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からくり空手  作者: 水前寺鯉太郎
第3部

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第56話:十文字の恐怖、奈良の決戦

『からくり空手』

第56話:十文字の恐怖、奈良の決戦


 宍戸が消えた石畳に、嵐はしばらく立っていた。

 京都の夜風が路地を抜けていく。全身の疲労はまだ抜けていない。三百人分の戦いの重さが、骨の奥に残っている。

 足音がした。

 消えたはずの宍戸が、路地の角から戻ってきた。

 「……忘れていた」

 宍戸は懐から封筒を取り出した。和紙ではなく、厚手の奉書紙だ。表には墨で「安道 嵐 殿」とある。

 「預かり物だ。俺に届けるよう頼んできた者がいる」

 嵐は封筒を受け取った。差出人の名前を見た。

 「本藏院——」

 「奈良にある寺院だ」宍戸が言った。「正確には、寺院に併設されたからくり空手道場だ。創立は江戸時代まで遡る。吉岡一門より古い」

 嵐は封筒を開けた。中の文章は短かった。

 安道 嵐殿。吉岡一門を退けた貴殿の空手、拝見したく存じます。奈良・本藏院道場にてお待ち申し上げます。——本藏院住職兼道場主 本藏院慶雲

 「受けるか」宍戸が聞いた。

 「受けます」嵐は即答した。「条件は」

 「手紙に書いてある通りだ。百人組手、一中隊。ただし——」

 宍戸の表情が、先ほどとは別の質感に変わった。

 「気をつけろ、安道。本藏院は一筋縄ではいかない」

 「吉岡一門と何が違いますか」

 「吉岡は純粋な空手だ。日拳、沖縄空手、エスクリマ——どれも徒手の技術だ。しかし本藏院は違う」

 宍戸が一拍置いた。

 「からくり槍術だ。それも——十文字槍を使う」

 嵐は黙った。

 「十文字槍は、通常の槍と違って穂先が十字になっている。突くだけでなく、引っ掛ける、絡める、押し潰すことができる。それをからくりで強化した百人が来る——正面からでは、空手の拳は届かない可能性がある」

 宍戸は踵を返した。今度こそ、本当に去るつもりのようだった。

 「……宍戸さん」嵐が呼び止めた。「なぜ俺にそこまで教えてくれるんですか。情報は試合の後に話すと言っていたのに」

 宍戸は振り返らなかった。

 「アンディへの借りだ。あの男は俺の流派を面白いと言った。——その言葉の重さを、俺はまだ返し切れていない」

 足音が消えた。今度こそ、本当に消えた。

 三日後。奈良。

 大仏殿から程近い場所に、本藏院はあった。古い山門を潜ると、境内の奥に近代的なからくり空手施設が建っている。伝統と最新技術が、奇妙な調和を保っていた。

 住職兼道場主の本藏院慶雲は、五十代の僧侶だった。剃髪し、しかし道着の下に確かな筋肉の鎧を持つ体をしている。胸元のライセンスは金星——通算千勝以上。

 「よく来た、安道 嵐くん。吉岡一門を退けた後で、よく体が動くな」

 「動きます」

 「強情だ。アンディに似ている」慶雲が目を細めた。「アンディとは、昔、二度ほど手合わせした。あの男の足技は——本当に美しかった」

 「叔父さんを知っているんですか」

 「知っている」慶雲は境内の奥へ歩き始めた。「だからこそ、甥に会いたかった。さあ——始めよう」

 道場の中央に立った嵐の前に、扉が開いた。

 百人が入ってきた。

 全員が同じアーマーを纏っているが——手に持っているものが違う。黒いからくり義肢で強化された十文字槍が、百本、整然と並んでいる。穂先が十字に広がった槍が、道場の照明を反射して鋭く光った。

 「ルールは果たし状に書いた通りだ」慶雲が言った。「百人、全員のダウンを取ること。時間制限はない。終わったとき、君の白いカードに一勝が刻まれる」

 「分かりました」

 「一つだけ聞いていいか」慶雲が静かに言った。「君は、からくり槍術と戦ったことがあるか」

 「ありません」

 「正直だ」慶雲は監督席へ向かった。「では——始めよう」

 「始め!!」

 最初の一人が前に出た。

 十文字槍を構え、下段から突いてくる。嵐は右へ躱した——しかし槍の十文字の横刃が、嵐の右腕の装甲を引っかけた。

 「っ——」

 引き寄せる力。嵐が踏ん張ると、今度は押し込んでくる。十文字の形が、引く・押す・絡めるという三つの動作を一本の動きの中に含んでいる。

 単純に「躱す」だけでは、必ずどこかに引っかかる。

 二人目が横から来た。嵐が一人目への対処に集中した隙を狙った突きだ。左肩を掠めた。

 「ヒット、本藏院! 1点!」

 (一人ずつと戦えない——間合いの外にいると、槍の長さで常に先手を取られる。かといって懐に入ろうとすると、十文字で絡め取られる)

 嵐は一度下がった。十人ほどが扇形に広がり、包囲を形成しようとしている。

 (宍戸さんが言っていた。正面からでは拳が届かない可能性がある——)

 嵐は『昇龍』の出力を確認した。吉岡一門の戦いで消耗した分は、三日間でほぼ回復している。

 (今日は最初からからくりを使う。水汲み修行の再現は——今日はしない)

 嵐は作戦を変えた。

 正面から槍に向かうのではなく——槍と槍の間の「隙間」に向かう。

 十文字槍は横に広い。しかしその分、隣の人間との間隔が必要になる。密集すると、互いの槍が干渉する。嵐はその干渉を利用することにした。

 一人目と二人目の間の隙間へ、『昇龍』のブースターで一気に潜り込む。槍の間合いの「内側」へ入れば、長い槍は使いにくい。

 一人目の懐に入り、右拳を鳩尾へ叩き込んだ。

 「ダウン!」

 すぐに抜ける。次の隙間へ向かう。また潜り込む。また一撃。

 「ダウン!」

 リズムが見えてきた。槍と槍の間隔は一定だ。隙間の位置は、陣形が変わらない限り変わらない。

 十人、二十人。

 三十人目あたりで、陣形が変わった。本藏院の百人が、密集陣形を取り始めた。隙間を消すためだ。

 嵐の前に、槍の壁が生まれた。

 「……密集か」

 嵐は距離を取った。

 密集した十文字槍は、個人の戦闘力より「壁」としての機能を優先する。一本一本の槍が干渉し合いながら、前への圧力を均等に分散させる。

 正面からでは通れない。隙間もない。

 (どこから入る——)

 嵐は上を見た。

 道場の天井は高い。

 『昇龍』のブースターを最大出力にした。嵐の体が跳んだ。槍の壁の「上」を越えて、密集陣形の内側へ着地した。

 「なっ——」

 密集した百人の内側から、嵐は一人ずつを倒し始めた。内側は槍が使いにくい。密集しすぎて、互いが邪魔をする。

 嵐の拳が、止まらない。

 四十人、五十人、六十人。

 七十人を超えたあたりで、嵐のマブイが半分を切った。

 残り三十人。本藏院の使い手たちは、ここまで来てもまだ崩れていない。むしろ、倒された仲間の穴を埋めるように陣形を組み直し、最後の三十人が円陣を作った。

 「……お見事です、安道くん」慶雲が監督席から言った。「しかし最後の三十人は、道場の精鋭です。これまでとは別の動きをします」

 円陣の中の三十人が、槍を水平に構えた。

 回転し始めた。

 三十本の十文字槍が、円を描きながら回転する。一定の速度で、一定の間隔で。中に入ろうとすれば、どこかの槍に当たる。

(槍の風車か——)

 嵐は一歩引いた。回転する槍を見た。速さは一定だ。隙間もほぼない。

 しかしよく見ると——内側の人間が、わずかに前傾みになっている。槍の重さを外側へ逃がすために、体を内側に傾けている。つまり——

 (内側の重心が、外を向いている)

 嵐は槍の回転の「外側」を叩いた。槍の柄ではなく、槍を持つ人間の腕を——下から突き上げた。

 槍が跳ね上がった。一本の槍が乱れると、隣の槍が干渉する。連鎖反応が起きた。円陣の一角が崩れた。

 そこへ嵐は飛び込んだ。

 最後の一人が倒れた。

 嵐はその場に膝をついた。全身の力が、一気に抜けていく。右拳の熱が、肩まで伝わっている。

「百人、全員撃退。安道 嵐、一勝」

 慶雲の声が道場に響いた。

 慶雲が嵐の前に歩いてきた。そして、深く一礼した。

 「……見事だった。アンディの空手とは違う。しかし——アンディが目指した方向と、同じ場所を向いている」

 嵐は膝をついたまま、顔を上げた。「本藏院さん。叔父さんのことを、もっと教えてもらえますか」

 慶雲は少しの間、嵐を見た。それから境内の方へ目を向けた。

 「……お茶を出しましょう。ここは寺院でもある。ゆっくり話しましょう」

 縁側に二人で座った。奈良の夕暮れが、大仏殿の屋根を赤く染めていた。

 「アンディとは二度、手合わせした。一度目は俺が勝った。二度目は俺が負けた」慶雲はお茶を一口飲んだ。「一度目と二度目の間は、三ヶ月しかなかった。それだけの短期間で、あれほど変わった人間を俺は他に知らない」

 「何が変わったんですか」

 「重さだ」慶雲が言った。「一度目のアンディの蹴りは速かった。しかし二度目は——遅くなっていた。しかし俺には避けられなかった。速さではなく、重さで来ていた」

 嵐は黙って聞いていた。

 「アンディは俺に言った。『三ヶ月間、ただ歩いた』と。からくりを外して、重い荷物を背負って、ただ歩いた。そうしたら蹴りが変わったと」

 嵐の口元が、わずかに緩んだ。水汲み修行と同じだ。

 「君も、同じことをしているな」慶雲が嵐の右拳を見た。「アーマーの重さが、拳に乗っている。からくりの力ではなく、積み上げた重さだ」

 「……三浦先生に教わりました」

「三浦さんか」慶雲が遠い目をした。「あの人もまた、深い空手をする。——安道くん、君の周りには良い人間がいる」

 嵐はライセンスカードを取り出した。通算9勝。黄色まであと一勝だ。

 「本藏院さん。IKKCのリー議長のことを知っていますか」

 慶雲の顔が、わずかに曇った。「……知っている。なぜ」

 「叔父さんのプラチナ審査で、最後まで反対票を投じた人物だと聞きました」

 慶雲はしばらく黙っていた。お茶の湯気が、夕風に流れて消えた。

 「……リー・チャンウォンは、計算できないものを認めない。アンディの空手は、彼の計算の外にあった。——しかし」

 慶雲が嵐を見た。

 「今の君の空手も、彼の計算の外にある。アンディと同じように」

 嵐は白いカードを握りしめた。9勝。白のまま。しかしその白が、今日また——少し重くなった。

 奈良の夕暮れが、二人の影を長く伸ばしていた。

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