第11話「大魔獣襲来(防衛戦・後編)」
「ハァッ……、ハァッ……!」
レオンハルトの血の味が混じった荒い息遣いが、絶え間なく続く轟音の中に虚しく吸い込まれていく。
巨大な魔獣との一方的な死闘は、すでに一時間を超えようとしていた。
彼の鎧は跡形もなく砕け散り、全身からどくどくと流れる血が、黒い泥の地面に生々しい赤い染みを作っている。
幾度となく剣を振るい、魔獣の岩のような分厚い皮膚を切り裂いてはいるものの、その傷は瘴気による超常的な再生能力によって瞬時に塞がれてしまう。
対してレオンハルトの肉体は、とっくの昔に限界を超え、いつ心臓が止まってもおかしくない状態だった。
「グォォォォォォッ!!」
魔獣が巨大な前足を高く振り上げ、大地を叩き割るような勢いで踏み下ろした。
レオンハルトは間一髪で真横へ跳躍するが、爆発のように巻き上げられた鋭い岩片が、彼の右脇腹の肉を深くえぐり取った。
「がはっ……!」
空中でバランスを崩し、泥の中を無様に転がる。
強烈な痛みで視界が激しく明滅し、剣を握る右手の感覚が血まみれになって消失していた。
(……ここまで、か)
薄れゆく意識の中で、レオンハルトは背後を振り返った。
すぐ後ろには、ライラが泥だらけの両手を土に深く突き立てたまま、石像のように動かなくなっている。
彼女の小さな体からは、凄まじい密度の魔力が命を燃やすように放出されており、周囲の空気が熱を持った陽炎のように揺らめいていた。
彼女は今、自分の命を削り切ってまで、何かを為そうとしている。
それが何なのかはわからない。だが、彼女が諦めていない以上、自分が先に泥に伏して倒れるわけにはいかないのだ。
「……まだだ。まだ、俺の足は立っている」
レオンハルトは関節の外れた左腕で無理やり地面を押し、血みどろの体で再び立ち上がった。
折れかけた剣の柄を、感覚のない右手と、血だらけの左手で骨が軋むほど握りしめる。
その姿を見た魔獣が、鬱陶しい羽虫を睨みつけるように低い唸り声を上げた。
魔獣の巨大な口の奥で、どす黒い瘴気が超高密度に圧縮され始める。
森を、いや、この大地そのものを消し飛ばすほどの、極大の瘴気ブレスの予備動作だった。
「来い、化け物……! 俺の命の血の最後の一滴まで、お前に喰わせてやる!」
レオンハルトは残されたすべての闘気を折れかけた剣に集束させ、決死の構えをとった。
逃げ場はない。
背後のライラを守るためには、あの死のブレスを正面から受け止め、相殺するしかなかった。
その頃、ライラの意識は、黒い土の奥深くに広がる果てしない暗闇の中にあった。
自らの血と肉、命を削って生み出した『種』が、周囲の瘴気を猛烈な勢いで吸収し、熱を帯びていく。
足りない。
まだ、あの巨大な魔獣を浄化するほどの力には達していない。
(もっと……私の命を、もっと使って!)
ライラは奥歯が砕けるほど歯を食いしばり、魔力の回路をさらに無理やり押し広げた。
バチッ、という肉が裂けるような嫌な音が体内で響き、泥に突き立てた両手の指先から爪が剥がれて赤い血が噴き出す。
さらに、彼女の艶やかな亜麻色の髪が、毛先から徐々に真っ白な色へと抜け落ちていった。
生命力の過剰な消費による、急激な老化と崩壊現象。
もしこのまま力を注ぎ続ければ、数分後には彼女の肉体は完全に灰となって泥に崩れ去るだろう。
だが、ライラに一切の迷いはなかった。
(彼が死ぬくらいなら、私が消えた方がいい)
王宮で「無能」と見下され、誰からも必要とされず、泥をすすって生きていた自分。
そんな自分を、彼は「宝だ」と言ってくれた。
泥だらけのジャガイモを美味しいと笑い、大きくて温かい手で頭を撫でてくれた。
その体温の記憶だけで、ライラはどれだけでも自分の命を絞り出すことができた。
土の奥深くで、命の種が限界まで膨張し、ついに発芽の時を迎える。
ズンッ、と大地が心臓の鼓動のように大きく揺れ、ライラの突き立てた血まみれの両手の間から、眩い黄金の光が泥を吹き飛ばして噴出した。
「あ、ああああっ……!」
全身の骨が内側から軋み、喉から大量の血が混じった悲鳴が漏れる。
土を突き破って現れたのは、黄金に輝く一本の太い蔓だった。
蔓は瞬く間にライラの背丈ほどまで伸び、その先端に、たった一つの小さな蕾をつける。
蕾は心臓のように鼓動して明滅し、周囲の空間ごと歪めるような浄化の波動を放ち始めた。
「咲いて……っ、お願い、咲いて……!」
ライラは爪が剥がれて血まみれになった両手を伸ばし、その蕾を包み込んだ。
自分の中に残された生命の最後の一滴まで、魔力に変えて注ぎ込む。
ふわり、と。
蕾がゆっくりとほどけ、中から拳ほどの大きさの真ん丸な果実が姿を現した。
表面は透き通るような黄金色をしており、内側に無数の星屑を閉じ込めたように輝いている。
黄金の果実。
これこそが、ライラが己の命と若さを代償にして生み出した命の結晶だった。
果実が実った瞬間、ライラの膝から力が抜け、泥の上へ倒れ込みそうになる。
視界は真っ暗に塗りつぶされ、肺がひしゃげたように呼吸をすることすら困難になっていた。
「ギョォォォォォォォッ!!」
魔獣の巨大な口から、極度に圧縮されたコールタールのような黒い瘴気の極太の光線が放たれた。
空間そのものを削り取りながら迫り来る死の奔流。
レオンハルトは渾身の力を込め、残された黄金の闘気をまとった剣を真上から力任せに振り下ろした。
「おおおおおおおッ!」
剣と極太の瘴気ブレスが正面から激突する。
すさまじい衝撃波が円状に広がり、周囲の地面がすり鉢状にえぐり取られた。
レオンハルトの使い込まれた長剣が、悲鳴を上げてひび割れていく。
闘気でどうにか押し留めているものの、質量の差は歴然だった。
彼の両腕の筋肉が耐えきれずにブツブツと断裂し、裂けた皮膚から無数の血飛沫が舞う。
(ここまでか……っ!)
剣が限界を迎え、刃が半ばから無惨にへし折れた。
レオンハルトの巨体が、防御ごと紙くずのように吹き飛ばされる。
宙を舞い、泥の地面を何度もバウンドしながら全身の骨を砕き、彼は奇跡的にライラの足元へと転がり込んだ。
「ごはっ……!」
大量の血の塊を吐き出し、レオンハルトは仰向けのまま動けなくなった。
視界が赤く霞み、手足の感覚は失われている。
空を見上げると、魔獣が次なる確実な死のブレスの準備を始めているのが見えた。
今度こそ、本当に終わりだ。
「レオンハルト、様……っ」
不意に、命の灯火が消えそうな、かすれた小さな声が耳に届いた。
レオンハルトが激痛に耐えて首だけを動かして横を見ると、そこには、真っ白に染まった髪を乱し、泥と血まみれの手で何かを差し出しているライラの姿があった。
「これを……食べて、ください」
彼女の震える手にあるのは、見たこともないほど神々しい光を放つ黄金の果実。
その果実から発せられる圧倒的な生命力の波動に、レオンハルトは目を見開いた。
「ライラ、君は……その白い髪、その傷は……っ」
「いいから、早く……! あなたなら、きっと……」
ライラは力尽きたように、果実を持った手をレオンハルトの血に染まった胸元へと落とし、そのまま意識を手放して泥の中へ倒れ込んだ。
「ライラッ!!」
レオンハルトは絶叫し、動かないはずの右手を激痛とともに動かし、果実を掴み取った。
彼は迷うことなく、泥と血にまみれたその黄金の果実を口へと運んだ。
果肉を噛み砕き、喉の奥へと流し込んだ瞬間、脳天を雷で撃たれたような衝撃が走る。
エネルギーが胃の腑から全身の血管へと駆け巡り、細胞へと浸透していく。
砕けた骨が熱を帯びて繋がり、断裂した筋肉が瞬時に修復されていく。
体内にわずかに残っていた瘴気の呪いの残滓すらも、根こそぎ焼き尽くされていく。
「……あ、あああああっ!!」
レオンハルトの全身から、先ほどまでとは比較にならない、太陽そのもののように眩い黄金の闘気が立ち昇った。
それはもはや、人間の肉体の限界を超えた力。
魔獣が放った二発目の極太の瘴気ブレスが、迫り来る。
だが、レオンハルトは泥の中からゆっくりと立ち上がり、折れた剣の柄を握り直した。
彼の灰色の瞳には、かつてないほどの絶対的な力への自信と、ライラを傷つけた魔獣への果てしない怒りが宿っていた。
レオンハルトの右手に握られた、刃の半ばで無残に折れ曲がった長剣。
だが、その残された刀身を芯にして、凄まじい密度の闘気が伸び、輝く黄金の刃を形成していく。
究極の生命力が結実した、光の剣だった。
「俺は……もう、彼女だけは絶対に失わないッ!」
迫り来る死の瘴気ブレスに向かって、レオンハルトは真正面から地面を割って突撃した。
ブレスが彼を飲み込もうとした瞬間、光の剣を下段から一気に振り上げる。
「破ァァァァァァッ!!」
黄金の刃が、死の奔流を真っ二つに引き裂いた。
そのままの勢いで巨大な魔獣の懐へと飛び込み、光の剣を真上段から振り下ろす。
空間そのものが切り裂かれるような、鼓膜を破るほどの甲高い断裂音。
黄金の光が、山のような魔獣の体を頭から尻尾の先まで一刀両断にした。
次の瞬間、魔獣の体が内側から強烈な光を放ち、どす黒い瘴気が一気に浄化されながら灰となって崩れ落ちていく。
死の森を支配していた悪夢が、打ち砕かれた瞬間だった。
(……すごい。太陽みたいに、綺麗……)
朦朧とする意識の中で、泥の上に倒れたライラはその黄金の光を網膜に焼き付けていた。
彼が勝ったのだ。彼が生きていてくれる。
深い安心感とともに、ライラは意識の底へと沈んでいった。




