第8話:不沈の巨躯(タツタヤマ)
旧造船ドックの底を改装した地下闘技場の空気が、重苦しい鉄錆と潮、そして重油の匂いに変わった。
東の搬入口から現れたのは、かつて角界で「不沈の巨躯」と恐れられ、からくり相撲の隆盛と共に裏社会へ消えた男――イングリッシュ・マスティフの獣人、桑原洋己。
彼の纏う特注装甲『タツタヤマ』は、洗練された格闘理論を嘲笑うかのような、超高密度合金の「壁」だった。
「アンディの形見、随分とボロボロだな。スクラップの匂いがするぜ」
顔の重い皮を揺らす桑原の声は、地底から響く地鳴りのようだった。
「小細工は通じねえ。極太の犬種同士の……物理法則の残酷さを教えてやるよ」
巨漢が腰を下ろし、仕切りの構えを取る。その一動作で、闘技場の床を支える鉄板が悲鳴を上げた。
「始めッ!!」
嵐は『クロオビ』のバイパスを全開にし、桑原の分厚い胸板へ正拳を叩き込んだ。秋吉との修行で得た「浸透」を乗せた一撃。
――ドォォン!
衝撃波が空気を揺らす。だが、マスティフの巨体は一歩も退かない。『タツタヤマ』の胸部装甲が流体のように蠢き、打撃のベクトルを分散・吸収したのだ。
「そよ風だな。……本物の『圧力』ってやつを見せてやる」
桑原の巨大な掌が、嵐の肩を鷲掴みにした。
逃げ場はない。万力のような力で引き寄せられ、嵐はずんぐりとした巨躯と完全に密着する。
「鯖折りだ」
桑原の全身の油圧ピストンが一斉に轟音を上げ、嵐の肉体を全方位から押し潰しにかかる。
――バキバキバキッ!
『クロオビ』のメインフレームが限界を超えて歪む。肺から空気が搾り出され、視界が赤く染まる。だが、嵐の肉体はまだ原型を留めていた。
(……耐えられる。いや、俺の体だから『潰れきらない』んだ……!)
パグ特有の首のくびれがない樽のような胴体と、何重にもたるんだ分厚い皮下脂肪。それが、油圧プレスの圧倒的な殺意を数秒だけ遅らせる、極厚の生体緩衝材となっていた。
絶望的な圧力の中、嵐の脳裏に「水汲み修行」の記憶が閃く。
一滴も、こぼすな。
(捕まっているなら……今、俺とこいつの『振動』は一つだ!)
嵐は、抵抗を「棄てた」。
砕けゆくフレームの振動を自らの浅い呼吸に混ぜ、分厚い皮膚を通じてマスティフのマブイの拍動を「聴いた」。
「……俺が……空の器になる……!」
嵐は全身の力を一瞬で抜き、桑原の装甲の固有振動数へと自らのマブイを完全に同期させた。そして次の瞬間、その「逆位相」を、密着したたるんだ皮膚から爆発的に放出した。
――ビチィィィィィンッ!!
「なっ……!? 装甲が……暴走ける……!?」
桑原が驚愕に目を見開く。嵐の全身から放たれた浸透波が、密着していた桑原の内部機構を直接揺さぶり、精密なマブイ機関を強制放電させたのだ。
締め上げていた巨腕が、痙攣して跳ね上がる。
「今だッ!!」
嵐はひしゃげた『クロオビ』を強引に跳ね上げた。密着状態。本来なら腕を振るスペースなどない。だが、パグの極端に短い腕なら、このゼロ距離の懐からでも顎先へ届く。
足指から脊椎までを一本のバネに変え、重力の鎖を引きちぎる。下から突き上げるのは、泥の中から天を衝く、短い腕の渾身の昇龍突き(アッパー)。
――ドンッ!
造船ドックの底に、重厚な鐘の音が響いた。桑原の重い顎を的確に貫いた衝撃は、その巨躯の脳を激しく揺らした。
「……あ……アンディ……」
桑原は朦朧とした意識の中で、嵐の背後に「かつての宿敵」の影を見た。
ドォォォォン……!
マスティフの要塞が、ついに崩れ落ちた。
「勝者、安道嵐!!」
闘技場に熱狂が戻る。だが嵐は膝を突き、白煙を上げる右腕を抱えていた。右肩のフレームは鯖折りで無残にひしゃげ、もはや再起動は絶望的だ。
「……投げ飛ばしたな、あの巨躯を」
駆け寄るサイトハウンド獣人の木村。嵐はその腕の中で、血まみれの口元を歪めた。
「……木村さん。俺……叔父さんに、一歩……」
「バカ言え。アンディはもっと、スマートに勝ってたぜ」
嵐は遠い貴賓席を見上げた。
後藤が怒りに顔を歪め、端末を床に叩きつけている。だが、その隣。
無毛犬であるミルカラスは無言で立ち上がり、夜の闇の中へと静かに消えていった。
最終決戦まで、残り三時間。
嵐は、感覚の消えゆく右拳を、震えながら握りしめた。
不沈の要塞を沈めた代償は、右腕の完全な沈黙。絶望的なハンデを背負い、少年は真の死神が待つ最後の舞台へと、その足を踏み出す。




