4-3、箱庭
時は流れ、衝撃的な出会いから約二年。
秋坂怜は、黒澤陽光が用意したアジトのキッチンにて電気ケトルを睨んでいた。
――……疲れた。
やり場のない疲労感を追い出そうと大きなため息を吐きだして、天を見つめてみるが、状況は何一つ変わりやしない。
真夏の公園で出会い、そのまま連れられて二年。黒澤陽光という人物は、怜から見てかなり異質だった。彼は多くの犯罪を首謀している。そのくせ、彼は一度も自身の手を汚していない。彼が取り入った無数の『怪異』を利用し、様々な事件を起こしては愉悦に浸っている。
――まあ、……俺の手も汚させない訳だけど。
怜は沸騰したお湯をマグカップに移すと、その瞬間に鼻腔へ届く芳醇な香りに目を細めた。
一度、聞いてみたことがある。
「陽は、何のために人を殺すんだ」
と。淡々と、まるで興味がないですよ、とでも言うかのように零した疑問は、陽光のお気に召したらしい。静かに怜を見やると、くつくつと笑う。
「何のため、ね。俺のやる事全てに意味がある、って話は前にしたよな」
一息ついて、陽光は続ける。
「まるで何の意味のないように見える人殺しも、犯罪も、全てはひとつの物語に収束する。その過程に過ぎないんだ」
「ひとつの物語……」
「そう。愛の物語、とでも名付けようか。うん、……ちょっとクサすぎるかな?」
ふふ、と笑った陽光は、持ち上げたチェスの駒をなめるかのように眺めていた。どうにもキザな事を、呆気からんと言い放った陽光は随分と楽しげな様子だったことをよく覚えている。
陽光と暮らすアジトのリビングは、広く、それでいて綺麗だった。一度もつけられた事のない大きな液晶テレビに、様々な専門的書籍が並ぶ壁一面の本棚。そして、真ん中に鎮座するはダイニングテーブルで食事を取るスペースも無いほどに、多くのモノが置かれている。
――愛の物語、ねぇ。
怜は過去に陽光が発した言葉を思い出しながら、二人がけのソファに腰掛けた。そして、淹れたばかりの熱いコーヒーを啜りつつ、雑然としたテーブルの上を見やる。
そこはまさに、不思議な空間、と称すに値するほどの場所だった。
川崎と世田谷が描かれた大きな地図がテーブルクロスさながら引かれていて、その上には、数多のコマが置かれている。それは将棋の駒であったり、チェスの駒であったり、囲碁の碁石や、麻雀の牌まで転がっていた。勝手に触ることは許されてはいない。意味も知り得ない。
ただ、黒澤陽光という人物が、このコマ達の乗った地図をひとつのゲーム感覚で動かしていることだけは分かっていた。陽光が出かける度、コマは増減を繰り返す。帰宅する度すぐさまこの盤上の前に座り込み、何かひとりごとを呟きながらコマを動かしていくのだ。
怜は一気に飲み干したカップを両手で包み込み、玄関口から聞こえる足音に耳を澄ませた。
「おかえり、陽」
「ただいま。受験勉強の進みはどうだい?」
「……そこそこ、かな」
「そこそこ?」
「……、……受かるよ多分」
「多分? あと二週間だぞ。分かってるよな」
「うん、分かってる」
肩にかけていたバッグを壁のフックにかけ、上着を脱ぎながら近付いてきた陽光は、有無を言わせない双眸で怜を覗き込んだ。
陽光が、「共に大学へ行こう」と言い出したのは数か月前のこと。何気ない日常会話の中で突然と響いた宣言に、怜は最初耳を疑った。しかし、その場で差し出された宵の口大学の赤本に、口を開くことは出来なくなった。
確かに、秋坂怜という人間は「死にたい」という割には、生きるための行動を繰り返していた。
『怪異』である以上、一人で生きていくには偽装された身分証明書が必要である。その身分証明書を手に入れるためには、ある程度まとまった金が必要である。ならば金を稼がないとならない。しかし、金を稼ぐには学が必要だった。だから、最低限度の勉学は自身の頭へ叩き込んできた。
「怜とこの一年過ごしてみて分かったことがある。お前には、かなりの学がある。真っ当に生きる力がある。そこら辺にいるような、何も考えず適当に生きている奴らとは違う」
そう言った陽光は、続いて、
「だから、大学へ行ってみたいだろう?」
と、他人事のように笑ったのだ。
言われてみれば、そういう学生生活というものには憧れていた節があった。受験勉強の環境も、金も、全て用意してくれるというのなら、これも陽光の手の内であったとしても悪くないことなのかもしれない。
そう思った怜は、二つ返事で「ああ」と答えていた。
――……眠い。
カフェインを摂取したとて、回らない頭に変わりはない。小さなサイドテーブルにカップを置いて、その代わりと放置していた参考書を手に取った。合格する自信はある。ここまで、起きている殆どの時間を勉強につぎ込んだのだ。合格しないと困る。
盤上の前に座り込んだ陽光の背中を見やれば、彼はひとり、口角を上げていた。そして、目を細めると怜を振り向いた。
「なあ、怜。ココにお前を指す時が来たな」
盤上を指さした陽光は、続けて、盤外にあったチェスの駒をひとつ手に取った。
「お前は……、うん。やっぱりポーンだな」
「ぽーん?」
――随分と、弱そうな見た目だ。
頭が丸い駒を盤上に置いた陽光に首を傾げる。と、彼もまた驚いたような顔を見せた。
「チェス、知らないのか」
「チェスはからきし。将棋なら辛うじて。まあ、詰将棋くらいだけど」
「それなら話は早い。簡単に言えば将棋で言う『歩兵』のような立場だよ。歩兵でも良いんだけど、……お前にはポーンの方が似合うよ。怜は俺の言う通り前に進み続ければ良い。俺が指示したタイミングで、とある駒を刈り取ってくれればそれで良い」
「……とある駒、って?」
見渡す限り、王将やキングといった駒はないようだった。
口をついて出た疑問は、静かな部屋にこだまする。
「そいつは、この箱庭にはまだ居ない。先に俺たちが入るんだ。そうすると、アイツは必ず俺たちの後を追いかけて来る。ここまで起こした事件の数々から、俺の存在には気が付いているはずだ」
陽光は再び穏やかな笑みを浮かべると、塔のような形をした駒を盤上に置いた。
「この駒の名はルーク。――そして、今回の物語の主役だ。こいつはチェスにおいて大きな役目を果たす駒なんだけど、……まあ説明は置いておいてさ。俺たちはルークが追いかけてくる前に、宵の口大学で金と銀を探す」
「金と、銀」
「そうだ」
再び何処かから持ってきた将棋の駒をふたつ、軽快な音を立てながら指した陽光は頷いた。そうして、再び語り始める。
――無法地帯だ。
怜は陽光の言葉を右から左に流しながら、盤上を覗き込む。まじまじと見るのは初めてだった。アジトにひとりの時でも、盗み見るのはなんだか気が引けていたのだ。
盤上、陽光はそれを「箱庭」と称す。
ルールなどない、陽光が考え作り上げた陽光の世界。全てが正しいと言い張る姿勢で駒を進める彼は、来たる未来の形を創造し、その通りに行動する。
実際、彼の理想郷は机上の空論ではなかった。
――この盤上、変じゃないか?
未だ金と銀の駒を弄ぶ陽光を横目に、箱庭を見やると感じる違和感。
「なあ、陽の駒はどこにあるんだ?」
端から端まで見渡してみても、王将もキングも、凡そトップを表す駒は見当たらない。
「俺の駒? 俺の駒はある訳がない。これは俺の箱庭だ。駒を役者とするならば、俺はそうだな。演出家、とでも言おうか」
「……そうかよ」
うん、と頷き笑う陽光に、怜は深いため息を零した。
――随分と趣味の悪い話だ。
この世界そのものを箱庭と称して自分好みに仕立て上げ、操作しているとでも言いたいのか。怜は一度開いた参考書を閉じると、大きな欠伸をした。
陽光はこうなるとあと二時間は動かない。
怜には分からない単語で、怜には分からないひとりごとを永遠と零すのだ。
――今日は寝るが吉かな。
「おやすみ」
未だ口を開く陽光へ、空のカップを片付けながらひとつ。
戻らない返事に思わず振り返れば、ルークの駒だけが、盤上の隅で佇んでいた。
〇×
そうして、宵の口大学に無事入学し、三年の月日が経った。
長くも、あっという間に過ぎた時間だった。
静寂が蔓延っていたアジトは、姿を大きく変えていた。今まで点くことのなかったテレビでは流行りのアニメや映画が流れているし、堅苦しい書籍で溢れていた本棚には色とりどりの漫画が差し込まれている。毎日のように誰かの話し声でいっぱいになるリビングで、唯一変わっていないのは陽光の箱庭だけ。
箱庭は、今宵もまたリビングの中央に存在していた。
ルークの駒を中央に、ポーンが近付き、金と銀もまたその後ろを続く。そしてルール無用の盤上を弄る演出家である陽光は、楽しげな表情を浮かべていた。
少し大人になった顔で、今日もまた、幾多の駒を進めていく。
「秋」
いつの間にか、怜の事を〝秋〟と呼ぶようになった陽光は、怜を見やる。対して小さく頷けば、陽光は満足そうに口角を上げた。
「そろそろ行こう」
その言葉と同時に、ポーン……否、秋坂怜の駒は盤上から消えた。勢いよく弾き飛ばされたそれは、固いテレビ台にぶつかって無惨にも割れる。
怜は唇の端を噛み締めると、小さく笑った。
死にたい。
その思いは、どんなに色んな者共と友情を育もうとも消えることはなかった。
やっと、死ねる。
やっと、やっと、いなくなれる。
誰にも惜しまれることなく、いつの日か誰からも忘れられて、本当の虚無になることが出来る。
――……さようなら。
自分の持ち物は全て処分した。
残す言葉もない。
怜は大きく息を吸うと、目一杯の甘ったるい香りを肺に詰めて、慣れ親しんだリビングを後にした。
そうして、その日。
黒澤陽光の箱庭は、再び姿を変えた。




