5-2、有村大地①
――白石伶が保護されてから、二日。
――氷沼俊介の訃報まで、残り五十九日。
◇ ◆ ◇
本日は、白石伶の検査結果が出揃う日だ。
本部前にて倒れている所を保護した二日前。一部の記憶を失っている事が判明し、大きく動揺していた中でも、伶は検査に協力的だった。抵抗する事は一切なく、全てにおいて「お任せします」と医務室長へ告げた声が、未だ耳に残っている。
白石伶の記憶がないと知ったあの瞬間から、様々な考察を繰り広げてきた。だが、そのどれもが、情報の足りなさから有耶無耶になって消えていくのだ。少しくらいは、何か決定的で確実性のある情報が欲しい。
――例えばDNA検査の結果とか、な。
その真実を知るため、尚也は怪異対策本部の薄暗い廊下を足早に歩く。
医務室の近くはやけに静まり返っていた。壁の下部に埋め込まれた常夜灯が、ちかちかと不気味に点灯している。
――そろそろ交換時かな。
などと呑気なことを思いながら、医務室の扉にノックを二回。
「失礼します」
返事がないからと、ゆっくり扉を開けると、そこには。
「……うわ、……なんでここに居るんですか」
「さあ、何でだろうな?」
医務室長の姿はなかった。それどころか、この二日間ベッドの上で生活をしていた白石伶も居ない。代わりに、気難しい顔をした男が腕を組んでいた。まるで待っていましたと言わんばかりの風貌で、部屋の中央に仁王立ちしている。
彼の名は、有村大地。
怪異対策本部 川崎支部の元支部長。数年前に古川尚也へ座を譲り、皆の引き留め虚しく引退した男だった。時折こうしてやってきては、まだまだ未熟な尚也達に指導をしてくださるのだ。
と、まあ、つまるところ。
――大地さんがいる、ということは。
一度地面に下げた視線を有村へ向ければ、彼は目を細めて此方を凝視していた。鬼の形相に思わず息を呑むと、有村の大きな身体が揺れる。
「……っ!」
「何故、白石伶を医務室で生活させた」
「そ、れは、」
「万が一にも白石伶が怪異だった時、どう責任を取るつもりだった? それともアイツが無害な人間であると、それ相応の証拠が出揃いでもしていたのか?」
隙は一瞬だった。喉仏を掠めるように伸ばされた有村の手は、尚也の胸倉を強く掴んで離さない。医務室の扉へ押し付けられた背中が、じんじんと痛む。咄嗟に有村の顔を睨みつけるものの、彼は噛みつくように言葉を続けた。
「……いいか、尚也」
低く落とされた声に、肩が竦む。
「お前は優しすぎる」
有村の瞳には怒りが浮かんでいた。
「怪異かもしれないヤツを、医務室に置いた。拘束も監視もなしでだ。万が一の事が起きる、そうは考えなかったのか?」
――そんなこと、一番に考えたに決まっている。
「お前は支部長だ。誰か一人を信じる立場じゃない。全員を生かし守る立場だろう」
胸倉を掴む力が、わずかに強まった。
「それくらい、お前が一番分かってるだろうが」
吐き捨てるように発せられた言葉が、尚也に深く刺さって抜けることはない。
――分かっている。
――十分に、理解している。
有村の言うことに何一つ間違いは無かった。
伶の疑いが晴れるまで、全ての確証が取れるまで、尚也が取るべき行動はひとつだった。怪異対策本部にとってはある意味での異物である白石伶を拘束する、それだけだった。
「……黒澤を追いかけると言い始めた時から、薄々こうなる気はしてたけどよ。お前にとっての白石伶は、確かに一年を共にした大事な先輩かもしれないな。でも、今は違うだろ。彼女は被害者である一方、容疑者でもあるんだ。
私情と公心を履き違えるな。そして、甘ったれるな」
有村の手がぱっと離されたことで、尚也はよろめいた。髭の生えた顔が離れていって、詰まっていた呼吸が楽になる。
――こういう時の大地さんは、苦手だ。
正論を、正論のまま鋭く刺してくる。間違っているのはお前だと、はっきり述べてくる。こちらが逃げる余地すら与えず、真っ向から殴りかかってくるのだ。
「伶さんは、」
「白石伶」
「……白石伶は、どこに?」
落ち着いた呼吸でそう問えば、有村は再び双眸を尚也へ向けた。そしてゆっくりと腕を上げると、地面を指さす。
「拘束室」
――……やっぱり。
怪異対策本部川崎支部、地下四階。空気は薄く、電灯も必要最低限しかなければ、窓のひとつもありやしない陰鬱な場所。
犯罪に関与した疑いのある人間、ないし怪異はその場に拘束される。もちろん、虚無にはなれないよう特別な処置が施されていた。
あの場所は、何度足を運んでも苦手だった。脳裏に浮かぶのは、女性の泣き叫ぶ高い声と、それから、幼い少年が啜り泣く微かな声。もう克服したはずの記憶が蘇っては、身体に冷たいものが流れていく。
「そう、ですか。結果はそこで知らされる感じですか」
無意識のうちに震えた手を隠すように問えば、有村は小さく笑った。
「いや。結果もわかった事だし、戻ってくるよう伝えてる。ここで待ってりゃもう時期に帰ってくるさ」
そう続けながら差し出された厚紙には、DNA検査の結果が印字されていた。
〝人間〟
たった二文字。されど二文字。尚也が安堵の息を漏らすには、十分な文字数だった。
「ま、良かったな」
隣に座った有村は、尚也の背中を強く叩く。同時に発せられた言葉の節々には、大事にならなくて良かったなという想いが込められていることを痛感する。
――本当に良かった。
だがしかし、油断は禁物だ。人間であることが証明されたからといって、怪しむべき箇所が完全に無くなった訳ではない。特定の期間のみの記憶喪失という所が妙に引っかかるのだ。眠りから覚めた際も、やけに応答がしっかりしていた。とはいえ、ポーカーフェイスかと思えば大きく動揺していた姿を思い出すと、頭の中が混乱していく。
「なあ、尚也」
「ん?」
「お前、大学は楽しいか」
くしゃくしゃと頭を掻いて思考の海を泳いでいると、有村はこの場にはそぐわない疑問を声に出す。突拍子もない問いに、少々ばかし呆けた顔をして、それから尚也は答えた。
「まあ、……うん、楽しいよ」
小さく頷けば、有村は構わず口を開く。
「友達は、出来たのか」
「………作るつもりはなかったけどな」
と。
「勉強の方はどうだ」
「忙しすぎて全く単位取れてない。でも、大学の勉強も面白いかも?」
「そうか。分からないことがあれば何でも聞けよ」
と。
「ところで最近、」
「なんだよ。何か言いたい事あるならはっきり言えって」
だらだらと継続する会話に、尚也は終止符を打った。対する有村は、どこか気まずそうに視線を遠くの彼方へと逸らしている。
有村大地とは、昔からこういう男だ。
古川尚也の幼少期。世田谷大襲撃に巻き込まれ、だた一人、路頭に迷ったあの夏の日。尚也に手を差し伸べてくれたのが、有村だった。優しく拾い上げられ、丁寧に育てられ、まるで本当の父親のように愛情を注いでくれた。時に厳しく、時に甘やかされ、それはもう尊敬するほどに立派な背中を見て育ってきた。
だが、有村という男は、果てしなく不器用な人間だった。
――どうせ。最近家に帰ってこないから寂しい、とかだろうな。
ため息を吐きだしながら有村を見やれば、彼は口を一文字に結んでいる。
「……この件が片付いたら、一日くらいは休暇をとるつもりだよ」
「あ、そ」
機嫌を伺うように言うと、有村は満足そうに笑う。一体全体、つい先程医務室へ入った瞬間の気迫はどこにいってしまったのやら。これじゃあまるで、こちらが親のようである。
――めんどくせぇ父親。
確かに、言われてみればもう数か月は帰宅していない。寮で事足りている、という事もあるが、何よりも大学生活と仕事に忙殺される毎日だ。一言で表すと、全てにおいて余裕がなかった。
――でも、ま。
――たまには帰ろうかな。
穏やかな雰囲気に飛び出した欠伸を、両の手のひらにしまいこむ。
と、その瞬間だった。
廊下を踏みしめる足音が、いくつか。音の方向から察するに、この医務室へ向かってきていることは間違いない。尚也はもう一度大きな欠伸をすると、脳に意識を集中させた。




