第10話「大魔獣襲来(防衛戦・前編)」
王国の軍勢とギリギリの取引を交わしてから、さらに一ヶ月が過ぎた。
月に一度の緊張を強いられる納品日。
ライラとレオンハルトは、約束通り森の境界線へと重い木箱を運び出していた。
だが、そこに待っていたのは、前回よりも遥かに数を増した、千を超える重武装の軍勢だった。
森の入り口を半円状に分厚く包囲し、幾重にも連なる鉄の盾と槍の壁が築かれている。
その後方には、攻城兵器である大型の投石機や、殺戮兵器である巨大な魔導砲すらも無機質に並べられていた。
「どういうつもりだ。要求された作物はここに用意してあるぞ」
レオンハルトが周囲の空気を凍らせるような鋭い声で問うと、陣形の奥から神官長が豚のように脂ぎった顔で姿を現した。
「無意味な取引は終わりだ。王宮の賢者たちが、あの泥臭い作物を分析し終えたのだよ」
神官長は勝ち誇ったように下劣な鼻を鳴らす。
「あの作物には、確かに凄まじい浄化の力がある。だが、一度土から離れれば、たった数日でその力は失われてしまうのだ。そんな欠陥品を月に一度受け取ったところで、王国の瘴気対策には到底間に合わん。やはり、あの無能女と畑そのものを王宮の完全な管理下に置かねばならんという結論に至ったのだ」
「……王の名において結んだ約束を違えるというのか」
「王国法の下では、無能な追放者との口約束など一切の法的拘束力を持たんよ。それに、今回は貴様を確実に肉片にするための『切り札』も用意してある」
神官長が肥えた手を挙げると、巨大な魔導砲の砲口が一斉にライラとレオンハルトへと向けられた。
王国が莫大な予算をつぎ込んだ最新鋭の対魔獣用殲滅兵器。
直撃すれば、いかに王国最強の騎士といえども跡形もなく吹き飛ぶ。
ライラは恐怖に息を呑み、レオンハルトの背中を指が白くなるほど強く握りしめた。
武力による強制的な略奪と排除。
王国はついに、なりふり構わぬ極悪な強硬手段に出てきたのだ。
「ライラ、俺の背中から離れるな」
レオンハルトが腰の剣を抜き放ち、地を這うような低い声で告げた。
その灰色の瞳に、かつてないほど冷たく、残酷な怒りの炎が宿る。
一触即発の、張り詰めた糸のような空気が漂う中。
ズズン……。
突如として、森の奥深くから内臓を揺さぶるような重低音が響き渡った。
足元の黒い土が激しく波打ち、巨大な枯れ木が次々とへし折られ、薙ぎ倒されていく。
魔導砲の砲撃音ではない。
それは、もっと原始的で巨大な『何か』が動く足音だった。
「な、なんだ……!?」
王国の兵士たちがざわめき、恐怖に顔を引きつらせて陣形を乱す。
森の奥から、山のように巨大な影が、濃密な瘴気を引き連れてゆっくりと姿を現す。
四つ足の巨大な魔獣。
古の伝承に語られる『山脈亀』のような巨体だが、その背には甲羅ではなく、無数の鋭く黒い岩棘が槍のように突き出ている。
そして、全身から立ち昇る瘴気は、先日の瘴気嵐すら比較にならないほど濃密で、息をするだけで肺が焼け爛れそうなどす黒さだった。
魔獣がゆっくりと濁った息を吐き出すだけで、周囲の枯れ木が一瞬にして炭化し、ボロボロと崩れ落ちていく。
過去最大級、いや、王国の歴史上でも類を見ないほどの『超大型魔獣』だった。
「ひぃっ……!」
「ば、馬鹿な! なぜあんな規格外の化け物が……!」
神官長が悲鳴を上げて泥の上に腰を抜かし、兵士たちは完全に浮き足立って盾を下ろしている。
魔導砲の狙いも定まらず、千の軍勢の陣形はあっという間に崩壊し始めていた。
「……最悪だ」
レオンハルトが、忌々しげに短く舌打ちをした。
「あれは、この死の森の瘴気の『主』だ。おそらく、畑の生命力と光に引かれて、地の底から目覚めてしまったんだろう」
魔獣の巨大な白濁した瞳が、悲鳴を上げる王国の軍勢を虫ケラのように一瞥し――すぐに興味を失ったように、ライラの背後にある畑へと向けられた。
魔獣の口から耳をつんざくような咆哮が放たれる。
ゴォォォォォォッ!!
音圧だけで全身の骨が軋み、吹き飛ばされそうになるほどの衝撃。
魔獣は王国の千の軍勢には目もくれず、地響きを立てながら真っ直ぐにライラの畑へと足を踏み出した。
「逃げるぞ、お前たち! 退却だ!!」
神官長が法衣を泥で汚しながらいち早く悲鳴を上げ、背を向けて無様に走り出す。
指揮官を失った軍勢は完全にパニックに陥り、重い盾や槍を次々と放り出して我先にと逃げ惑い始めた。
だが、レオンハルトとライラには、背を向けて逃げるという選択肢はなかった。
畑のすぐそばには、二人が泥まみれで作った、共に暮らす小さな小屋がある。
そして何より、この畑の土こそが二人の命を繋ぎ、かけがえのない絆を育んできた唯一の居場所なのだ。
「……ライラ。君は畑の中央にいろ。何があっても結界の中から出るな」
「レオンハルト様……っ」
「俺が、あれをここで止める」
レオンハルトは片手で愛用の長剣を構え、山のような魔獣へと正面から向き直った。
その背中は、絶望的な体格差を前しても、鋼のように揺るぎない。
ズズン、ズズン。
魔獣が一歩足を踏み出すたびに、大地が悲鳴を上げて割れる。
レオンハルトは大きく息を吸い込み、全身の細胞を沸騰させて黄金色の闘気を爆発的に立ち昇らせた。
だが、その瞬間。
「ぐっ……!」
彼の顔が激痛に歪み、泥の上に片膝をつきそうになった。
ライラの特製ジャガイモで根源の呪いは消し去ったはずだが、長年猛毒の瘴気に蝕まれ続けていた肉体の深刻なダメージは、まだ完全には癒えていなかったのだ。
闘気を引き上げるたびに、古傷が内側から焼け付くように痛み、全身の筋肉が悲鳴を上げる。
(だが、ここで倒れるわけにはいかない……っ! 彼女を守るんだ!)
レオンハルトは血を吐くような思いで激痛をねじ伏せ、泥の地面を力強く蹴り出した。
魔獣の巨大な前足が、畑を無惨に踏み潰そうと容赦なく振り下ろされる。
その影の直下へ飛び込んだレオンハルトは、全身のバネを使って真上へと跳躍した。
「オオオオオオオッ!」
裂帛の気合とともに、黄金の闘気をまとった長剣が、魔獣の分厚い足首へと深々と突き刺さる。
岩のような皮膚を闘気で突き破り、黒い血が噴き出した。
魔獣が痛みに咆哮を上げ、バランスを崩してたたらを踏む。
だが、山のような巨体から見れば、致命傷には程遠い。
「ギィェェェェェェッ!」
怒り狂った魔獣が、巨大な尾を鞭のように薙ぎ払った。
空中にいたレオンハルトは回避することができず、とっさに剣の腹で防御姿勢をとる。
ガンッ!!
骨が砕けるような衝撃が全身を貫き、レオンハルトの巨体は吹き飛ばされた。
数十メートル先の大木に激突し、バキリと嫌な音を立てて泥の地面に墜落する。
「レオンハルト様ァァァッ!!」
ライラが喉が裂けるほどの悲鳴を上げ、畑の結界から飛び出そうとした。
「……来るなッ!」
舞い上がる黒い土埃の中から、全身血まみれになったレオンハルトがゆっくりと立ち上がる。
銀色の髪が額から流れる大量の血に染まり、息をするたびに口から血の泡がこぼれた。
左腕は関節から外れて不自然な方向に曲がり、あばら骨も確実に数本折れて内臓を傷つけているだろう。
それでも、彼の灰色の瞳の光は少しも、欠片ほども衰えていなかった。
「ここは……俺が命を懸ける、唯一の居場所だ」
彼は折れた左腕をだらりと下げたまま庇い、右手一本で重い長剣を構え直す。
「この肉体に代えても、彼女に指一本、触れさせはしない……っ!」
再び黄金の闘気を命を削るように身にまとい、死の淵に立つ騎士が巨大な魔獣へと突撃していく。
絶望的な体格差。
圧倒的な質量の暴力の前に、彼の命が今まさに燃え尽きようとしていた。
ライラは泥に両膝をつき、ただ震えることしかできなかった。
無能な自分には、ただ土をいじって野菜を育てることしかできない。
愛する人が目の前で自分を守るために死にかけているというのに、何もできない自分の無力さが、たまらなく、胸を掻きむしりたいほど悔しかった。
(駄目。このままじゃ、彼が殺されてしまう)
ライラは泥だらけの震える両手を、爪が食い込むほど強く握りしめた。
涙で視界がぐしゃぐしゃにぼやける中、幾度も尾で吹き飛ばされ、骨を砕かれながらも立ち上がるレオンハルトの背中が、ひどく小さく見えた。
彼が自分の命を捨ててまで守ろうとしているのは、自分だ。
この泥まみれの小さな畑と、王宮を追放された無能な聖女。
そのために、彼がたった一人で命を散らすなんて、絶対に間違っている。
「……私の、せいだ」
私がこんな場所で、強力すぎる浄化作物を育ててしまったから。
王国の軍勢も、この古の超大型魔獣も、すべて私が引き寄せてしまったのだ。
なら、私が、私の命で終わらせなければならない。
ライラは畑の中央に立ち尽くし、両手で自らの胸の奥底――心臓の鼓動と魔力の源へと意識を極限まで集中させた。
これまでは、土に宿る微弱な命の鼓動を優しく助けるためだけに力を使っていた。
だが、それでは到底間に合わない。
あの規格外の魔獣を浄化し、死にかけている彼を救うためには、圧倒的な『核』が必要だ。
「……お願い。私の中にあるもの、血も肉も全部持っていっていいから」
ライラはその場に両膝をつき、祈るように両手を深く、黒い土の奥底へと突き立てた。
指先から土へ流し込むのは、ただの魔力だけではない。
自らの血と、肉と、生命力そのもの。
体温が指先から急速に奪われ、視界の端から少しずつ黒い靄がかかって光が失われていく。
それでも、ライラは決して手を離さなかった。
彼が今、命を懸けているのだ。自分がここで命を懸けなくてどうする。
土の奥深くで、凄まじい熱量を持った『種』が急速に脈打ち、膨張していくのがわかった。
それは、死の森の瘴気を喰らい尽くし、世界を救済するための、究極の命の結晶。
ライラの意識が深い暗闇に沈んでいく中、畑の中心から、目を焼くような黄金の光が、天を貫く巨大な柱となって立ち昇り始めていた。




