なぜ絵画の瞳は光を失ったのか
ある音楽教室には一枚の絵画が飾られていた。バーバラ・クラフトの描いたモーツァルトの肖像である。当然ながら原物ではなく昭和中期に量産された複製品であるため、よくある代物、と言える。
しかしながらその音楽教室の一枚には他の複製品にはない特徴があった。
奇妙な噂が、こびり付いていたのである。
「こちらの肖像画は瞳が動くのです」
画廊の主である青年が得意げに述べる。
向かいに立つ婦人、二階堂綾香は、落ち着いた声色で応じた。
「その怪談もまた、よくある代物、だと思いますけど」
嘲りとも取れる発言であるが、青年に動じる様子はない。
「二階堂様のおっしゃる通り、肖像画の瞳が動くという話は学校の怪談等の定番でございます。また多くは根も葉もない単なる噂にすぎません。ただし、こちらの絵画につきましては、紛れもなくホンモノでございます」
綾香は溜息をつくように「はあ」とだけ述べた。
「お信じになりませんか」
「タネがあるのでしょ? 絵画の瞳は覗き穴になっている」
「おや、お気付きでしたか」
「気付くも何も、その肖像画は二階堂家が所有していたものです」
先の音楽教室を営んでいるのは綾香であった。綾香は幼少の頃より培ってきたピアノの技能を活かし、嫁ぎ先の一間を借りて稼ぎを得ていた。
その教室に瞳が動く肖像画は飾られていたのであるが、半年前、忽然と消えてしまった。肖像の掛けられていた壁面には未だ、覗きのために作られたであろう、隣室へと通ずる四角い穴があいたままである。
「……主人が、亡くなる直前に、売り払っていたのです。最近になって、肖像画は巡り巡ってこちらの画廊に置いてある、という話を耳にしまして」
「それで、取り返しに来た、というわけですか」
「取り返すだなんて。わたしはただ、あの人の形見を手元に置いておきたいだけです。もちろん代金はお支払いいたします」
そう伝えると、画廊の青年は口元を三日月形に歪めた。
「覗きの道具をご主人の形見として扱うとは、いささか不相応に思いますが」
笑顔と呼ぶにはあまりにも異形。青年の表情は鋳型で固めた青銅のように、無機質で、それでいて妖しく美しい。またその目は、好奇の光に満ちていた。
青年は事の詳細を欲しているに違いない。
抗い難い気配に促され、綾香は、とつとつと語り始めた。
「そのモーツァルトの肖像は、主人の顔でもあるのです」
綾香が二階堂家に嫁いだのは三年前、その頃には既に肖像画は飾られていた。表は凡庸な絵画にすぎないが、裏側にあたる隣室より望めば、明らかに覗きを目的とした細工が施されている。夫曰く、古くからある単なる飾り、とのことではあったが、綾香にしてみれば、その一種異様な佇まいに気味の悪さを感じずにはいられなかった。
とはいえ、実際に何者かが覗きをするわけではない。隣室は納戸として使われており、窓もなく、屋外からの侵入は不可能である。結局、長く二階堂の屋敷で暮らすうちに、いつしか絵画の姿は当たり前の風景に溶け込んでいった。それこそ、単なる飾り、と思えるほどに。
そんな状況が一変したのは婚姻から二年目のことであった。
夫が、勤め先を解雇され、納戸に閉じ籠ってしまったのである。
「……わたしが音楽教室を営んでいますし、何より二階堂家は代々地主として生計を立てていましたので、困窮することはありませんでしたが」
「ならば、そこまで気に病むことでもなかったのでは?」
「そうなのですが、主人は厳しく育てられたせいもあってか甲斐性に拘るところがありまして、それで、その、なんと言いますか、男性としての自信を少々」
わずかに言い淀む。青年はそんな綾香の姿を見て首を傾げた。
「男性としての自信、ですか」
「その、あの、性機能不全と言えば、良いですかね」
「なるほど、それは深刻だ」
「わたしは気にしませんでした。でも主人は負い目を感じてしまったのか、わたしに触れることを、わたしに姿を見せることさえも、恐れるようになったのです」
以来、夫はモーツァルトの肖像を介してのみ綾香と接触をするようになった。接触と言っても、ただ二つの覗き穴からこちらを見つめるだけである。声を掛けようとも一つとして言葉を発することはない。
かといって、綾香への興味が失せたわけでもないようであった。綾香がピアノの置かれた客間に入室する度に、必ず、熱を帯びた視線を寄越してきたのである。それは極めて執拗で、レッスンの最中であっても、綾香の指先、爪先、息遣い、全ての所作を、念入りに観察するほどであった。
変質的と断じるのは容易い。けれども、追い詰められた上での行為ということを承知しているため、咎めるのは躊躇われる。ましてや、妻を愛するがゆえのことともなれば尚更である。
そうして綾香は、夫を、すなわちモーツァルトの肖像を、見守ることにした。夫は綾香の不在時に食事等を済ませている。生きる意志を失ったわけではない。それならば、いずれは時間が解決してくれよう。
ところが、その認識は楽観であった。
数ヶ月が過ぎようと、夫が姿を見せることはなかった。
痺れを切らした。否、焦りが生じた。いま夫を救わなければ二人の一生を肖像画に捧げることになりかねない。そんな考えが頭をもたげた。
そこで半年前、綾香は、夫に想いの丈を伝えることにしたのであった。
――愛の神よ わたしの悲しみと溜息に
慰めをお与えください
わたしの愛する人をお返しください
歌劇『フィガロの結婚』の一節を口にする。加えて手を差し伸べる。
夫は相も変わらず言葉を発しはしなかった。ただしその目は、頷いているかのように、ゆっくりと瞬きをしていた。
その翌日のことである。モーツァルトの肖像画がなくなっていた。そして。
「……主人は客間で、自ら毒を飲んで、死んでいたのです」
綾香は唾を飲み込み、それからすぐ話を継いだ。
「買い戻した肖像画は元の場所に飾り直すつもりです。わたしは主人の心を理解してあげられなかった。その贖罪のため、あの人の顔であった肖像と共に生きていこうと思います」
話を聞き終えた画廊の青年は、うやうやしく頭を下げた。
「興味深いお話をありがとうございました。しかし一点、気になることがございます。二階堂様、お尋ねしても宜しいでしょうか」
「ええ、どうぞ」
「果たして、本当に自殺だったのでしょうか」
「どういう意味ですか?」
そう言い返すと、青年はおもむろに肖像画を手に取った。
「なぜご主人は亡くなったのか、真相は絵画の瞳だけが知っていることでしょう」
* * *
暗闇の中、二つの穴から光が零れていた。
二階堂昭雄は、その穴に両の目をあてがった。
瞳に映る光明の世界には、一台のピアノと、綾香の姿があった。
昭雄が初めて覗きを行なったのは十四歳の時、父から命じられたのが切っ掛けだった。当時、昭雄の母は綾香と同じように音楽教室を営んでいた。そのレッスンの様子を監視するよう言われたのだ。事情は説明されなかった。だが、あらかじめ用意されていた肖像画を模した覗き穴に目をあてがった時、一瞬で全てを理解せしめられた。母は、生徒と思われる見知らぬ男と、身体を重ねていたのだった。
父は母の不貞を察していたのだろう。そしてその罪を息子から糾弾させようとしたに違いない。残酷な演出だ。復讐と呼んでも良い。
しかし昭雄は、その思惑通りには動かなかった。父から様子を問われた際、何もなかった、と答えた。決して両親の仲を取り持とうとしたわけではない。ましてや母を擁護する気もなかった。
昭雄の願いは一つ、これからも覗きをしたい、それだけだった。
監視の命を免除されてからも覗きを繰り返した。年齢的に男女の営みに興味があったというのもあるが、それよりも、覗き、という行為自体に惑溺していた。父が仕事の間、常に肖像の裏にある納戸に籠ってレッスンを観察したほどだ。
レッスンと言っても奏でられるのはピアノではなく、醜悪な、女という楽器。繰り広げられる光景がグロテスクなほど昭雄の心身は昂った。
そんな生活は、何年にも及んだ。ところがある日、唐突に終わりを告げた。父が心臓を患って他界すると、母は興が醒めたように、音楽教室を閉めたのだった。母が求めていたものは肉体的な愉悦ではなく背徳感だったのだろう。そのため、独り身という自由を得た瞬間、全てが味気ないものと化したに違いない。
母はその後、昭雄が成人する頃、父の後を追うように、父と同じ病にて、この世を去った。昭雄が両親から授かったものは、広大な土地と、寂寥感だけだった。
両親の死後、若くして孤独となった昭雄の身を案じ、親類達が幾度も縁談を持ち掛けてきた。そのうち何件かにおいては結婚にまで至り、家族の真似事などをしたこともあった。だが、いずれも長くは続かなかった。
昭雄の精神は、暗い納戸の中に、閉じ籠ったままだったのだ。
その扉を開いたのは、綾香だった。
ふと、ピアノの音色が聞こえてくる。まだレッスンは始まっていない。綾香が静寂を埋めるためだけに弾いているのだろう。この旋律は確か、モーツァルトの『ヴォイケサペーテ』だ。歌劇『フィガロの結婚』において、小姓ケルビーノが伯爵夫人に捧げる愛の歌。
昭雄は思う。まさに、いまの気分に似つかわしい。
初めて出会った時も、綾香は、ピアノを演奏していた。その姿は華やかかつ可憐で、蝶と見紛うほどだった。初恋だった。一目惚れなぞ迷信と思っていた昭雄にとって、その出会いは覗きをも超える甘美な衝撃だった。
すぐさま彼女に声を掛けた。音楽教室の経営を勧めた。その提案は快く受け入れられ、やがて、昭雄は綾香と共に暮らすこととなった。
しかし。
いま現在の昭雄は、再び納戸に閉じ籠っている。
これは呪いだ。かつて背徳に堕ちた者への戒めなのだ。やはり光に舞う者と闇を漂う者では釣り合わなかったのだろう。
昭雄は、男としての価値を失っていた。いや、正確には、綾香から男として扱われていなかった。触れることは許されず、愛を囁くこともご法度だ。ならば、こうして、モーツァルトの肖像画を通して見つめることだけが、唯一の慰めだ。
ピアノの音が止んだ。今日も、あの若い男がやって来たようだ。
翌日も、あの若い男はやって来た。
その翌日も。
その翌日も。
昭雄が納戸に閉じ籠ってからというもの、毎日のように、一人の若い男がレッスンを受けに来るようになった。時刻は必ず夜。仕事終わりに立ち寄っているという雰囲気だ。レッスン受講者の多くは子供か主婦だ。そんな中において、男の存在は明らかに浮いていた。会話を盗み聞いたところ、恋人の誕生日にピアノの演奏を披露したい、とのことだったが、どこまで本当か分かったものではない。
それにもかかわらず、綾香は、不信感を抱いていない様子だった。むしろ、男に対して好意を抱いているようにも見えた。
もしや、と邪念が湧く。と同時に、致し方ないことだ、という諦めの感情が心を占める。綾香とて若い。昭雄が満足をさせることができないのであれば、一時の情事は見逃して然るべきではないか。そんな考えが、次第に膨らんでいった。
今日も、穴を覗くと、綾香と男が肩を並べてピアノに向かっていた。演奏されているのは拙いメヌエットだ。激しい曲ではない。手取り足取り教えるような曲でもない。しかし、二人の腕と腕は頻繁に触れ合っていた。
不意に母の姿を思い出す。重なった肉と肉。刻まれる律動。高音のアリア。母は背徳感のみを貪っていた。そこに愛と呼べる感情なぞ込められてはいなかった。それは無価値だ。それはただの物理現象にすぎない。
真の愛というものは、この身の内に宿った想いを指す。他人の衝動的な欲求ごときに揺るがされることはないだろう。これは試練だ。さあ、抱いてみろ。
昭雄は覚悟を決めた。たとえ綾香が若い男と交わろうとも、愛し続けると、自らに誓いを立てたのだった。
ピアノを弾く指が止まる。綾香と男が見つめ合う。
その時、昭雄は思わず叫んでしまった。
「やめろ! やめてくれ!」
覚悟を決めた、はずだった。だが所詮は空論。実際に目の前で愛する者が穢されようとしているのを、見過ごすわけにはいかなかった。
綾香がこちらを一瞥する。そして男に深々と頭を下げた。はっきりとは聞き取れなかったが、レッスンを終わらせてくれ、と頼み込んだようだ。若い男は、ばつの悪そうな顔をして、すごすごと帰っていった。
客間に一人となった綾香は、肖像画の前に立った。
「何をしているんです? 出てきてください」
そう訴えられ、昭雄は客間まで出向いて久しぶりに姿を晒した。
いざ向かい合ってみると、綾香は、言葉が浮かばなかったのか、黙ったままこちらを見据えるだけだった。そんな彼女に、そっと告げる。
「君を愛しているんだ」
しかし返ってきたのは冷たい一言。
「困ります」
これも試練だ。乗り越えた先には眩い世界が広がっているに違いない。
「本気なんだ」
「だからといって覗きなんてやめてください」
「私が私の道具を使おうと何も問題はないだろ。その肖像画はね、元々は私が覗きをするために用意されたものなんだ。それなのに」
そこまで言って口を閉ざす。すると彼女は眉根を寄せて声を低めた。
「それなのに、なんですか? 何を言おうとしたのですか?」
昭雄は大きく息を吸い、捲し立てるように綾香に告げた。
「私の覗きの道具を、あいつは勝手に使い、勝手に売り払った。あの日、あいつは君とやり直そうとしていた。その決意を示すために肖像画を売り払ったと私に言ってきたんだ。せっかく君と二人きりになれると思っていたのに。だから、毒を盛ったんだよ。それほど本気で君を愛しているんだ」
話を聞き終えた綾香は、唇を細かく震わせながら、そんな、と一つ呟いた。それから、泣き叫ぶように、続く言葉を口にした。
「……お義父様が、あの人を殺したなんて!」
なぜ絵画の瞳は(義父の手によって)光を失ったのか 了