第57話:親方の招状、均衡の綻び
広島支部に辿り着いたのは、瀬戸内海から吹き込む夜風が、鉄の匂いを帯びて冷たさを増した午後八時過ぎだった。
「嵐さん!! おかえりなさいッ!!」
道場の扉を開けるなり、佐藤がスラスターの余熱で陽炎を立ち昇らせながら駆け寄ってきた。
嵐は無言で、懐から一枚のカードを取り出した。
――ピィ、ピィ……。
低く、不吉な電子音。処女雪のような白を内側から焼き潰し、毒々しく変色した「黄色」のライセンス。それが嵐の『絶空』と認証プロトコルを確立した瞬間、彼の視界には強制的にシステムメッセージが割り込んできた。
[SYSTEM]:ライセンスレベル【Yellow】を検知。
世界ランク:4,526,109位。
生体データ・ログの常時送信を開始します。……管理される自由へようこそ。
「……なったよ。一〇勝、公式だ」
「やったぁぁぁ!! ……ん? だけど嵐さん、そのカード……なんか、見てるだけで目がチカチカするっていうか……重な」
佐藤が手を伸ばそうとして、思わず引っ込めた。佐野が眼鏡の奥の瞳を鋭く光らせる。
「……世界ランク入りしたことで、あなたのマブイは『IKKCの監視対象』になったということです。文字通り、あなたはシステムの獲物になった」
疲労で軋む体を風呂で流そうとした矢先、嵐の端末が、骨にまで響くような「重い振動」を上げた。暗号化された、優先度「極」の報せ。
差出人:『桑原洋己(桑原部屋・頭取)』
安道 嵐へ。
黄色昇格を確認した。修羅の入り口に立ったな。
早速だが、両国へ来い。お前に会わせたい『山』がいくらでもある。
――というのは建前だ。
IKKC、そして『ジャッジメント・イレブン』を裏で操る『13人の賢者』が、世界の天秤を叩き壊そうとしている。
来週末、土俵を空けて待っている。
――桑原洋己。
「……親方が、直接」
画面上の文字からさえ、かつて拳を交えた重力の化身――桑原の、圧倒的な質量の圧が伝わってくるようだった。
翌朝。三浦義一は縁側で、湯気の立たない冷めた湯呑みをじっと見つめていた。
「……桑原さんが土俵を立ちましたか。あの方は、地脈が割れん限り動かぬ男。事態は、我々が想像する以上に『不均衡』に向かっているようですな」
「先生、世界の均衡……四天王のバランスとは、具体的にどう繋がっているんですか」
三浦は杖を手に取り、庭の枯山水に一つの円を描いた。
「かつて、この格闘社会は四つの『理』で保たれていました。秋吉の『伝統』。桑原さんの『地脈』。後藤の『規格』。……そして、アンディ殿の『自由』。この四つが互いに食らい合うことで、IKKCという法もまた、独裁を禁じられていた」
三浦の杖が、円の一角を激しく乱す。
「だが、アンディ殿という『自由の重石』が消えた。今、四天王の天秤は三対一……いや、実質的には後藤の『規格化』という巨大なブラックホールに、世界の中心が飲み込まれ始めているのです」
「……だから、彼らは『ジャッジメント・イレブン』を作った」
「そうです。欠けた席を埋めるのではない。その席を『システム』で塗り潰し、二度とアンディ殿のような、計算不能な英雄を産ませないために。嵐くん、君が黄色になった今、彼らは君を『修正すべきエラー』として完全にロックオンした」
「……嵐さん、本当に行くんですか」
夕刻、荷物をまとめる嵐に佐藤が尋ねた。
「ああ。桑原さんは、俺に『世界の壊し方』を見せたいはずだ」
「……分かりました。俺たちも、ここで解析ばかりしてられねぇ。嵐さんが帰ってくるまでに、最低でも二勝……いや、このカードを真っ黒にするくらいの勢いで、広島を固めておきますよ」
嵐は、自らの黄色いライセンスを強く握りしめた。
一〇勝。それはまだ、地を這う虫がようやく顔を上げただけの数字だ。
だが、その先には相撲の聖地・両国。そして、世界の理を書き換えようとする、一三人の賢者との見えない死闘が待っている。
(……叔父さん。あんたが見ていた景色、俺も両国で……正面から拝ませてもらうぜ)
広島の夜。
新幹線の切符を握りしめる嵐の右腕、『絶空』が、来たるべき「重力」に共鳴するように、鋭く、長く、疼いていた。




