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箱庭物語【第一部 前半 完結】  作者: 彩都 らく
第五章、二人目
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5-1、記憶喪失③

〇×


「おはようございます、伶さん。ここは、……」

 

 戸惑い固まる伶へ、最初に声をかけたのは尚也だった。この場の説明をするために口を開くも、それは室長の大きな手によって制止される。

 流れで椅子から立ちあがった室長は、身にまとった白衣を揺らしながら、伶の側へと腰を降ろした。

 

「おはよう。まず自分の名前は分かるかな?」

「……白石伶です」

「年齢は?」

「今年で二十一になります」

「うん、ありがとう。深く眠っていたようだけど、気分はどうかな?」

 

 傍から聞いているだけでも怖いと思うほど淡々と質問を投げかける室長に、伶は眉を下げた。それから、困ったような視線を尚也へと向けながらも、聞かれた事には答えていく。

 

「気分は、……少し気持ち悪い程度です」

「そうかい。まあ、ひとまず意識に問題はなさそうだね」

 

 伶の様子を確認する室長は、控えめに息を吐いた。そして、ポケットから件の空シートを取り出すと、伶の目の前に差し出す。何も言わずただ見せつけるだけの仕草に、伶は顔を顰めた。

 

「あの、これは?」

「……この薬に見覚えはないかな?」

「えっと、……何の薬でしょう。見たことも、聞いたこともありません」

「分かった。ありがとう、聞いてみただけさ。試すようなことをして、すまなかったね」

 

 伶の言葉に、ほっと息を吐き出したのは尚也だけではなかった。シートを手に取り、薬の名をなぞった伶は首を傾げて途方に暮れている。その反応は、本当に何も知らないのだろうと断定するに相応しい。

 

 後ろで様子を伺っていた沙葉と顔を見合わせた。彼女も似たようなことを思ったのだろう。どこか苦い顔をしながら、伶へと視線を向けている。

 

「何か飲み物を持ってくるね。沙葉も手伝ってくれるかな?」

「はい」

 

 室長による診察が続いて、しばらく。極めて自然な流れで、医務室には尚也と伶の二人きりになった。

 

 ――ここからが、本番だ。

 

 白石伶が、敵か味方か分からない今、不用意な発言は出来ない。

 何か楽しそうな話をしながら出ていく二人の後姿が消えて、少し。

 医務室に流れる沈黙を、先に切り裂いたのは伶だった。

 

「……尚、だよね?」

 

 尚也の姿を確かめるように、まじまじと見つめてくる。それに対して、尚也は小さく頷いた。

 

「はい、伶さんの知ってる古川尚也ですよ。……ここは、とある施設の医務室です。今日の明け方、倒れている伶さんを俺が発見し、ここまで運びました」

 

 半分は本当で、半分は嘘だ。そういうことにしておいた方が話は早い。

 話しながら伶の様子を伺うが、集中できないというように首を傾げては顔を顰めていた。

 

 ――……なんだ?

「どうか、しました?」

 

 ずい、と。突然身体を乗り出してきた伶を、反射で避ける。さすれば、伶は素早い手付きで尚也の髪の毛に触れた。

 

「尚。インナー、赤色じゃなかったっけ? いつ、青に染めたの?」


「……へ?」

 

 確かに、尚也はインナーカラーを入れている。暁で披露する演目に合わせたり、気分であったりと、凡そ数か月に一度は色を変えていた。確かに、新歓の時期は気合いを入れるために赤色を入れていた、が。推理コメディの演目をやるにあたって、青色に染め変えたのだ。もう二か月は前の話である。

 

 ――まさか、な。

 

「今って、何月だと思いますか?」

 

 まさか、まさか。そんな訳はないだろう。動揺しながらも、感情を全て飲み込んで、尚也は質問を吐き出した。

 

「四月、だよね? つい数日前に新歓が終わったばかりじゃない」

 

 一、二、三と日にちを指折り数える伶は、当たり前でしょ、と言わんばかりに答える。

 

「新入生、何人入ってくれるかなぁ。楽しみだよね」

 ――……馬鹿な。

「ん、そんな困った顔をしてどうしたの?」

 

 尚也は絶句すると、静かに頭を抱えた。そんな訳がない。

 会話は成立している。言葉も噛み合っている。

 でも、伶は、今が四月だと思っている。そんなぶっ飛んだこと、ある訳がない。

 

「今は、……七月ですよ」

「え?」

 

 尚也は絞り出すように言の葉を紡ぎ、壁にかけられていたカレンダーを指さした。ついでに、ポケットに入れていたスマートフォンのロック画面を見せる。そこは確かに、七月を刻んでいる。

 今度は、伶が言葉を失う番だった。黒い瞳を左右に泳がせ、口をぱくぱくと開く仕草からは、動揺が隠しきれていない。

 

「ほ、本当に七月、なの……」

「ええ。本当なんです」

 

 ――つまり、どういうことだ。

 

 会話を続ければ続けるほど、尚也の頭は混乱していく。

 どうやら伶は、特定の時期からたった今起きるまでの記憶を喪失しているらしい。どこで何をしていたのかも覚えて居ないようだ。新歓が無事終わり、自宅で寝た瞬間を最後に、記憶が途切れているという。

 

 いつの間にか戻ってきていた室長や沙葉とも話をしながら、頭の中で時系列を組み立てていく。

 

 ――伶さんの記憶が無くなったのは、時期でいえば仮面の怪異(アキサカレイ)が出現したあたりから……。

 ――怪異に他人の記憶を奪う能力がある、とは思えない。

 ――でも、今日日までずっと眠っていたとも考えられない。

 

 ならば、考えられるのは。

 

 ――伶さんはアキサカ並びに黒澤陽光の味方であり、演技をしている。

 ないしは、

 ――なんらかの事故によって、本当に記憶を無くしている。

 

 ないしは、と、想像は良いも悪いもいくらでも出来てしまう。警戒し続けることは大事だが、現在目の前にいる伶の手は酷く震えていた。

 

 新歓が終わり、新入生が三人も入ってくれたこと。実現するのは難しいとされていた推理コメディの演目は、大盛況で大団円を迎えたこと。今は新入生をメインにおいた、新しい演目を練習していること。そして、二年生の四人だけで行う演劇を作り上げていること。

 でも、そこには貴女が居なかったこと。貴女に成り代わった怪異が、貴女のふりをして生活していたこと。そして、その怪異が新入生を誘拐し、監禁していたこと。

 

 怪異対策本部として握っている情報ではなく、あくまでも暁の一員として。伶に言えることだけを出来るだけ掻い摘んで離せば、彼女の顔色はより一層悪くなっていった。

 

 布団の端を握りしめ呆然とする様には、尚也の呼吸もつられて上がっていく。

 

「……、なんだか、置いてかれているみたい」

 

 喉の奥から絞り出された伶の細い声が、医務室にこだました。

 

 綺麗な顔に、涙がひとつ、またひとつと伝っていく。

 

 アキサカや黒澤陽光との繋がりが否定された訳ではない。しかし、この状況で伶を疑い続けることが出来るほど、尚也は冷酷ではなかった。

 

 だからこそ。涙の中で向けられた一瞬の視線には、この場にいる誰も、気が付くことはなかった。ほんの一拍、その涙が止まっていたことにすら。

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