死ぬのは許さん」
嵐は血を吐きながら天を仰いだ。マブイは枯渇し、体はボロボロだ。だが、心臓は美しく脈打っている。
背後に木村と秋吉が歩み寄る。その手には、門外不出とされてきた『クロオビ』の最終換装パーツが握られていた。
「やるぞ、嵐。地獄の先へ行く準備はいいか」
「……ええ。最高の型を、あいつに叩き込んでやります」
決戦まで、百八十分。
少年は今、アンディが到達できなかった領域へ――静寂と破壊が同居する「嵐の目」へと、その足を踏み入れようとしていた。




