梅とバレンタイン
走る必要なんてない。
自分の分も残っている。
わかっているのに、足が止まらない。腕も止まらない。
息が弾み、胸が躍る。
住宅街を通り抜ける時は歩いていたのに、麓に辿り着いた途端、身体が勝手に動いて走り出していた。
見渡す限り、梅の花が咲く誇る。
紅。白。黄。多種多様に。
意識してかがなくても、梅の匂いが鼻と言わず口にまで甘く届く。
高揚感が増して、心身がますます浮き立つ。
はやく。
はやく。
はやく、
山の頂へと辿り着け。
梅の木に蕾が顔を出し始めてから、梅の実を回収するまでの期間だけ、この平たい山の頂で店を開いている。
店長一人、店員一人。
ここを訪れる人からは、梅の妖精さん(フェアリー)、梅の守護者と呼ばれている。
自分は恥ずかしくて、英語で言えないので、日本語で読んでいる。
梅を使ったご飯を提供する定食屋さんだ。
いつから漬けているかはわからない梅干しとご飯、みそ汁だけの定食の時もあれば、その梅肉を使った魚のフライや、鶏肉、餃子がメニューに出される時もある。
日によって違うけど、今日、二月十四日にだけ出される特別メニューがある。
それは無料で、訪れる人に絶対手渡される。
店の前の地面に直に座っているのは、今日が珍しく温かいおかげだろう。
梅の花を朗らかな顔で見上げながら食べている人たちの合間を通って、店へと駆け込む。
叱られるとわかっていたけど、止まらなかった。
「妖精さん、守護人さん。梅のはなびらちらしチョコレートください!!!」
満面の笑みを向けた。
叱りが半減しないかなとの考えもある。
守護人さんは、しかめっ面はそのままだったけど、叱りはしないで、汗を拭かないと風邪をひくぞとタオルを渡してくれた。
言われてみれば、結構汗だくになっている気がする。
顔も熱い。
だから歩いていきなさいって言ったでしょう。
角を出す母の顔が頭に浮かんだ。
悪寒がする前に、素早く礼を言ってタオルを受け取り、服を着たまま背中と腹、脇を拭いた。
「洗って返すね」
「ああ。けど、歩いて来いって毎年言っているだろうが」
「うう。でも、早く食べたくて」
「これだけ言っても守らないなら、来年からおまえの分はなくそーかなー」
「ええ!?」
「こらこら。そんなことを言ったら可哀そうじゃないか。せっかくこんなに一生懸命駆け走って来てくれたのに」
厨房と客席をわける暖簾の奥から出てきた梅の妖精さんは、笑顔で、はい、と、梅のはなびらちらしチョコレートを見せてくれた。
手を洗っといで。
そう言われる前に、素早く店の外に設置された手洗い場に行って、液体状になっている梅石鹸を押し出して、泡がいっぱいになるまで、手のひら、手の甲、指の間、手首までごしごしこすり合わせて、ぬるいお湯で流してから、店の中へと戻った。
「今日は天気がいいし、温かいし、外で食べたらどうだい?」
「そうだな。おまえは毎年店の中でしか食べないだろう」
「ううん。店の中で食べる。梅は帰りにゆっくり見るもん。だめ?」
店の存在を母から教えられてから、天気が悪かったのは一回だけ。
あとは天気がいい日が続いているけど、いつも店の中で食べる。
そりゃあ、店の外で食べたら、よりいっそう美味しいんだろうけど。
(ここだって。格別に美味しいもん)
ゆったりと作業している二人を見ながら食べるのは。
「うわー。今年もきれいだねえ」
「ああ。きれいに咲いてくれたからな」
「感謝感謝だよ」
甘さ控えめの黒チョコレートの上にちりばめられた、特製のシロップに漬けられた梅のはなびら。
黄、紅、白。
外の光景に引けを取らないと言ったら、自然界に怒られるだろう。
少しだけ、罪悪感を覚えつつ、二人の顔を見て、大きな声でいただきますと言った。
(2021.2.14)




