思索の青木湖
犬神家の一族。
何度となく映像化されている横溝正史の名作推理小説『犬神家の一族』。名匠・市川崑監督によって映像化された1976年から30年の時を経て、セルフリメイクされたのが本作品だ。
信州財界の大物、犬神佐兵衛の遺した莫大な遺産をめぐって繰り広げられる骨肉の争いの舞台に、選ばれたのは信州長野県の上田市。
スリリングなミステリー作品でありながら、どこか上品さと美しさの漂う映像が綴られている本作、その理由はやはりメインのロケ地となっている仁科三湖だ。この作品の象徴とも言える「湖から突き出た足」のシーンが撮影されたのが仁科三湖の中でも最も広く深い、青木湖だ。白馬連峰をバックにしたこの美しい湖は、日本でも有数の透明度を誇る湖。本作のロケ地を選定する際、市川監督がこだわったと言われる「静寂と神秘性のある湖」という条件を見事に満たした、そのしっとりとした佇まいは、別名「思索の青木湖」の名にふさわしく、湖畔で物思いに耽りたくなるような文学的雰囲気を備えている。
「映画で観た、あの場所に行ってみよう ナビCafé スクリーン名場面ロケ地ガイド 【今月の映画】 『 犬神家の一族 』」Panasonic AUTOMOTIVE」より参照。
身分証明のためだけに取得したと言っても過言ではない運転免許証。
これが日の目を見るのは、身分証明が必要な時だけだったのだ。
素敵な場所に車で連れて行ってほしいな。
小悪魔な君が首を傾げて愛らしく頼むまでは。
小悪魔な君が、会話を重ねるにつれて好きになってしまった君が、首を傾げて愛らしく頼むから、練習に練習を重ねて、ペーパードライバーの名を返上したのである。
なのに、
「なぁんで俺は、甥っこと一緒に思索の青木湖を散歩しているのかねえ」
「漸く出逢えた運命の相手のキャバクラで働くお姉さんにフラれて可哀想だから付き合ってあげなさいってお母さんに頼まれて渋々付き合ってあげた僕に感謝してよ可哀想なおじさん」
「………」
三十代後半の男性、青木充はスマホをパンツの後ろポケットに収めてのち、姉の息子である十歳の少年、鈴木宗助を見下ろした。
すれば、顔は澄ましたままだが、スマホで青木湖を連写している甥っ子の姿が目に入った。
「宗助。『犬神家の一族』を見た事あるんだったか?」
「うん」
「じゃあ、風呂場で湖から突き出た足の真似をした事もあるか?」
「風呂場ではした事ないよ。プールでした事はある。小学校の体育の授業で友達と一緒にね。僕たちを見た先生も懐かしいなって言って一緒にしたよ」
「へえ。俺は風呂場でしたな。弟。宗助のもう一人のおじさんと一緒にダブルで。確か親父に写真を撮ってもらったはずだ」
「へえ。見てみたいな」
「じゃあ、ついでにばあちゃんじいちゃんに会いに行くか。ここから。まあ。近いし」
「突然行ったら迷惑じゃない?」
「迷惑じゃない迷惑じゃない。孫の飛び込み訪問は飛び跳ねたくなるくらい嬉しいもんだろう。多分」
「おじさんはいいの。おばあちゃんとおじいちゃんに怒られたりしない?」
「まあ。キャバクラに足繁く通ってはいるが、仕事はしているし、借金はしてないから怒られたりしないだろ」
「おじさんは何でキャバクラに行くの?」
「等価交換がきっちりしているから。お金を払って優しさ癒しをもらう。線引きがしっかりしている。しっかりしている女の子が多い。けど、別に結婚相手を探すためにキャバクラに通っているわけじゃない。明日も頑張る気力をもらっているだけだ。あのキャバクラで働いていたあの子だけが、特別だったんだ」
「けど。悪徳商売しているところもあるんでしょ?」
「俺が通っているキャバクラは優良商売だから大丈夫だ。宗助が二十歳になったら連れて行ってやる。ただし、俺が結婚したら浮気を疑われるかもしれないから連れてはいけない」
「うん。連れて行かれない事を願うよ」
「言うねえ」
「ねえ。おじさん。おばあちゃんとおじいちゃんの家に行くなら、連絡しときなよ」
「へえへえ」
「でも、もう少しだけここに居たいんだけどいいかな?」
(………いつか、好きな子に言われたい台詞だなあ)
「おじさん。どうかした。何でそんなしわしわ顔になってるの?」
「………気にするな。好きなだけ居ろ。ばあちゃんとじいちゃんに泊まりたいって連絡するから。姉貴にも伝えといてやる。明日は小学校休みだから大丈夫だろ。あ。姉貴と義兄貴居なくて一人で泊まれるか? 寂しいって泣いたりしないか?」
「しないよ。僕もう十歳だよ。一人で泊まれるし。けど。お泊りセット持ってきてないよ」
「そんなの途中の店で適当に買えばいいんだよ。な。そうしようぜ。俺も久々に太郎ちゃんとめいっぱい遊びたいしよ」
「太郎ちゃん。って。おばあちゃんとおじいちゃんと一緒に暮らしているグレート・ピレニーズだっけ」
「そうそう。しなやかで真っ白い長毛が特徴の大型犬。俺の癒し」
「………お母さんに連絡して泊ってもいいよって言うなら、いいよ」
「おう。連絡してみな」
「うん」
写真撮影を止めてスマホで電話をする宗助から、美しい青木湖へ視線を移し目を細めた充。いつか絶対好きな子をここに連れて来たいと思いながら、髪の毛をそよ風でたなびかせるのであった。
(もう、ペーパードライバーには戻れねえな)
(2026.4.24)




