第7話「荒れ狂う瘴気嵐」
神官長たちが森を荒らして去ってから数日後。
その日の死の森は、朝から鼓膜を圧迫するような異様な空気に包まれていた。
いつもは這うように足元を漂っているだけのどろどろとした黒い瘴気が、まるで殺意を持った生き物のように空高く舞い上がり、空を覆い尽くす分厚い雲を形成している。
空気が鉛のように重い。
息を吸うたびに、古い血のような鉄の匂いと、肉が焦げたような不吉な匂いが鼻の奥を突いた。
「……おかしいな」
ライラは泥だらけの畑の真ん中で立ち上がり、どんよりとした空を見上げた。
太陽の光は完全に遮られ、真昼だというのに底なし沼の底のように薄暗い。
足元では、力強く巨大な葉を広げていたキャベツやニンジンが、呼吸を止められたようにしおれている。
ライラの畑から発せられる温かな浄化の光が、上空から押し潰してくる濃密な瘴気に負け、徐々にその安全な領域を縮められているのだ。
「ライラ、少し離れていろ」
低く警戒の声を上げながら、レオンハルトが腰の長剣の柄に手を当てて歩み寄ってきた。
彼の灰色の瞳が、周囲の異常な気配を戦場のように鋭く探っている。
生暖かい風が強くなってきた。
周囲の立ち枯れた木々が不気味な悲鳴のような音を立ててしなり、足元の黒い土が空へと巻き上げられる。
「魔獣の群れですか?」
「いや、これは……『瘴気嵐』だ」
レオンハルトの彫りの深い顔が、魔獣の大群を前にした時よりも遥かに険しいものに変わった。
瘴気嵐。
それは、森に溜まった猛毒の瘴気が臨界点を超えた時、数年に一度だけ発生する理不尽な自然災害。
嵐に巻き込まれれば、どんな強靭な装甲を持った魔獣であっても一瞬で骨までドロドロに溶かされ、死の森の養分と化してしまう。
「最悪だ……。神官長どもが軍靴で森の結界を踏み荒らしたことで、外からの空気が流れ込み、森の瘴気の停滞バランスが崩れたんだ」
レオンハルトの言葉を裏付けるように、ゴォォォォ……という腹の底を揺らす地鳴りのような音が遠くから響いてきた。
空を切り裂くような巨大な黒い竜巻が、森の木々を薙ぎ倒しながら凄まじい勢いでこちらに向かって進んでくる。
巻き込まれた巨大な枯れ木が、あっという間に粉々に砕け散り、黒い塵となって空へと吹き飛んでいくのが見えた。
あれが直撃すれば、二人が血と汗を流して切り拓いたこの畑が、壊滅してしまう。
「どうしよう……っ、せっかくここまで命を込めて育てたのに」
「逃げるぞ、ライラ! ここはもう保たない。森の岩場に身を隠すんだ!」
レオンハルトがライラの細い腕を強く引いた。
だが、ライラは首を激しく横に振った。
「嫌です! ここを離れたら、この子たちは全部泥に溶けちゃう!」
「自分の命には代えられない! 畑なら、また時間をかければ作れるだろう!」
「作れません! これだけの命が育つには、私の力だけじゃなくて、ここで私たちが過ごした時間が……この場所の土が必要だったんです! 今ここを見捨てたら、二度とあんな美味しいトマトは育たない!」
嵐の強風が彼女の髪を乱暴に煽るが、彼女は手作りのクワを杖のようにして両手で強く握りしめ、泥の地面に深く踏ん張っている。
「私が、結界を張ります」
言うが早いか、ライラはその場に両膝をつき、両手を柔らかい土の奥深くへと突き立てた。
体内の魔力を心臓から限界まで引きずり出し、広大な畑全体を覆うように緑色の光のドームを展開する。
直後、空気が爆発したような凄まじい轟音とともに瘴気嵐の第一波が畑の結界に激突した。
「くっ……!」
ライラの口から、血を吐くような苦悶の呻きが漏れる。
ドーム状の光の結界が、コールタールのような黒い暴風に削られて激しく火花を散らした。
巨大なハンマーで全身の骨を何度も殴られているような絶望的な衝撃。
これまでの作物の栽培とは次元が違う魔力の激しい消費に、ライラの視界がぐらりと歪んだ。
結界の表面に、ピキッ、とガラスが割れるようなヒビが入る。
「ライラ! 馬鹿な真似はよせ!」
レオンハルトの怒鳴り声が聞こえるが、暴風の轟音にかき消されそうになる。
ライラは奥歯が欠けるほどに歯を食いしばり、さらに魔力を絞り出して注ぎ込んだ。
ヒビが強引に修復されるが、またすぐに別の場所が耐えきれずに悲鳴を上げる。
畑は広すぎた。
最初の五メートル四方だった頃ならいざ知らず、地平まで続く今の広大な農地を完全に覆い尽くすには、ライラ一人の力では到底質量が足りなかった。
「……縮小しろ」
「えっ……?」
「結界の範囲を、俺たちの周囲五メートルだけに絞れ。外側の作物は全部諦めるんだ」
レオンハルトが、吹き荒れる暴風の中でライラの隣に泥まみれで膝をつき、そう叫んだ。
ライラはハッと息を呑む。
それはつまり、二人で泥にまみれて苦労して育てたキャベツやニンジンを、意図的に見殺しにするということだ。
首を横に振ろうとしたライラの華奢な肩を、レオンハルトの大きな手が骨が軋むほど力強く掴んだ。
「全部を守ろうとすれば、君の命が砕ける。選ぶんだ。君自身の命か、それともこの畑の半分か」
「でも……っ」
「君が死ねば、残された作物はどうせ瘴気に飲まれる。俺の命もな」
その言葉に、ライラは目を大きく見開いた。
自分が魔力切れで死ねば、彼もまた、あの地獄のような瘴気の呪いに再び蝕まれて泥の中で死ぬ。
それだけは、絶対に嫌だった。
ライラは唇から血が出るほど噛み切り、涙をこらえながら結界の範囲を自分たちの周囲へとぐっと絞り込んだ。
畑の大部分が結界の外に押し出され、瞬く間にどす黒い暴風に飲み込まれていく。
青々とした美しい葉が一瞬で黒く枯れ果て、悲鳴を上げるように泥の中へとドロドロに溶けていく様を、ライラは絶望的な思いで見つめていた。
結界を五メートル四方に極限まで縮小したことで、光の防御は分厚くなった。
だが、瘴気嵐の勢いはさらに暴虐さを増していく。
巨大な黒い竜巻の中心が畑の真上を通過しようとした時、結界がメリメリと嫌な音を立てて内側へ大きくたわんだ。
内臓が潰れそうな凄まじい圧力。
ライラの鼻筋から、ツー、と一筋の赤い血が流れ落ちる。
魔力の限界をとうに超え、生命力そのものを削り取って結界を維持している証拠だった。
「ああっ……!」
泥に膝をつくライラの体が、限界を迎えてぐらりと傾く。
命の結界が弾け飛ぼうとしたその瞬間。
「……させるかッ!」
レオンハルトがライラの背後に回り込み、彼女の細い肩を分厚い胸で背中から抱え込むようにして、自分の大きな両手を彼女の手に強く重ね合わせた。
彼の巨体から、最前線を生き抜いた騎士特有の荒々しい闘気が立ち昇る。
本来、騎士の破壊の気と聖女の癒やしの魔力は全く性質が異なる。
混ざり合えば、互いの肉体を破壊しかねない劇薬だ。
「っ、騎士団長様、離れて! あなたの体が……!」
「黙って、前を見ろ!」
レオンハルトの獣のような怒鳴り声とともに、彼の膨大な闘気がライラの体内へと流れ込んでくる。
全身の血管が焼き切れるような凄まじい激痛。
ライラも痛いが、性質の違う力を無理やり流し込んでいるレオンハルトの苦痛はそれ以上のはずだ。
彼の鉄のガントレットの隙間から、皮膚が裂け、真っ赤な血がどくどくとにじみ出ているのが見えた。
だが、彼は決してライラの泥だらけの手を離さなかった。
強引に注ぎ込まれた闘気が、ライラの魔力と激しく衝突・融合し、強烈な緑と金色の入り混じった巨大な光の柱となって空へと立ち昇る。
「おおおおおおおッ!」
レオンハルトの腹の底からの咆哮。
二人の命が融合した強固な結界が、内側に押し潰されそうになっていた瘴気嵐の圧力を、圧倒的な力任せに跳ね返した。
バァァァンッ!!
空間が割れるようなすさまじい爆発音とともに、黒い嵐の中心が結界に弾かれ、軌道を逸らして森の奥へと吹き飛んでいく。
その直後、二人は操り糸が切れた人形のように、泥の中に崩れ落ちた。
ドーム状の結界が霧散し、耳鳴りがするほどの静寂が戻ってくる。
空を覆い尽くしていた分厚い瘴気の雲が、嵐とともに遠ざかり、雲の切れ間から一筋の温かい陽光が差し込んできた。
「はぁっ、はぁっ……」
ライラは泥だらけの地面に這いつくばりながら、血の味がする荒い息を繰り返した。
全身の筋肉が悲鳴を上げ、指先ひとつ動かせない。
隣では、レオンハルトが大の字になって泥に倒れ、同じように肩で激しく息をしている。
二人の周囲に残されたのは、この生活が始まった最初の頃と同じ、わずか五メートル四方の小さな畑だけだった。
外側の広大だった作物は跡形もなく溶け去り、元通りの黒い泥の海に変わっている。
だが、ライラの手が命を削って守り抜いた内側の土には、まだ青々としたトマトの苗が、力強く根を張っていた。
「……ここだけは、守れたぞ」
レオンハルトが、皮膚が裂けて血まみれになった手をゆっくりと持ち上げ、トマトの葉をそっと撫でた。
その掠れた声に、ライラの目から堪えきれない大粒の涙が溢れ出す。
「はい……っ」
広大な畑を失った絶望よりも、この場所を血を流してまで守り抜いてくれた彼への感謝が胸を塞ぐ。
泥と血にまみれた二人の手が、黒い土の上で静かに、けれどしっかりと重なり合う。
差し込んできた陽光が、泥だらけの二人の横顔を優しく照らしている。
嵐は過ぎ去った。
だが、神官長が残していった脅威の種は、まだ消えたわけではない。
半分になってしまった畑を前に、やらなければならないことは山積みだった。
それでも今はただ、互いの無事と、残された小さな命の温もりを静かに感じていたかった。
「……少しだけ、休もうか」
「はい。そうしましょう」
二人は重なり合った手をそのままに、目を閉じた。
荒れ狂う瘴気嵐を乗り越えたその小さな泥の畑には、世界で最も穏やかで、確かな平穏が存在していた。




