第12話「黄金の果実と、最後の呪い」
清らかな小鳥のさえずりが聞こえる。
それは、死の森に追放されて来てから一度も聞いたことのない、高く澄み切った生命の鳴き声だった。
ライラは泥に沈んでいた意識を浮上させ、ゆっくりと重い瞼を押し上げた。
真っ先に視界に飛び込んできたのは、高く澄み渡ったガラスのような青空と、葉の間からこぼれ落ちる柔らかな黄金色の木漏れ日だった。
常に空を覆っていたコールタールのように黒く淀んだ瘴気の雲は欠片すら残っておらず、深く息を吸い込むと、肺を満たす空気は驚くほどに清浄で甘かった。
「……ここは」
泥だらけの体を起こそうとしたが、全身の骨が鉛のように重く、指先すら満足に動かせなかった。
自分がふかふかの清潔な毛布の上に寝かされていることに気づく。
いつもの手作りの小さな小屋の中ではない。
戦いの余波で屋根が半分吹き飛んだ小屋の跡地、その真ん中に丁寧に作られた即席のベッドだった。
戦いの後片付けもそこそこに、自分はここでずっと寝かされていたらしい。
「目が覚めたか」
すぐそばから、耳の奥をくすぐるような深く、落ち着いた声が降ってきた。
レオンハルトだった。
彼は丸太の切り株に腰掛け、血の気が引くほど心配そうにライラの顔を覗き込んでいる。
その顔を見て、ライラは大きく息を呑んだ。
「レオンハルト、様……」
彼の顔色は、王宮で安全に暮らすどの貴族よりも健康的な、力強い血色を完全に取り戻していた。
骨と皮のように頬はこけ、目元にどす黒い濃い隈を作っていたかつての死の面影はどこにもない。
灰色の瞳は澄み切り、深い森の湖のように穏やかで力強い光をたたえている。
そして何より、彼の首筋や分厚い胸元を縛り付けるように蝕んでいたあの忌まわしい黒い呪いの痣が、ただの一つのシミすら残さず消え去っていたのだ。
彼が常に身にまとっていた、死を待つ者特有の陰鬱で冷たい気配は跡形もなく消え去り、そこにはただ、凄まじい生命力に満ち溢れた、圧倒的に逞しい一人の男が座っていた。
「良かった……。呪いの痛み、全部消えたんですね」
ライラが喉の渇きを堪えてかすれた声で微笑むと、レオンハルトは泣き出しそうな顔で深く頷いた。
「ああ。君が命を削って作ってくれたあの奇跡の果実が、魔獣を討ち果たす力をくれ、俺の腐りかけていた体を完全に浄化してくれた。……だが」
レオンハルトの大きく無骨な手が、ライラの頭へとそっと伸びる。
彼は、ライラの肩口に流れる髪を、壊れ物に触れるように指先ですくい上げた。
視線を落とせば、かつて亜麻色だった自分の髪が、毛先まで雪のように真っ白に染まり抜いているのが見えた。
限界を超えた過剰な魔力消費と、生命力そのものの枯渇がもたらした、取り返しのつかない代償。
肉体が急速に老化に傾いた、命を削った証拠だった。
「俺を救うために、君は自分の命を……」
「……似合いませんか?」
レオンハルトのひどく震える声に、ライラはわざとおどけたように首を傾げてみせた。
「私は聖女候補生の中で一番の落ちこぼれでしたし、顔も地味だから、少しは聖女っぽく神秘的になれたかなって、思ってるんですけど」
「馬鹿を言うな」
レオンハルトの顔が、自分の体が切り刻まれるよりも痛むように苦痛に歪む。
彼はすくい上げた真っ白な髪に、祈るように、すがるようにそっと熱い唇を落とした。
ひんやりとした彼のため息と、唇の確かな感触が、ライラの首筋に伝わる。
「俺は、君のあの太陽のように温かい色の髪が好きだった。君の笑う顔も、泥だらけになって土をいじる姿も。……君が死んでしまったら、俺が助かったところで何の意味もないんだ」
「死にませんよ」
ライラは泥で汚れた重い腕をゆっくりと伸ばし、彼の大きな両頬を柔らかく包み込んだ。
「魔力はすっかり空っぽになっちゃいましたけど、心臓はちゃんと温かく動いてます。ご飯を食べて、泥まみれにならないでたくさん寝れば、きっと元に戻ります。だから……そんな顔して、泣かないでください」
ライラの言葉に、レオンハルトは短く息を吐き、そのまま彼女の細い体を、折れないようにそっと強く引き寄せた。
壊れ物を扱うような、ひどく慎重で、けれど溺れる者がすがるような優しい抱擁。
彼の逞しく分厚い胸の腕の中に包まれると、不思議と体の重さも骨の痛みも、すべてが溶けて和らいでいくような気がした。
「……ありがとう。俺の命は、君のものだ」
レオンハルトの大きな体に支えられながら、ライラはゆっくりと立ち上がった。
二人の目の前には、夢でも見ているかのような信じられない光景が広がっていた。
死の森と呼ばれ、何百年もの間、濃密な瘴気に覆われていた大地。
黒く腐って死んでいた土は、今やふかふかの命を宿した赤茶色に変わり、炭化していた枯れ木はすべて根元から崩れ落ちて、新しい鮮やかな緑の若草が芽吹いている。
そして、二人が泥まみれになって耕してきた五メートル四方の小さな畑は、ライラが限界まで魔力を解放した際の影響か、見渡す限りの地平線まで続く広大な農地へと姿を変えていた。
黄金の果実が生み出した圧倒的な浄化の波動が、超大型魔獣だけでなく、この森全体を元の豊かな大地へと蘇らせたのだ。
「すごい……。これ全部、お野菜を育てる畑にできるんですね」
「ああ。だが、君はしばらく絶対安静だ。泥を掻き出す力仕事も水汲みも、すべて俺がやる」
「ええー。でも、繊細な種を蒔くのは私じゃないと」
「種蒔きくらいなら俺でもできる。君には、魔力が戻るまで指一本動かさせないぞ」
真顔で恐ろしいほど過保護なことを言う彼がおかしくて、ライラは鈴を転がすように声を立てて笑った。
空気が甘くて美味しい。
頬を撫でる風が心地よい。
世界が、こんなにも美しく輝いて見えるのはいつ以来だろうか。
「ライラ」
レオンハルトが、ふいに空気を変えるような真剣な声で名前を呼んだ。
彼はライラの前に立ち、主君に対する騎士の礼ではなく、一人の男として、彼女の瞳を真っ直ぐに見つめた。
「俺はもう、王国には決して戻らない。騎士団長という地位も、過去の血まみれの栄光も、俺にとっては君の髪一本ほどの価値もない」
彼はライラの右手を取り、その泥と魔力消費の代償で荒れた小さな指先に、ひざまずいて優しく熱いキスを落とした。
「俺はここで、君と共に生きる。君が耕し、命を育むこの土地を、俺の剣と命で永遠に守り抜く。だから……俺を、君の生涯の伴侶として、この畑に置いてくれないか」
ライラは驚きに目を瞬かせ、やがて視界が涙で滲んでいくのを感じた。
無能だと嘲笑われて国を追われ、泥の中でたった一人で死ぬはずだった自分が。
王国で最も気高く、誰よりも強い人に、愛されている。
その事実に、胸が張り裂けそうになる。
「……はいっ」
ライラは大粒の涙をポロポロとこぼしながら、満面の笑みで大きく頷いた。
「私の作った美味しいお野菜、毎日お腹いっぱいたくさん食べさせますから……覚悟してくださいね」
二人は広大に生まれ変わった大地の真ん中で、黄金色の光に包まれながら静かに身を寄せ合った。
新しい朝の温かい風が、二人の門出を祝福するように、柔らかく吹き抜けていった。
それから、数日の穏やかな月日が流れた。
王国の軍勢は、あの天を貫く黄金の光と超大型魔獣が一瞬で消滅するのを遠目から見ていたのか、すっかり恐れをなして国境の向こう側へと完全に撤退してしまったらしい。
森の瘴気が消え去ったことで、ここはもはや忌まわしい『死の森』ではなくなり、名実ともに誰の干渉も受けない、二人だけの豊かな領地となった。
「……うん、ふかふかでいい土」
朝の陽光の中、ライラはレオンハルトの目を盗んで、こっそりと畑の土をいじっていた。
絶対安静を厳しく言い渡されているものの、魔力はすっかり回復し、真っ白になった髪を除けば体調はすこぶる良い。
それに、新しく生まれ変わった広大な農地を前にして、土いじりを愛する彼女がじっとしていられるはずがない。
ライラがふかふかの赤茶色の土を指で掬い上げると、そこからはほんのりと温かい生命の鼓動がダイレクトに伝わってきた。
濃密な瘴気を相殺するために常に浄化をする必要がなくなった今、彼女の魔力は純粋な『作物の育成』だけに向かい、土壌そのものが理想的な生態系を作り上げようとしている。
ここにキャベツを植えれば、きっと王宮の晩餐会に出されるものより、何倍も甘く、瑞々しいものが育つはずだ。
想像するだけでワクワクして、ライラの顔に満面の笑みが浮かぶ。
「こら、ライラ。勝手に起き歩くなと言っただろう」
「ひゃっ!?」
背後から突然呆れたような声がして、ライラの体がふわりと宙に浮いた。
振り返る間もなく、レオンハルトの逞しい腕にひょいとお姫様抱っこで抱き上げられてしまったのだ。
彼はやれやれとため息をつきながら、泥だらけになったライラの手を、自分の綺麗なチュニックの布地で無造作に拭う。
「レ、レオンハルト様! 服が泥で汚れちゃいます!」
「気にしない。それより、君はまだ本調子じゃないんだ。少しは自分の体を大事にしろ」
「でも、土がすごくいい状態で……今すぐ、いっぱい種を蒔きたくて」
「種蒔きは明日からだ。今日はもう、新しく建てた小屋の中で大人しく俺の厳重な監視下に置く」
レオンハルトは有無を言わさぬ態度で、ライラを抱きかかえたまま、彼が新しく建て直した頑丈な小屋へと歩き出した。
その彫りの深い横顔は少しだけ不機嫌そうだが、灰色の瞳はどこまでも甘く、ライラへの呆れるほど過保護な愛情に満ちている。
昔の彼なら、こんな風に感情を素直に表に出して、大人気なく怒ることは絶対になかっただろう。
それがたまらなく嬉しくて、ライラは反抗するのをやめ、彼の分厚く温かい胸にすり寄るように顔を埋めた。
「ふふっ……はい。わかりました」
心地よい揺れと彼の体温に身を任せながら、ライラは静かに目を閉じた。
明日から、また泥にまみれる忙しい日々が始まる。
二人だけの、果てしなく広がる新しい畑で。
何度でも種を蒔き、たくさんの命を育てていくのだ。




