第2話:空(から)の洗礼
造船所の重金属音を真下に拒絶するようにそびえる急峻な山。濃緑の湿気が、毛皮にまとわりつく。
軍港の赤い灯りを見下ろす山裾に、秋吉道場は鎮座していた。古びた畳の匂いと、骨を震わせるほどに抑制された機械の唸り。門を潜った瞬間、嵐の胸に抱えた『クロオビ』が、共鳴するように微かに脈打った。
「来たか。アンディの亡霊に憑かれた仔犬」
道場の中央、秋吉はアーマーを纏わぬ素の道着姿で立っていた。土佐闘犬の血を引く規格外の巨躯。その存在感は、最新鋭の重装甲機よりなお巨大な「壁」となって嵐を圧する。
「秋吉さん。俺を、本物にしてくれ」
「本物だと? 抜かせ。今の貴様は、『クロオビ』が嗅ぎつけた闘争心に食わせてもらっているだけの寄生虫だ」
秋吉が顎で示すと、傍らに立つ痩身の獣人――サイトハウンドの血を引く木村が不敵に笑った。
「坊主。そのクロオビのメイン電源を落とせ」
「電源を? そんなことをしたら、ただの八十キロの鉄塊だぞ」
「動かすんだよ。マブイ(本能)の力だけでな」
首筋のスイッチをバイパスモードへ切り替えた瞬間、視界が歪んだ。八十キロのデッドウェイトが、容赦なく嵐の背骨を、膝を、肺を押し潰す。パグの短い鼻孔が、ひゅうひゅうと酸欠の悲鳴を上げた。
「始め」
秋吉の号令と同時に、木村の姿がかき消えた。
(どこだ……! 機械のセンサーが動かない!)
「どこを見てる、坊主。機械の目が死んだら、獣の鼻も耳も使えねえのか?」
声は真後ろ。振り返るよりも早く、木村の細い指先が嵐の頸椎をかすめた。犬型獣人特有の獣臭すら完全に絶たれた、純度の高い無音の歩法。
痛みはない。だが一点に凝縮された衝撃が沈黙した『クロオビ』のフレームを逆流し、嵐の脳を直接揺さぶる。
「がはっ……!」
「からくりは『増幅器』だ。元のマブイが乱れていれば、何を掛けても自滅するだけだぜ」
木村の連撃が続く。嵐は手も足も出ない。悔しさとパグ特有の呼吸困難で視界が赤く染まる。強引に右拳を振ろうとした瞬間、マブイの乱れを検知した安全装置がチタンの関節をロックした。焼けた金属が皮膚を灼き、嵐は悲鳴を上げて転倒した。
「解放した本能を持て余し、マブイが『叫んで』いるな。それは闘いではない、ただの狂犬だ」
秋吉が冷ややかに見下ろす。
「空手の『空』とは、器であることを意味する。お前のマブイは溢れ出るだけの泥水だ。それを、針を通すほどの『殺意の芯』へと圧縮しろ」
秋吉は、道場の裏に並ぶ巨大な水瓶を指した。
「今日から一ヶ月、沈黙したアーマーを纏ったまま山頂の湧き水をここまで運べ。一滴でもこぼせば、アンディの遺志はお前から離れると思え」
同じ夜、軍港の利権を束ねる湾岸の超高層ビル。後藤道場主は、執務室で破砕された『ライノ』の戦闘ログを凝視していた。
「……演算上の到達確率、ゼロ。ただの愛玩犬の突発的なマブイの暴走による、構造破壊か」
艶やかな黒毛のドーベルマンである後藤は、冷徹な手つきでインターコムを叩く。
「メキシコ支部の『無毛犬』、ミルカラスを呼べ。極東の古臭い幽霊ごと、論理で解体してやれ」
夜霧の山道。嵐の荒い呼吸と、重い鉄が擦れる音だけが響く。
(重い……苦しい……息が、吸えない……)
短頭種の浅い呼吸では、八十キロの鉄塊を背負って酸素を回しきれない。膝が折れそうになったその時。
(……叔父さんは、どうやってこの鉄の中で息をしていた?)
嵐は、狂ったようにあえぐ自らの呼吸を、無理やり押し殺した。意識を「空」に近づけ、背中の『クロオビ』の沈黙した排熱シリンダーの微かなリズムに、自分の肺の動きを完全に同調させる。
カチリ。
一瞬だけ、『クロオビ』の関節が羽のように軽くなった。
嵐は自分の手を見つめる。孤独な山道の果てに、獣の肉体と機械の境界線が、静かに溶け始めていた。




