第6話「招かれざる客たち」
穏やかな二人だけの時間は、突如として無残に踏み躙られた。
ライラが泥にまみれながら大きく育ったキャベツを収穫していると、枯れ木の向こうから複数の足音が近づいてくるのが聞こえた。
獣の足音ではない。規則正しく、傲慢に泥を踏みしめる金属製のブーツの音。
「……誰か、来る」
ライラが不安に立ち上がると、十数名の武装した兵士を引き連れた一人の男が、浄化されて澄んだ空気の領域へと足を踏み入れてくるところだった。
豪奢な白い法衣を身にまとい、丸々と肥え太った初老の男。
その醜悪な顔を見た瞬間、ライラの全身から一気に血の気が引いた。
「神官長、様……」
それは、かつて王宮でライラを「神の恩恵を持たぬ無能」と嘲笑し、この死の森へと一方的に追放を命じた張本人だった。
神官長は香水を染み込ませた絹のハンカチで鼻を覆いながら、周囲の泥を忌々しげに見渡す。
彼のたるんだ首には、瘴気を防ぐための高価な魔石のペンダントがいくつもジャラジャラとぶら下がっていた。
「ほう。このような汚らしい最果ての地で、随分と青々とした野菜が育っているではないか」
神官長は、生命力に満ちたライラの畑を見て細い目をぎらつかせた。
王宮の神官たちが何十年束になっても浄化できない濃密な瘴気の森で、結界もなしに豊かな作物が育っている。
彼はライラの方へズカズカと歩み寄り、大切に育てた足元の真っ赤なトマトを、金属のブーツの先で無造作に小突いた。
「どうして……ここがわかったんですか」
「簡単なことだ。国境の警備兵が、この森の上空だけ瘴気の雲が薄くなっているのを報告してきてな。何事かと思ってわざわざ足を運んでみれば……なるほど。あの『出来損ないの泥遊び』が、瘴気を喰って作物を育てていたというわけか」
神官長は豚のように鼻を鳴らし、兵士たちに顎でしゃくった。
兵士たちが軍靴で一斉に畑へと踏み込み、無骨な手で次々と作物を根こそぎ引き抜き、泥だらけの袋に放り込み始める。
「やめて! それは……っ」
「黙れ、この無能が!」
神官長が甲高い声で鋭く一喝する。
「お前という存在自体が王国の所有物だ。よって、この作物はすべて神殿が没収し、高値で貴族たちに売り捌く。瘴気を払う奇跡の薬効があるのならば、王族にも献上せねばなるまい。お前は今日から、この死の森で泥をすすりながら一生作物を育て続けろ。少しでも逃げる素振りを見せれば、反逆罪として即座に処刑する」
それは、ライラを死ぬまで声を持たない奴隷として扱うという、冷酷な宣告だった。
兵士の一人が、抵抗するライラの細い腕を乱暴に掴み上げる。
「痛っ……離して!」
「大人しくしろ! 神官長様の命令だぞ!」
「誰の命令だと?」
その時、地の底から湧き上がるような低く冷ややかな声が、森の空気を凍らせた。
声の主が枯れ木の陰から姿を現した瞬間、空気が凍りつき、兵士たちの動きが石像のようにピタリと止まった。
大量の薪を抱えて森の奥から戻ってきたレオンハルト。
彼は無造作に片手で薪を泥の上に放り投げると、音もなく神官長たちの前へと歩み出た。
かつての豪奢な鎧は着ていない。泥に汚れた質素なチュニック姿だが、その巨躯から放たれる血の匂いのする圧倒的な威圧感は、完全武装の兵士たちの内臓をすくみ上がらせるのに十分すぎた。
「き、貴様は……レオンハルト・フォン・アイゼンブルク!? なぜ第一騎士団長がこんな所にいる!」
神官長が肥満体の肉を揺らして驚きに目を見開き、無様な声を出して一歩後ずさった。
レオンハルトは数週間前に瘴気の呪いが末期に達し、行方不明という名の『実質的な死亡』として処理されていたはずだった。
それが今、戦場にいた頃よりも血色が良く、呪いの痣すら跡形もなく消え失せた完璧な姿で目の前に立っている。
「その細い腕から、今すぐ手を離せ」
レオンハルトが感情のない声で命じると、ライラを掴んでいた兵士は熱鉄に触れたように弾かれたように手を離し、後ずさった。
レオンハルトはライラを背中で庇うように立ち塞がり、神官長を虫ケラを見るような鋭い眼光で見下ろす。
「ここはすでに王国の領地ではない。いかなる王法も及ばない『不可侵の死地』として周辺諸国との条約で定められているはずだが」
「い、生きていたのか……! いや、ちょうどいい。お前もその娘を捕らえ、作物を運ぶのを手伝え。これは神殿と王国への多大な貢献となる」
神官長は震える足を隠すように強がって声を張り上げた。
だが、レオンハルトは氷のように冷たく鼻で笑った。
「断る。俺はとうの昔に騎士団長など辞している。それに、この作物は俺の腐りかけた命を救い、この土地の死の瘴気を浄化しているものだ。王宮の安全な場所で肥え太る豚どもの私腹を満たすためにくれてやる義理はない」
「き、貴様……っ! 反逆罪だぞ! 神殿への冒涜だ! おい、構わん! こいつもろとも切り捨てろ!」
神官長がわめき散らし、十数名の兵士たちが一斉に剣を抜いた。
だが、彼らの剣を握る手はカタカタと無様に震えている。
相手は、かつて単機で数百の魔獣の群れを肉片に変えた王国最強の『死神』だ。
レオンハルトは腰の剣すら抜かず、ただ無造作に一歩前に出た。
「やれるものなら、やってみろ。だが――」
彼の灰色の瞳が、絶対零度の冷酷さで細められる。
「俺に剣を向けたということは、王国の『英雄』に対する明確な殺意と見なす。肉片一つ残さずこの泥に還る覚悟がある者だけが、かかってこい」
重苦しい静寂が森に落ちた。
レオンハルトの全身から放たれる、息もできないほどの凄まじい殺気に当てられ、兵士たちの何人かが膝から泥に崩れ落ちた。
彼らに、生ける伝説であるレオンハルトに刃を向ける勇気などあるはずもない。
数人がたまらず剣を取り落とし、逃げるように這いずって後退し始めた。
「ば、馬鹿者ども! 何をしている!」
神官長が顔を真っ赤にして怒鳴るが、死の恐怖に支配された兵士たちはもはや彼の命令など聞いていなかった。
「神官長。王国法第七条を思い出せ。不可侵領域での不当な武力行使と略奪は、周辺諸国との休戦協定違反となる。もし俺がこの事実を他国に持ち込めば、お前のたるんだ首など一瞬で飛ぶぞ。物理的にも、社会的にもな」
神官長の顔から、血の気が引いた。
「わ、忘れるなよ……っ。これで終わったと思うな! 王宮がこの奇跡の作物の価値を知れば、いずれ軍隊を差し向けることになっても必ず奪いに来るぞ!」
神官長は泡を飛ばして捨て台詞を吐くと、震える足で兵士たちを蹴立てるようにして逃げるように森を後にした。
枯れ木の間から彼らの無様な背中が完全に見えなくなり、足音も消え去ると、レオンハルトは張り詰めていた空気を解くようにふうっと短く息を吐いた。
「……騎士団長様。ごめんなさい」
ライラは泥だらけの手を握りしめ、うつむきながら呟いた。
せっかく彼が長年の呪いの激痛から解放されて、泥だらけだけど穏やかな生活が戻ってきたと思ったのに。
自分が作った作物が、また彼を血生臭い争いに巻き込んでしまった。
「君が謝る必要はどこにもない」
レオンハルトは静かに振り向くと、軍靴で無残に荒らされた畑の土の前にしゃがみ込んだ。
乱暴に引き抜かれ、泥に踏みつけられたトマトやキャベツを一つ一つ丁寧に拾い集め、元の土へと優しく戻していく。
「奴らの言う通りだ。これだけの莫大な価値がある作物を、利益に群がる王宮の連中が放っておくはずがない。いずれ、もっと強硬な手段――軍を動かしてくるだろう」
「そんな……。じゃあ、私たちはここを出て行かないと。あなたの命がまた……」
「いや。ここを離れれば、君の力が存分に発揮できる土壌がなくなる。それに……」
レオンハルトはゆっくりと立ち上がり、震えるライラの肩に大きく温かい手を置いた。
「俺は、君とここで生きていくと決めたんだ。王国の軍隊が何万押し寄せてこようと、決してここから退くつもりはない」
その声は驚くほど静かだったが、鍛え抜かれた鋼のような絶対の決意に満ちていた。
ライラは顔を上げ、彼の真っ直ぐな灰色の瞳を見つめ返す。
もう、一人きりで泥水すすって泣いていた無能な聖女ではない。
隣には、誰よりも力強く、誰よりも優しい彼がいる。
平穏な日々にヒビが入った代わりに、二人の絆は戦場で結ばれた戦友のように、より深く強固なものへと変わっていた。
ライラはレオンハルトの言葉に、小さく、だが腹の底から力強く頷き返した。
彼女の決意を帯びた視線が、再び畑へと向かう。
泥にまみれ、いくつか折れて無惨な姿になってしまった葉もあるが、それでも作物たちは大地に根を張り、力強く死の瘴気を吸い上げて、淡く温かい緑色の光を放ち続けている。
ここは、ただの野菜畑ではない。
無能と捨てられた自分が、初めて自分の意思で、自分の手で泥を掘り返して切り拓いた場所。
そして、彼と一緒に作り上げた、かけがえのない大切な居場所なのだ。
「……負けません。王宮が何と言おうと、この私たちの畑は、絶対に私たちが守り抜きます」
「ああ。俺の剣は、そのためにある」
二人は肩が触れ合うほどの距離で並んで立ち、夕暮れの赤に染まりゆく死の森の奥を見つめた。
遠くで、血に飢えた不気味な魔獣の遠吠えが木霊する。




