第8話「夜の帳と、触れ合う指先」
荒れ狂う瘴気嵐が過ぎ去った翌日。
白む空の下、朝から二人は無言で、無残に荒れ果てた畑の片付けに追われていた。
結界で守り切れなかった広大な外周部分は、コールタールのような黒い泥にべったりと覆われ、作物の残骸すら残っていない。
あれほど青々と生命力を誇っていたキャベツも、宝石のように実っていたトマトも、すべてが毒の泥に無惨に溶かされてしまっていた。
「……また、最初からですね」
ライラは泥まみれになりながら、重く沈んだ黒い土をクワで必死に掘り返した。
声のトーンを明るく保とうと努めていたが、どうしても語尾が泣きそうに沈んでしまう。
結界の外で見殺しにしてしまった命の大きさが、泥よりも重く彼女の心臓を圧迫していた。
自分の力が足りなかったせいで、あの美しい畑の大部分を泥に沈めてしまったという罪悪感。
「気に病むな」
隣で重い泥を黙々と掻き出していたレオンハルトが、短い言葉を投げかけた。
彼は昨日、ライラと畑を守るために、自らの肉体を壊すほどの闘気を限界まで絞り出している。
その強烈な反動は大きく、彼の顔色は死人のように蒼白で、時折内臓の痛みに耐えるように苦しげな息を吐き出していた。
それでも、彼は決して泥の上で休もうとはせず、ライラの倍以上の速度で荒れた土を力強くならしていく。
「中心の畑だけでも守れたんだ。王宮の偉ぶった神官どもが百人がかりで祈っても、葉っぱ一枚守れずに全滅していただろう。君は立派に、自分の力で命を守り抜いた」
「……騎士団長様」
「それに、土はまだ死んでいない。君の魔力と俺の闘気が激しく混ざり合った結界のおかげか、この黒い泥のすぐ下には、まだ命の熱を持った清浄な土が残っている。種さえあれば、すぐに元通りになるさ」
レオンハルトは分厚い手で泥の中から一握りの赤茶色の土をすくい上げ、ライラに見せた。
確かに、表面のヘドロのような泥を退ければ、そこには心臓のように温かい命の鼓動を感じる土が静かに眠っている。
ライラはほっと震える息をつき、涙をこらえるように深く頷いた。
そうだ、泥まみれになって絶望している暇はない。
この温かい土がある限り、私たちは何度でもやり直せるのだから。
二人は再び黙々と手を動かし、日が落ちて森が闇に沈むまで、ひたすらに畑を耕し続けた。
◆ ◆ ◆
すっかり日が落ち、夜の闇が森を包む頃。
二人は残された小さな畑の脇で、暖を取るためのささやかな焚き火を囲んでいた。
パチパチとはぜる炎のゆらめきが、泥だらけになった二人の疲労した顔を赤く照らし出している。
夕食は、辛うじて結界の中で生き残っていた数個の小さなジャガイモを、灰の中で焼いただけのものだった。
「……美味しい」
熱々のジャガイモを両手で包むようにして頬張りながら、ライラは小さく呟いた。
過酷な肉体労働で極限まで冷え切った体に、ジャガイモの熱と甘みが痛いほどに染み渡る。
レオンハルトも無言でジャガイモを口に運びながら、時折、無理をした右腕をかばうように微かに眉をひそめていた。
「騎士団長様、腕……痛みますか?」
「いや、大したことはない。ただの筋肉痛だ」
「嘘です。昨日、限界を超えて闘気を流し込んだせいで、筋肉の繊維が内側から千切れているんじゃ……」
ライラは心配そうに焚き火越しに身を乗り出した。
王宮の冷暗な書庫で学んだ治療の知識によれば、限界を超えた闘気の強引な放出は、自身の肉体を内側から破壊し、内臓にすらダメージを与える行為に等しい。
薬草のストックなど一つもないこの死の森で、痛みに耐える彼を癒やす手段は絶望的に限られていた。
「少し、見せてください。私の力で、傷の治癒ができるかどうかはわかりませんけど、痛みを和らげることくらいは……」
ライラはふらりと立ち上がり、レオンハルトのそばへ歩み寄ろうとした。
だが、泥を踏み出したその瞬間。
足に全く力が入らず、膝の関節が抜け落ちたように、ライラの視界がぐらりと大きく傾いた。
(あ……)
昨日の異常な結界維持による、深刻な魔力枯渇。
そして、今日一日の過酷すぎる泥掻き作業。
彼女の華奢な体は、すでにとうの昔に限界を超え、生命力すら底を突きかけていたのだ。
ライラは短い悲鳴すら出せないまま、焚き火のそばの固い地面へと真っ逆さまに倒れ込んでいく。
「ライラッ!」
レオンハルトの鋭い声が空気を切り裂く。
顔から泥の地面に激突する直前、ライラの体は力強い太い腕によってふわりと空中で受け止められた。
鼻先をかすめる、彼が流した汗と土の匂い。
そして、冷たい鎧越しではない、彼自身の温かい体温が、ライラの小さな体をすっぽりと包み込んでいた。
「……っ、ごめんなさい……私……」
ライラは熱に浮かされたように朦朧とする意識の中で、身をよじって彼から離れようとした。
だが、レオンハルトの太い腕は彼女の細い背中と膝裏をしっかりと抱え込み、決して泥の上へ放そうとはしなかった。
「動くな。魔力が底を突き、熱を出している」
彼の声は、耳元で腹の底に響くように低く鳴った。
レオンハルトはそのままライラを軽々と抱きかかえ、焚き火の熱が届く平らな土の上へと、壊れ物を扱うように静かに下ろす。
そして、彼自身もその場に泥まみれのまま片膝をつき、ライラの青ざめ、汗にまみれた顔を深く覗き込んだ。
「自分の限界もわからないのか、君は」
言葉は叱責するようだったが、その低い声には痛切な優しさが滲んでいた。
レオンハルトの大きくて無骨な手が、ライラの額に張り付いた泥だらけの髪をそっと払いのける。
剣を振り続けた指先の硬いタコが、ライラの冷え切った肌に微かな、けれど確かな熱を伝えていく。
「こんなに、細くて……軽い」
レオンハルトが、まるで独り言のようにぽつりとこぼした。
王国の騎士たちが戦場で振るう大剣よりも、ずっと軽い、小さな命。
こんなにも華奢で脆い体で、彼女は昨日、あの巨大な死の嵐から畑を守り抜き、そして今日もひたすらに泥を掻き出し続けていたのだ。
その強靭すぎる精神と、折れそうなほど脆い肉体のアンバランスさに、レオンハルトは胸の奥を鷲掴みにされたように強く締め付けられた。
「……騎士団長、様」
「レオンハルトでいい。二人きりの時は、そう呼べと言っているだろう」
彼が微かに不器用な苦笑を浮かべると、ライラもつられて小さく、力なく笑った。
「レオンハルト、様。……手、握っていてもいいですか?」
「ああ。いくらでも」
ライラが泥で汚れた震える指先を伸ばすと、レオンハルトは一切の躊躇なく、その小さな手を自分の分厚い両手で優しく包み込んだ。
彼のもつ体温が、冷え切ったライラの指先からゆっくりと流れ込んでくる。
焚き火が赤く爆ぜる音と、森の奥を吹き抜ける風の音だけが響く中、二人はただ静かに互いの脈打つ温もりを確かめ合っていた。
ライラは彼の体温に包まれながら、胸の奥底からの深い安堵とともに、泥の上で静かな眠りへと落ちていった。
数時間後。
パチッ、と大きく薪が跳ねる音で、ライラはゆっくりと目を覚ました。
周囲はすでに底冷えする深い夜の闇に包まれており、吐く息が白くなるほど冷え込みが一段と厳しくなっている。
だが、泥の上に横たわるライラの体は、不思議なほどに心地よく温かかった。
身じろぎすると、ずしりとした布の重みを感じる。
見下ろせば、彼女の体には、レオンハルトがいつも羽織っていた分厚い軍用のマントが、隙間なく丁寧に掛けられていた。
布地からは、微かに残る彼の体温と、土と金属の混ざった安心する匂いがする。
「……レオンハルト様」
身を起こし、周囲を見渡す。
彼は焚き火の向こう側で、片膝を立てて座っていた。
傍らには愛用の長剣が鞘から半分抜かれた状態で置かれ、森の奥から漂う魔獣や瘴気の気配を、血の滲むような集中力で鋭く警戒している。
自分の肉体が限界を超えて軋んでいることも忘れ、ずっとこうしてライラを守るために見張りに立っていてくれたのだ。
ライラは掛けられたマントを、胸元でぎゅっと強く握りしめた。
(私、もっと強くならなきゃ)
彼に背中を庇ってもらってばかりでは駄目だ。
瘴気嵐で畑の半分を失った時、彼が血を流して命を削って助けてくれた。
なら、今度は自分が彼を支える番だ。
失われた土を必ず取り戻し、もっと強力な浄化作物を育てて、いつかこの死の森そのものを変えてみせる。
ライラは彼のマントを肩に掛け直し、泥を払って立ち上がると、彼の広い背中へと近づいた。
「……起きたのか」
「はい。ありがとうございます、マント」
「森の夜は骨まで冷えるからな。もう少し寝ていろ」
レオンハルトが警戒を解かずに振り返らずに言うと、ライラは彼の隣にちょこんと腰を下ろした。
「もう眠れません。それに、私も一緒に見張りをします」
レオンハルトは呆れたように小さく息を吐き、そして、仕方がないなというように口元を少しだけ緩めた。
「そうか。なら、火の番を頼む」
「はいっ」
二人の間に、戦場のような死の森の中とは思えないほど、静かで温かい時間が流れていく。
深い夜の闇の下、再生を待つ泥まみれの土の上で、二人の心は全く同じ、確かな一つの未来を向いていた。




