第3話:戦慄の左ハイ
ジャパウ国、広島湾岸国際空港、午後二時。
海風が吹き込む到着ロビーの自動ドアが開いた瞬間、周辺の空気が文字通り凍り付いた。人々の毛皮にパチリと静電気が走り、精密機器が微かなノイズを上げる。その中心に立つのは、灰色のコートを纏ったメキシコ支部の刺客、ミルカラス。
無毛犬の血を引く世界王者である彼の左脚には、体毛のない剥き出しの肌に直接埋め込まれたような、鈍い鉛色の義肢『ボルト』が装着されていた。歩くたびに地面の磁気と周囲の熱量を吸い込むような重低音が響き、周囲の獣人たちが本能的な悪寒を感じて無意識に道を開ける。
「案内は不要だ」
出迎えの男を冷たく一瞥し、ミルカラスは軍港を見下ろす北の山並みを見据えた。
「アンディという太陽を失った空に、もはや見るべき星はない。……だが、その残光を継ぐという不遜な野良犬は、ここで解体しておく」
――同時刻、造船所の金属音を見下ろす秋吉道場。
嵐は、泥にまみれて這いつくばっていた。
バイパスモードの『クロオビ』は今やパグの太く短い骨を軋ませ、肉をすり潰す拷問器具と化している。一歩進むごとに、短い気管が焼け焦げるような感覚が全身を支配し、視界の端が白く滲む。
「立てよ、アンディの偽物。貴様のような愛玩犬がそれを纏っているだけで、反吐が出る」
道場の先輩であるロットワイラー獣人の田所が、大型強化アーマー『ビースト』の出力を上げ、荒々しい蒸気を吹き出しながら立ちはだかった。
「こんな素人に伝統を語らせるわけにはいかない。力ずくで『クロオビ』を剥がしてやる!」
『ビースト』の剛腕が、嵐の側頭部へ向けて無慈悲に振るわれる。
その瞬間、一ヶ月の「水運び」が嵐のずんぐりとした身体に宿った。重力をいなし、水面の揺れを封じるために叩き込まれた「重心の消去」。だがそれは、洗練された動きではない。嵐はパグ特有の極端に低い重心と、『クロオビ』の八十キロのデッドウェイトに身を任せ、ただわずか三ミリ、首の皮一枚をかすめる位置へ泥臭く沈み込んでいた。
「なに……!?」
田所が驚愕した瞬間、道場の空気が真空に包まれたように静まり返った。
「不細工な吠え声だ。大型犬の真似事なら、闘犬場でやれ」
いつの間にか、そこにミルカラスが立っていた。
「何奴だ……ッ!」
田所が『ビースト』の全エネルギーを障壁に回し、突進する。だが、ミルカラスは、ただ「眺めて」いた。
刹那。
獣人特有の殺気の匂いすら、完全に絶たれていた。体毛を持たない彼だからこそ成し得る、絶対的な「無臭」の歩法。
ミルカラスの左脚『ボルト』が、重力さえも置き去りにしたかのような軌道を描き、田所の太い首筋へと吸い込まれた。乾いた衝撃音が一つ。『ビースト』が、電源を断たれた機械のように静かに沈んだ。
道場に残ったのは、息を呑んで立ち尽くす嵐と、埃が舞う静寂だけだ。
ミルカラスは、初めて嵐へ視線を向けた。
「お前が、あの『クロオビ』の新しい寄り代か」
嵐は答えない。いや、答えられない。全身の毛を逆立てるような本能的な恐怖が、声を飲み込んでいる。
「いい目だ。まだ何者でもない仔犬の目だ。……だからこそ、ここで終わらせてやる」
左脚が、静かに構えを取った。
嵐の胸の中で、『クロオビ』の沈黙したシリンダーが、獲物を前にした獣のように低く、深く、脈打った。




