第1話:嵐の継承
二〇二五年、夏。
ジャパウ国最大の軍港を抱く街。窓の外には造船所のクレーンが鉄の墓標のように立ち並び、夜気は重油と潮の匂いに濁っていた。死を待つ病室を支配するのは、生命維持装置の無機質な脈動だけだ。
ベッドに横たわる男――「青い目のハスキー」と恐れられた獣人の空手家、アンディの周囲には、研ぎ澄まされた刃のような静寂があった。
かつて世界最強を謳われた男。だが、その屈強な肉体を白血病が内側から蝕んでいた。四肢はすべて格闘用外骨格『旋風』に換装されているが、最新鋭のからくりも、死の運命までは書き換えられなかった。
「……嵐。そこにいるか」
パグの血を引くずんぐりとした小柄な獣人、安道嵐は、叔父の右手――冷たいチタンのフレームを、両手で力強く握りしめた。
「聞け。空手は力ではない。マブイ(魂)を『空』にすることだ」
アンディの青い瞳に、最期の光が宿る。
「機械の計算に頼るな。人間社会の理屈で殺した『犬』に還れ。嵐……お前の闘争本能を、からくりに『食わせる』んだ……」
電子音が、一本の直線に変わった。嵐の丸い瞳から、堰を切ったように涙が溢れた。
――一時間後。通夜の準備も整わぬ道場に、土足の音が響いた。
「死んだか。データの取れない旧式の野良犬には、相応の末路だ」
現れたのは、最大派閥・後藤道場の執行役、石嶺。艶やかな黒毛を持つ純血のドーベルマン獣人である彼は、重量級強化外骨格『ライノ』を纏い、威圧的な駆動音を鳴らしている。
「アンディの遺品『クロオビ』は、我が道場が回収する。どけ、愛玩犬」
石嶺が、棺に無造作に分厚い装甲の足をかけようとした。嵐の中で、抑圧されていた何かが弾けた。
「……その足を、どかせ」
「AI予測によれば、お前が肉塊になるまで三秒だ」
石嶺が踏み込む。時速百キロを超える重戦車の突進。嵐は道場の奥へ飛び込み、黒い箱――『クロオビ』を開いた。中にあるのは、センサーもモーターも持たない、漆黒の脊椎のような外骨格だ。
(叔父さん、力を貸してくれ)
触れた瞬間、獣人の尾骨から脊髄へと直接ボルトを打ち込まれるような激痛が全身を貫いた。だが、視界が変わった。
迫りくる石嶺の動きが、見える。いや、視覚ではない。研ぎ澄まされた嗅覚と聴覚、そして獣の直感が、人工筋肉の収縮、電力の流動、装甲の継ぎ目を完全に捉えていた。
(マブイが、空虚の中に『獲物』を見つけた)
嵐は攻撃が来ない場所へ、初めから立っていた。
「なっ……!」
嵐の背部で、アーマーの排熱口が獣の耳のように展開し、高圧の蒸気を噴き出した。
「人間社会の理屈で、犬を舐めるな」
腰を落とし、拳を引く。短いリーチを補うため、装甲から伸びた尻尾状のバランサーユニットが空中で姿勢を完璧に制御し、『クロオビ』のフレームが漆黒の光を放ちながら、周囲の熱量を右拳の一点へ収束させた。
空手の基本――『正拳突き』。
パシッ、と乾いた音がした。
次の瞬間、石嶺の『ライノ』が――五千万ドルの超合金装甲が、ガラス細工のようにひしゃげ、砕け散った。
「バカな……物理演算が……不整合を……」
石嶺は自分が打たれたことすら理解できず、白目を剥いて床に沈んだ。
「いい突きだ。だが、まだ『クロオビ』を御せてはいない」
道場の入り口に、一人の男が立っていた。伝説のアーマー『オーガ』を背負った男、秋吉だ。
「安道嵐。お前がその黒帯を使いこなすか、それとも本能を食い尽くされてただの狂犬として死ぬか。本物の地獄で試してやる」
嵐は、激痛に痙攣する右拳を握りしめた。
「……地獄なら、もう慣れてる」
叔父の死から始まった、運命の歯車。軍港の夜空に、獣の咆哮が低く響き渡った。




