外伝1-2、小井戸美帆②
――小井戸行方不明事件、二日目。
次に目を覚ましたのは、カビ臭い匂いに包まれた薄暗い部屋の中だった。
飛び起きて周囲を見渡してみるものの窓はなく、今が何時であるかも分からない。
――……ここは、どこ?
古びた大きな机に、何に使うのか分からないガラクタの数々。部屋の隅には綺麗な布団が積み上げられていて、異質さをより際立たせている。
僅かな痺れが残る身体で立ち上がり、歩き回ること少し。
――そういえば、わたし、誘拐されたんだっけ。
ずっと眠っていたからか遠い昔の出来事のようだった。ほくそ笑む伶の顔を思い出しながら、小井戸は大きなため息を吐きだした。
自身が現在誘拐されている最中である実感は一切ない。ただ重たく静かな部屋にいるなあ、ただこの先どうなってしまうのかなあ、という、この場には似つかわしくないのんびりとした感情の羅列のみ。頭の中にぷかりと浮かんでは消えていく。
「やあ、起きたかな?」
コンコン、と扉が叩かれると同時に、つい先まで聞いていた声が響き渡った。
「……伶さん」
「うん、おはよう。大体十二時間くらい眠っていたね」
――虚無には、ならないんだ。
扉をそうっと開けて顔を出した伶は部屋の隅に立ち竦む小井戸を見やると、明るい挨拶をした。それから慌てたように扉を勢いよく閉め、部屋の中央に鎮座する机へと向かう。その様子をじっくりと観察していれば、伶の持つビニール袋は、鈍い音を立てて机の上に置かれた。
「……まあ、座りなよ。とりあえずお腹空いてると思って、美帆ちゃんの好きそうなもの買ってきたんだけどさ」
黙りこくる小井戸を手招きした伶は、袋から様々なものを取り出していく。おにぎりに、菓子パンに、サンドウィッチに、ゼリーからプリンまで。その中にひとつ、小井戸の好きなラクトアイスがあるのを見逃すことはできなかった。手あたり次第に買ってきたと言わんばかりのラインナップの中、一際目立つそれに思わず目が眩む。
「アイス、食べたい?」
「……え」
「美帆ちゃんが、これだけは大好きって知っていたからね」
がさりと、お目当てのアイスを手に取った伶は首を傾げる。小さく、どうにも困ったように笑う仕草は、付き合いの浅い小井戸でも随分見慣れたものだった。
――昨日の伶さんと、何かが違う。
嫌な感覚に、鼓動がうるさく早鐘を打つ。
――何が、違うのだろう。
――雰囲気? 話し方? いや、……笑い方?
昨日の伶は、歯を見せるように微笑んだ。しかし、目の前にいる伶はどうだろうか。
唇を閉じたまま、口角をほんの少しだけあげるようにして柔らかく笑っている。小井戸は最初から知っていたはずなのだ。伶は、中性的な外見と声を持ちつつ、随分と可愛らしく笑う、と。
新歓の演劇で一目惚れをしたからこそ、そのギャップがまた、小井戸の心をときめかせたものである。
――それを、忘れるわけがない。
伶から渡されたアイスを食みながら、小井戸は小さなため息を吐き出した。この場には似つかないチョコレートの香りが鼻腔を通り過ぎて、消えていく。
「……伶さん」
それから、どのくらい経った後だろうか。
自身の手の体温で、アイスの半分くらいが溶けてしまった頃。続く静寂の中ではじめに口を開いたのは、小井戸からだった。
「どうしたの」
「伶さんは、……伶さんは、どうしてこんな事に協力しようと思ったんですか?」
「え」
「昨晩の口ぶり的に、伶さんが主導しているようには見えませんでしたから。……だから、誰かに協力してるんでしょう?」
「……あー、……まあ、うん、そうだね」
「なら、どうしてこんな事を?」
よく寝たからだろうか。
好きなものを少しでも口に含んだからだろうか。
落ち着いた頭に浮かんだ疑問は、止まることなく吐き出されていく。対面に座る伶さんを見やれば、彼女は少し困ったように視線を泳がせていた。
「美帆ちゃんはさ、」
ぱちり、と伶の双眸と小井戸の視線が交差して、開かれた薄い唇から言葉が紡がれる。
「何者かになりたいな、って思ったことある?」
伶は、手元に残っていたアイスを流し込んで、冷たい声でそう言った。
――何者かになりたい? それはつまり、権力者みたいなものになりたい、ということだろうか。
首を振るだけで静かに答えると、伶は続けた。
「……私はずっと、何者にもなれなかった。何をしても一番にはなれなかった。誰かの一番になる事だって、一度も叶わなかった。誰にも必要とされていない、って言うのかな」
「そんなことは……、」
口を開けば、シー、と人差し指ひとつで制止される。
「でもね、よ……、あの人は違った。私の才能を見つけてくれた。舞台の上で輝けるよう手取り足取り教えてくれた。背中を押してくれた。……そんな人に、協力してくれって言われたら、さ、断れる訳なかったんだよ」
「そう、ですか」
つまりは、誰かに流されるまま、という事だろうか。一定の感情で話す伶の言葉を耳に、小井戸は残ったアイスを飲み込んだ。
「でもね? 誤解して欲しくないことがあって」
「はい」
「私は自分でこの道を選んだ。名前は言えないけど、あの人やこの人に唆された訳ではないんだ」
――それは。
罪の自白、そして、懺悔にも近しい何か。
感情のひとつもなく、伶の黒い瞳は小井戸を見据えて離さない。
「だからね、美帆ちゃん」
「……なんでしょう」
「美帆ちゃんも、ちゃんと自分で選んでね。この先、数時間後か数日後かは分からないけど、美帆ちゃんは選択を迫られる。その時は、ちゃんとあなたの意志で選んで欲しい」
「それは……」
――なんて身勝手な話なのだろうか。
確かに、出会って間もない人に対して小井戸が心を開きすぎたところはあるのかもしれない。それにしても、随分と無責任な発言である。勝手に誘拐をしておいて、説教紛いなことを言われるのはどうにも気分の良いものではない。
「……本当に、ごめんね」
短期間で零された伶の謝罪は、静寂に消えていく。
小井戸は、アイスのパッケージを机の下で握りつぶすと、小さなため息を吐きだした。
自分が何のために此処へ連れてこられたのかは分からない。伶や、その裏にいる人物が何を考えているのかも分からない。それでも、目の前で重たく閉ざされた扉が自分のために開く時は、遠い未来の話になることだけは分かった。
その間に殺されるようなことは、きっとないのだろう。
ただこの監獄の中で、自分の知らぬところで自分の存在そのものが利用されるだけ。
やり場のない怒りと、言語化のひとつも出来やしない感情が混ざって、まざって、溶けることなく自身の身体を這っていく。
「じゃあ、……そろそろ帰ろうかな」
しばらくの後、伶はそう言いながら席を立った。丁寧な仕草で、落ち着いた呼吸で言葉を紡ぐ。
「また、来るね」
机の上を片付け終わった伶は、小井戸の返事を待たずに扉の方向へ歩いた。そして、ゆっくりと、ひらひらと手を振りながら出ていってしまった。
――……眩しい。
久しぶりに目にした太陽の光は幾分か眩しく、目を細めたその瞬間、伶の姿は消えていた。残るのは電気のない部屋に蔓延る静けさと、そこに大きく響いた施錠の音だけだった。
端から腐敗してささくれだらけの扉に、不自然に取り付けられた真新しい鍵が、回って、二度と動くことはなかった。




