第9話「王国の陰謀」
瘴気嵐の生々しい傷跡がようやく癒え、畑がかつて以上の青々とした生命の活気を取り戻した頃。
その日の朝は、奇妙なほど死の森の空気が澄み切っていた。
常に響いている不気味な鳥の魔獣の鳴き声すら聞こえない、耳鳴りがするほどの異様な静寂。
畑に水をやっていたライラは、ふと冷たい風の中に混じる微かな鉄と皮の匂い――大量の人間の匂いを感じ取り、ハッとして顔を上げた。
「……レオンハルト様」
畑の端で薪用の丸太を割っていたレオンハルトが、斧を静かに置いて立ち上がる。
彼の表情は、すでに凄惨な闘いに臨む最前線の騎士のそれだった。
枯れ木の向こう、瘴気が薄れつつある境界線のあたりに、無数の黒い人影が横一列にずらりと並んでいる。
陽光を反射してギラギラと無機質に光る、幾百もの槍と盾。
王国の正規軍だった。
その数、ざっと見積もっても五百は下らない。
「あの豚神官長め……、やはり諦めていなかったか」
レオンハルトが低く、殺意を込めた舌打ちをした。
軍の先頭に立っているのは、豪奢な白い法衣を着た神官長と、磨き上げられた鎧を着込んだ軍の指揮官らしき男だ。
彼らは瘴気の薄い、安全なギリギリのラインで立ち止まり、こちらを威圧するように王国の軍旗を高く掲げている。
「ライラ、俺の背中から絶対に離れるな」
レオンハルトは斧を投げ捨て、腰に提げた使い込まれた長剣の柄に手をかけた。
いくら彼が王国最強の『死神』と恐れられた騎士であっても、平地で五百の軍勢をたった一人で相手にするのは無理がある。
しかも、相手は彼がかつて最前線で命を懸けて守り、直接指揮して血と泥を舐め合った王国の兵士たちなのだ。
ライラは心臓が氷の手に掴まれたように冷たくなるのを感じながら、彼の広い背中にピタリと寄り添った。
「元・第一騎士団長レオンハルト! そして追放された無能な聖女候補生ライラ!」
神官長が、拡声の魔導具を使ってヒステリックな声を張り上げた。
その下劣な声が、静かな森の空気をビリビリと不快に震わせる。
「貴様らの泥畑が作り出す『浄化作物』は、王国の瘴気を払うための重要な軍事物資と認定された! 直ちに畑の所有権を明け渡し、大人しく王国へ帰還して土を舐めよ! 逆らうならば、反逆者として森ごと焼き払う!」
神官長が扇を振り下ろした背後で、弓兵たちが一斉に火のついた矢を番え、こちらに狙いを定めた。
森の枯れ木に一斉に火が放たれれば、再び瘴気の停滞バランスが崩れ、先日以上の破壊的な大嵐が巻き起こるかもしれない。
彼らは利益を生む作物を手に入れるためなら、自分たちの命を救ってくれた森がどうなろうと知ったことではないのだ。
「下劣な豚どもが。俺が直々にあの醜い首を刎ねてやる」
レオンハルトの灰色の瞳に、一切の感情を排した明確な殺意が宿った。
彼が長剣を鞘から抜こうとしたその瞬間、ライラは泥だらけの両手で彼の太い腕を骨が軋むほど強く掴んだ。
「駄目です、レオンハルト様!」
「手を離せ、ライラ。奴らは狂っている。ここで芽を摘まねば、君の畑は軍靴で蹂躙される」
「でも、相手はあなたが背中を預けて戦った部下だった人たちでしょう!? あなたが、自分の国の兵士を斬って血を流す必要なんてない!」
ライラの悲痛な叫びに、レオンハルトは意表を突かれたようにわずかに目を見張った。
彼が剣を抜くのを躊躇したその一瞬の隙に、ライラは彼の大きな背中から泥の上へと進み出た。
「ライラッ!」
「大丈夫です。私に任せてください」
ライラは震える肺に深く森の空気を吸い込み、五百の圧倒的な軍勢に向かって真っ直ぐに歩み寄った。
『無能』と蔑まれた娘が一人で前に出てきたことに兵士たちがざわめき、弓兵たちが火矢の狙いを彼女の細い体へと定める。
だが、ライラは泥に両足を踏ん張り一歩も引かず、毅然とした態度で神官長を睨み据えた。
「私を連れ戻し、畑を奪うと言うのですね」
「いかにも! お前は一生、王宮の日の当たらない地下牢で『浄化作物』を作り続ける都合のいい奴隷となるのだ! それが、無能な出来損ないに与えられた唯一の価値だと知れ!」
神官長が肥え太った醜い顔を歪めて嘲笑う。
ライラはふっと静かに息を吐き、足元の黒い土に向かって両手をかざした。
そして、体内の魔力を血管が軋むほど一気に解放する。
ピキッ、という空気がひび割れるような音とともに、足元の土壌から緑色の光が爆発的に溢れ出し、周囲の作物が一斉に巨大な葉を揺らした。
だが、それは命を育む成長の光ではない。
魔力の流れを意図的に断つ『反転』
一瞬にして、畑の一部にあった色鮮やかなトマトやキャベツが、黒い毒の灰となってパラパラと無惨に崩れ落ちた。
「な、何をしているッ!」
神官長が豚のような悲鳴を上げる。
ライラは彼がかつて自分に向けたのと同じ、冷ややかな目で見返した。
「この作物は、私が毎日つきっきりで魔力を注ぎ込み、細かく調整しなければ、すぐに濃密な瘴気に飲まれて無価値な灰になります。私が王宮の地下牢に閉じ込められたり、ここでレオンハルト様が少しでも傷つけられたりすれば……私は二度と魔力を使いませんし、何も教えません。あなたたちが軍隊を動かして手に入れられるのは、ただの猛毒の灰だけです」
ライラの静かで重い言葉に、神官長の顔色が赤から青へと変わった。
「き、貴様……っ! この王国を脅迫するつもりか!」
「脅迫ではありません。対等な取引です」
ライラはさらに一歩前に出て、澄んだ声ではっきりと宣言した。
「王宮には二度と戻りません。この畑の所有権は私とレオンハルト様にあります。ですが、あなたたちが武力による制圧を諦め、今後一切私たちのこの生活を脅かさないと王の名において約束するなら……月に一度、一定量の『浄化作物』を森の境界線に用意します」
「馬鹿な! 我々はすべてを没収すると言っているのだ!」
「なら、今すぐ全てを灰にして私も舌を噛みます。私ごと焼き殺して、王様に『せっかくの莫大な利益を生む浄化作物を手に入れる機会を、私の不手際でふいにしてしまった』と報告すればいいでしょう!」
ライラの毅然とした、命を張った態度に、兵士たちの間に決定的な動揺が走った。
軍の指揮官が、苦々しい顔で舌打ちをして神官長の耳元で何かを囁く。
もし本当にすべてが灰になれば、上層部から無能の烙印を押され、責任を問われるのは彼らなのだ。
武力で脅せばすぐに泣き叫んで屈すると思っていた田舎娘が、自らの命と作物を天秤にかけ、一歩も退かずに交渉を突きつけてきた。
「……くっ、覚えておけ! この協定の量が少しでも破られれば、次こそは軍隊で蹂躙してやるぞ!」
神官長は顔を茹でダコのように真っ赤にして怒鳴り散らすと、忌々しげに踵を返した。
指揮官の重々しい号令とともに、五百の軍勢がゆっくりと森の境界線から退いていく。
兵士たちの姿が完全に見えなくなり、金属の軍靴の音が遠ざかっていくのを確認した瞬間。
ライラの膝からふっと力が抜け、泥の上へへたりと座り込んだ。
「……怖かった……」
極度の緊張で震える両手を強く握りしめ、ライラは肺に残っていた空気をすべて吐き出した。
背後から近づいてきたレオンハルトが、無言で彼女の隣に腰を下ろす。
「無茶をする」
「でも、レオンハルト様が怪我をしなくて……かつての部下を斬らなくて済んで、よかったです」
ライラが涙目の泣き笑いのような顔で振り返ると、レオンハルトは小さくため息をつき、彼女の泥だらけの頭を大きな手でポンと撫でた。
「あいつらは果てしなく欲深い。この程度の取引で、長く引き下がるとは思えない。またすぐに別の手で、君を、ここを奪いに来るだろう」
「……はい」
「だが、君はよくやった。剣を使わず、言葉の刃だけで五百の兵を退けたんだ。王国のどんな騎士よりも、立派な戦いだった」
レオンハルトの低く静かな称賛の言葉に、ライラの胸の奥がじんわりと熱くなる。
二人は泥の上に並んで座り、緊張の余韻の中で、荒らされた畑の土を静かにならした。
翌朝、ライラは約束通り、初めての『納品分』となる浄化作物を古びた木箱に詰め込んでいた。
彼女の魔力と土の力が結実した、大きく育ったキャベツやニンジンが、瑞々しい生命力を放っている。
本来なら、二人で笑顔で食べるか、あるいは森の小さな生き物たちに分け与えるはずだった大切な命の結晶。
それが、自分たちを迫害し見捨てた王宮の腐った貴族たちの胃袋に収まると思うと、胸の奥が理不尽さにチクリと痛んだ。
「辛いか」
「少しだけ。でも、これで彼らと一緒にいる穏やかな時間が買えるなら、安いものです」
重い木箱を軽々と運ぶレオンハルトの横顔に、ライラは努めて明るく微笑みかけた。
彼が隣にいてくれる。土が私の声に応えてくれる。
それだけで十分だ。
木箱は森の境界線に置かれ、やがて無言の兵士たちによって回収されていった。
王国の陰謀はまだ終わっていない。
だが、この死の森の真ん中に深く根を下ろした二人の生活もまた、決して揺らぐことはない。
ライラは泥のついた手でクワをしっかりと握り直し、次なる種を蒔くために、力強く黒い土を掘り起こした。




