第5話「解呪のジャガイモと、隠された傷跡」
魔獣の襲撃から数日後。
ライラは畑の隅の泥の上に正座し、新たな作物の栽培に挑戦していた。
これまでは種を植え、無意識のうちに放出される柔らかな浄化の力に任せて成長させていた。
だが、あの夜、炎の前で吐露されたレオンハルトの過去の絶望が、彼女の中に一つの強烈な目的を生み出していた。
(彼を、あの地獄の呪いから解放したい)
現在のトマトやキャベツでも、瘴気の進行を抑え、表面の黒い痣をかさぶたのように薄くすることはできる。
だが、十年間も彼の体を蝕んできた呪いの根源――内臓や骨の髄にまでヘドロのようにこびりついた深い瘴気を引き剥がすには、浄化の質量が足りないように感じていた。
ライラは両手で丁寧に黒い土をこねた。
王宮の冷暗な書庫で盗み読みした薬草学の知識を思い出す。
劇薬とも呼べるほどの強い薬効を持たせるためには、命の光を広範囲に散らすのではなく、圧縮して一つの種に集中させる必要がある。
「……私の力を、もっと深く、鋭く」
ライラは土の中にジャガイモの種芋を深く埋め、固く目を閉じた。
普段は霧のように畑全体に広げている温かい緑色の光を、一本の糸へと束ね、一点のみに注ぎ込む。
額にじっとりと冷たい汗がにじみ、心臓が早鐘のように激しく打つ。
血液ごと体内の魔力が急速に吸い出されていく感覚に、視界がぐらりと揺れて強烈なめまいを覚えた。
だが、泥の奥深くからは、心臓の鼓動と共鳴するような熱く確かな脈動が伝わってくる。
「おい、大丈夫か」
背後から肩を強く掴まれ、ライラは弾かれたように目を開けた。
いつの間にか背後に立っていたレオンハルトが、ひどく険しい顔で彼女の青白い顔を覗き込んでいる。
「顔色が死人のようだ。これ以上は倒れるぞ」
「大丈夫です……! もう少しで、新しいのができそうなので」
「無理をするなと言っている」
レオンハルトは半ば強引にライラの細い腕を引き、泥から立ち上がらせた。
その瞬間、足元の土が内側からの圧力に耐えかねたように、ボコッと大きく隆起した。
ライラが慌てて両手で土を掘り返すと、そこには見慣れた茶色いジャガイモではなく、まるで白水晶のように半透明に発光する、歪な形の結晶体が転がっていた。
表面からは、網膜を焼くほどの強烈な緑色の浄化の光が絶え間なく漏れ出している。
「成功だ……。できました、騎士団長様!」
「これが、ジャガイモだと?」
レオンハルトは怪訝そうに眉を寄せた。
どう見ても人間の胃袋に入れる食べ物には見えない。神殿の最深部に祀られている魔法の鉱石か何かのようだ。
だが、ライラは満面の笑みでその表面の泥を袖で拭い、誇らしげに胸を張った。
「私の力を限界まで凝縮した、特製のジャガイモです。これで、あなたの骨の奥にこびりついている呪いも、きっと完全に消せるはずです」
◆ ◆ ◆
その日の夕食。
ライラは焚き火で特製ジャガイモを丁寧にふかし、二つに割ってレオンハルトの前に差し出した。
熱を加えたことで半透明だった果肉は雪のように真っ白に変化し、立ち昇る湯気とともに、甘い香りを放っている。
「食べてみてください。すごく熱いので、気をつけて」
レオンハルトは毒見でもするような無言でそれを受け取り、ゆっくりと口に運んだ。
咀嚼する。
その瞬間、彼の動きが彫像のようにピタリと止まった。
灰色の瞳孔が限界まで大きく見開き、持っていた器を泥の上に取り落とす。
乾いた鈍い音が夜の森に響いた。
「騎士団長様……?」
ライラが不安げに首を傾げた次の瞬間、レオンハルトは獣のようなうめき声を上げ、胸を激しく掻きむしりながら地面に倒れ込んだ。
「ぐっ、あああああっ……!」
「えっ!? 騎士団長様!」
ライラは血の気を引かせて駆け寄り、彼の巨体を泥から抱き起こそうとした。
だが、金属越しに伝わる彼の体温は異常なほどに跳ね上がり、全身から血が沸騰するような焼け焦げる熱を発している。
そして、すっかりかさぶたのように薄くなっていたはずの首筋の痣が、再びタールのようにどす黒く浮かび上がり、まるで独立した生き物のように皮膚の下を蠢き始めていた。
「痛い、のか……っ、なぜ……!」
「ごめんなさい、私、毒を……!?」
「違う……っ」
レオンハルトは苦悶に顔を歪めながら、血のにじむような声で喉の奥から絞り出した。
「中の瘴気が……暴れている。作物の力で、骨から根こそぎ剥がされそうになって、抵抗しているんだ……っ!」
彼は奥歯が砕けるほどに歯を食いしばり、自らの胸を強く押さえつけた。
厚手のチュニックの胸元が乱暴にはだけ、その下にある無惨な傷跡が露わになる。
魔獣の鋭い爪痕。
無数の刃物による切り傷。
そして、心臓の真上を中心に、血管を食い破るように張り巡らされた蜘蛛の巣状の真っ黒な呪いの痣。
十年間という長きにわたり、彼がどれほどの痛みを隠して最前線に立ち続けてきたのか。
「こんなの……一人でずっと耐えていたなんて」
ライラの泥だらけの手が小刻みに震える。
このままでは、強烈な浄化の力と、必死に寄生しようとする瘴気の衝突に彼の体が耐えきれず、内側から引き裂かれてしまう。
「離れろ、ライラ……っ。俺に、触るな……!」
レオンハルトが血走った目でライラを突き飛ばそうとする。
彼の体から濃密に漏れ出した瘴気が、周囲の空気を泥のように黒く染め上げていた。
触れれば、ライラもただでは済まない。
だが、ライラは一歩も引かなかった。
「絶対に、離れません!」
ライラはレオンハルトの悲痛な叫びを無視し、瘴気が吹き上がる彼の胸元へと身を投げ出した。
焼け焦げるような熱と、肌を無数に刺す瘴気の痛みが全身を容赦なく襲う。
息が詰まりそうになるのを必死に堪え、ライラは両手を彼の心臓の真上――もっとも瘴気がどす黒く渦巻いている痣の中心へと力強く押し当てた。
「やめろ……っ、君まで呪われるぞ!」
「私は聖女候補生です! 無能な出来損ないと呼ばれても、私の力は……命を救うためのものです!」
ライラは熱にうなされるような痛みに耐えながら目を固く閉じ、体内に残されたすべての魔力を両手に集中させた。
特製のジャガイモが、彼の肉体の内部から瘴気を押し出そうとしている。
なら、外側から力ずくで引きずり出して、私が全部浄化すればいい。
毒に塗れた土に触れ、新しい命を育てる時と全く同じだ。
汚染された毒を吸い上げ、きれいな命の力へと反転させる。
「……お願い、だから……っ」
ライラの指先から、網膜を焼くほどに眩い緑色の光が爆発的に溢れ出した。
光はレオンハルトの胸の痣へと深く浸透し、暴れ狂うどす黒い瘴気と激しく衝突する。
バチバチと火花のような音が弾け、肉が焼け焦げる生々しいにおいが辺りに立ち込める。
やがて、ライラの透き通るような白い手の甲に、黒い茨のような痣が浸食するように這い上がってきた。
猛烈な激痛。
皮膚の下に真っ赤に熱した鉄串を何本も通されているような感覚に、ライラの目からポロポロと涙がこぼれ落ちる。
「ライラ……っ!」
レオンハルトが悲痛な叫びを上げ、彼女の手を無理やり引き剥がそうとする。
だが、ライラは歯を食いしばり、泥に膝をついたままさらに強く光を放ち続けた。
(負けない。こんな理不尽な呪いなんかに、彼の命は絶対に渡さない)
彼がふとした時に見せてくれた、不器用で温かい笑顔。
二人きりの泥だらけの畑で石を拾い、湯気の立つスープを飲んで「美味い」と微笑んでくれた日々。
それが、彼が長年の血みどろの絶望の果てにようやく手に入れた小さな幸福なのだとしたら。
私が、命を削ってでも絶対に守り抜く。
パァンッ!
乾いた破裂音とともに、レオンハルトの胸をびっしりと覆っていたどす黒い痣が、叩き割られたガラスのように粉々に霧散した。
それと同時に、ライラの手を覆っていた黒い浸食も熱を失って嘘のように消え去る。
圧倒的な緑の光が森の闇を照らし出し、やがて静かに大気の中へと収束していった。
「……はあ、はあっ……」
ライラは肩で荒く息をしながら、レオンハルトの胸元を見た。
心臓を食い破るように広がっていた真っ黒な痣は、嘘のように跡形もなく消え去っている。
ただ、戦場を生き抜いてきた名誉ある古傷の痕だけが残されていた。
「騎士団長様……大丈夫、ですか?」
ライラが限界まで掠れた声で尋ねると、レオンハルトはゆっくりと重い体を起こした。
彼の灰色の瞳が、驚愕と、それ以上のひどく深く温かい感情をたたえてライラを静かに見つめている。
彼は震える太い腕を伸ばし、ライラの泥だらけの頬を伝う涙を、親指でそっと拭った。
ガントレットを外した素手の指先が、驚くほど温かい。
「君は……本当に、馬鹿な女だ」
「ば、馬鹿って……せっかく痛い思いをして助けたのに」
「俺ごとき死に損ないのために、命を懸ける奴があるか」
レオンハルトの声は低く震え、言葉尻がかすれていた。
彼はそのままライラの細い体を引き寄せ、自分の広い胸の中に強く抱きしめた。
冷たく硬い鎧の感触ではない、彼の力強い心臓の鼓動と人間の熱い体温が、直接ライラに伝わってくる。
「……ありがとう。君が、俺を十年間彷徨っていた暗闇から救い出してくれた」
耳元で囁かれたその声は、かつてないほど優しく、そして切実な響きを持っていた。
ライラは驚きに目を瞬かせ、やがてそっと、彼の広い背中に腕を回した。
二人の間にある絶対的な身分の差も、追放されたという理不尽な事実も、今はどうでもよかった。
ただ、互いの確かな温もりだけが、そこにあった。
足元に転がっていた特製ジャガイモは、その奇跡の役目を終えたかのように、ただの真っ白な灰となって土に還っていた。
呪いの根源を強引に引きずり出し、ライラの浄化の力を極限まで増幅させるための、たった一度きりの奇跡の作物。
ライラはレオンハルトの温かい腕の中で、その灰が風に舞うのをぼんやりと見送った。
もう、あの恐ろしい黒い痣が彼の体を這い回ることはない。
そう思うと、張り詰めていた肩の力が一気に抜け、強烈な睡魔が波のように襲ってきた。
「……少し、眠りますね」
「ああ。ゆっくり休め。俺がずっと隣についている」
彼の優しく静かな声を聞きながら、ライラは深く、温かい眠りへと落ちていった。




