第4話:骨砕きの振動
――あの一瞬の死の気配が、今も毛皮の奥にこびりついている。
道場に現れた無毛犬、ミルカラス。あの男は結局、嵐を殺さなかった。『その怯えた仔犬の瞳が、本物の絶望に染まるまで待ってやる』。そう言い残し、二十一日後の決戦だけを宣告して去っていった。
軍港の灯りを見下ろす夜の山道は、墓場のように静まり返っていた。
安道嵐は、パグ特有の短い鼻孔から漏れる重い吐息と、沈黙した『クロオビ』が放つ錆びた鉄と潮の匂いの中にいた。一週間の水汲み修行で肩の皮膚は擦り切れ、太い膝の軟骨は悲鳴を上げている。だが感覚は、不思議なほど研ぎ澄まされていた。一滴の水もこぼさぬよう全身の揺らぎを殺す試みが、彼の鈍重な肉体を、精密な天秤へと変えていた。
「……いい月夜だ。解体されるには、惜しい夜だがな」
闇の底から、一人の男が染み出してきた。後藤道場の刺客、染川だ。
蝶のように大きな耳を持つパピヨン獣人の彼は、構えない。ただ指先を高速で震わせている。周囲の空気が陽炎のように歪み、不可解な高周波を奏でていた。
「からくり骨法……。装甲の上から、中の中身だけをミンチにする流派か」
「効率だよ、愛玩犬。硬い殻を割る必要はない。固有振動数を合わせれば、獣の臓物など水風船と同じだ」
染川が、小型犬特有の俊敏な一歩で間合いを盗む。次の瞬間、その掌が嵐の右肘フレームに触れた。
パピヨンの鋭い聴覚で探り当てた弱点。鼓膜を刺すような高音が響き、チタンボルトが赤熱して弾け飛んだ。
「ぐ……あああッ!」
右腕が力なく垂れ下がる。装甲の下で、生身の肘が逆方向にへし折れるような激痛が走った。
「お前のアーマーは古すぎる。接合部の遊びが、振動を増幅させる最高の拡声器になるのだよ」
染川の指先が、今度は嵐の心臓部へ向けて放たれる。
嵐は、思考を止めた。
恐怖を捨て、水瓶の水を一滴もこぼさないために費やした、あの「空」の感覚へ没入する。染川の掌がチェストピースに接触した。だが、爆発は起きなかった。
「……な、に……! 振動が……消失した……!?」
染川が大きな耳を震わせて驚愕する。
無理もない。パグ特有のずんぐりとした太い骨格と分厚い皮下脂肪、そして『クロオビ』の八十キロにも及ぶ無骨なデッドウェイト。それらが嵐の「空」の意識と完全に同期した瞬間、振動を分散・吸収する極厚のマスダンパー(緩衝材)へと変貌したのだ。
「叔父さんは言ったんだ。人間社会の理屈で殺した『犬』に還れ、って」
嵐が目を開く。その丸い瞳に宿るのは、怯えではない。獲物を前にした猟犬の、冷徹な「武」の意志だ。
嵐は左手で外れた右肘のフレームを掴み――グギッ――パグの強靭な関節を強引にはめ戻した。
「最新の電源なんていらない。これは、俺たちの空手だ!」
地面を蹴る。八十キロの鉄塊を、修行で鍛えた太い脊髄の「軸」一本で振り回す。
一撃。ただの正拳。だがそこには、山頂から運び続けた水の重みと、叔父から受け継いだ鉄の意志が乗っていた。
軍艦の鐘を突いたような重厚な衝撃音が、夜の休山に木霊した。染川の軽量な強化外骨格が重い衝撃を逃がしきれず、背中側から四散する。染川は何に打たれたのかも理解できぬまま、巨岩へと叩きつけられ、沈黙した。
嵐は、熱を帯びた左拳を見つめた。装甲の排熱口から、荒々しい蒸気が立ち上る。漆黒のカーボンフレームが、月の光を浴びて鈍く、美しく光っている。
木陰から、サイトハウンド獣人の木村が静かに歩み寄った。
「合格だ、嵐。アンディとは違う。だが、泥臭い『芯』は通っていた」
常に冷笑を浮かべていた木村の瞳に、初めて敬意が宿る。
「明日から山下りは卒業だ。道場に来い。ミルカラスに勝つための、本当の『死の型』を叩き込んでやる」
嵐は重い足取りで、一歩ずつ山道の土を噛みしめて歩き出した。
決戦まで、あと二十一日。背負う『クロオビ』はもはやただの重りではなく、彼自身の誇り高き牙へと変わり始めていた。




