お月見案内人のログ
月の女神は言った。
地球の兎には肉球がないの。もちろん理由があって肉球がないのだけれど、やっぱり可愛い動物には、いいえ、動物には須らく肉球があって然り。
月の女神たる私は宣言します。
この月の動物にはすべて肉球をつけることを。
まあ動物といっても、兎しか居ないんだけどね。
そう。
最初は月には月の女神と兎しか住んでいなかったのだが、地球の生物、特に人間なる生物がお月見なる風習を創り出しては月を崇め奉るようになってから、月の女神はお月見を盛り立てるお月見案内人として、新たに月の生物を創造した。
兎の獣人を。
「おい、玄夜」
お月見案内人を任されている紅葉は、ベンチで眠っている同業の玄夜を見下ろした。
紅葉はピンと立っている長い漆黒の耳と金色の瞳が特徴で、玄夜は垂れている長い純白の耳と銀色の瞳が特徴であり、共に兎の獣人で兎の姿にもなれるのだが、今は二十代男性の姿になっていた。
「んあ?」
「んあ? じゃない。おまえ、この前のお月見案内人のログを書き直せ」
「はあん?」
「はあん? じゃない。三日前のお月見案内人のログを書き直せと言ってるんだ」
「なんで? 月の女神様にはいいわねって許可はもらったぞ」
「ぼくが月の女神様に抗議して却下してもらった」
「えええ。なんで?」
「なんでって。おまえな」
紅葉はショルダーバッグからお月見案内人のログ本を取り出しては、付箋をつけているページを開き、未だにベンチに仰向けになっている玄夜に見えるように近づけた。
「こんなふざけたログがあるかっ!」
「えええ。かーわいいじゃんか」
玄夜の瞳には今、愛らしいウサギの肉球が桃色のインクであちらこちらに押されたログが映っていた。
「流石は俺の肉球だ。うんうん。いやあ、いつ見てもかわいいっ」
「なあにが流石は俺の肉球だっ! 面倒くさがるなっ! ちゃんと月の文字で書けっ! これはおまえの日記帳じゃないんだぞっ! お月見案内人のログ本なんだぞっ! 後世に残すものなんだぞっ!」
「紅葉」
「なんだ?」
「俺は面倒くさがっていない。ただ、俺の愛らしい肉球をこのお月見案内人のログ本に残しておきたかったんだ」
「嘘をつけ」
「嘘じゃないし君の肉球もこのお月見案内人のログ本に残してほしい。次は君の番だろ」
突然起き上がった玄夜はお月見案内人のログ本を紅葉の手から抜き取ってはベンチに置き、紅葉の両の手を強く握って、普段は死んだ魚の目だと言われるものを煌めかせた。
「俺の肉球と君の肉球を向かい合わせにしたものを永遠に残しておきたい。この意味、分かる?」
「………」
紅葉は無言で強引に玄夜の手から両手を引き抜くと、ベンチに置かれたお月見案内人のログ本を片手で取って、もう片方の手で玄夜の頬を強く引っ張った。
「いへへへへ」
「神聖なお月見案内人のログ本を私的なことに使うな。ばかもの」
紅葉が玄夜の頬から手を離すと、玄夜は引っ張られた頬を片手で撫でた。
「神聖で未来永劫遺るからこそだろうが」
「話にならないな。もういい。ぼくが直しておく」
「え? いや。え? 分からないだろ。肉球だぞ」
「分かるよ」
玄夜に背を向けて歩き出していた紅葉は立ち止まっては顔だけ振り返ると、冷めた表情のまま素っ気なく言っては、また前を向いて淀みなく歩き出したのであった。
「………フラれたのかフラれてないのか。んん」
ベンチに横たわった玄夜は一拍後、勢いよく起き上がると紅葉を追いかけたのであった。
その後、とっても可愛かったからとの月の女神の鶴の一声で、お月見案内人のログは兎の肉球でも可能になったのだが、紅葉の鶴の一声ですぐに禁止になった。
「ええ、可愛かったのに」
「ねえ、可愛かったのに」
「まあ。いいけどね」
「なんで?」
「………はあ。あなたはまだまだ修行不足ね」
「なにが? なんで?」
月の女神はジト目で玄夜を見たが、玄夜の疑問には答えなかったのであった。
(玄夜の肉球は独り占めしたいっていう紅葉の恋心を分かってないなんて。まだまだまだまーだまだね)
(2026.9.12)




