第4話「忍び寄る影と、最初の収穫祭」
あれから、半月が経過した。
見渡す限りの枯れ野だった場所は、今やむせ返るような緑あふれる小さなオアシスへと変貌を遂げていた。
ほんの五メートル四方だった畑は、レオンハルトの常軌を逸した体力と手作りの無骨な農具によってすさまじい速度で開墾が進み、今では地平の彼方まで続く広大な農地となっている。
等間隔に作られた美しい畝には、トマト、ジャガイモ、キャベツ、そしてニンジンが青々とした葉を風に揺らしている。
森の最奥から絶え間なく流れ込んでくるどろどろの瘴気は、畑の境界線に触れた途端、見えない巨大な壁にぶつかったように霧散し、全てが作物の養分へと強制的に変換されていた。
そのおかげで、畑の周囲だけは高山の頂のように空気が澄み渡り、肺を焼くようなあの絶望的な痛みも全くない。
「すごい……。こんなにたくさん」
ライラは泥にしゃがみ込み、ふかふかの土から顔を出している巨大なキャベツを優しく撫でた。
その葉は幾重にも力強く重なり合い、内側から溢れんばかりの生命の熱を放っている。
死の瘴気を貪り食って育つ彼女の作物は、種を蒔いてからわずか数日で巨大に育つ。
二人で食べるには到底消費しきれないほどの食料が確保できていた。
「そろそろ、保存食を作る準備をした方がいいかもしれないな」
背後から、大量の薪を軽々と抱えたレオンハルトが歩いてきた。
彼はすっかり泥だらけの生活に馴染んでいる。
王国の盾としての冷酷な威圧感は鳴りを潜め、今では最も頼りになる不器用な相棒だ。
首筋にあった呪いの痣は、日々の強烈な生命力を持った食事のおかげで完全に色を失い、古い傷跡のような輪郭を残すのみとなっていた。
時折、臓器の奥底で痛みがぶり返すようだが、以前のように命の火が消えかけるほどの苦痛ではない。
「保存食って、干したり塩漬けにしたりするやつですか?」
「ああ。前線の兵糧とは比べ物にならないほど、血肉に変わる美味いものができるだろう」
レオンハルトは鈍い音を立てて薪を降ろし、ライラの隣にどっかりと腰を下ろした。
彼の細めた視線の先には、たわわに実り、朝露に濡れて輝く赤いトマトがずらりと並んでいる。
二人は共有する沈黙の心地よさに身を委ね、その景色を静かに眺めた。
世界中から見捨てられた死の森の奥底で、こんなにも豊かで美しい命が芽吹いている。
それは、彼ら二人だけが知る絶対の聖域だった。
だが、強烈な命の光は、時に招かれざる闇を引き寄せる。
カサッ……。
畑の境界線の向こう側、色濃い瘴気が渦巻く枯れ木の間で、かすかな音がした。
ライラが顔を上げるより早く、レオンハルトの灰色の瞳から一切の感情が抜け落ち、温度が急激に下がる。
彼は腰に提げていた刃こぼれだらけの長剣の柄に、音もなく手を伸ばした。
グルルル……。
地の底から響くような低い唸り声とともに、瘴気の奥から這い出してきたのは、三頭の獣だった。
狼のような輪郭をしているが、体毛はなく、皮膚は沸騰したコールタールのようにどろどろと溶け落ちている。
瞳孔のない白濁した目は狂気と飢えに染まり、裂けた口からは腐った肉の臭いを放つ涎がどくどくと滴り落ちていた。
高濃度の瘴気に完全に脳を破壊され、理性を失った魔獣だ。
「俺の後ろから離れるな」
レオンハルトが空気を凍らせるような低い声で命じ、ゆっくりと長剣を抜いた。
鋭い金属音が空気を切り裂く。
魔獣たちの狙いは、明らかにライラではなく、彼女の作った畑だった。
彼らは人間の血肉ではなく、作物から圧倒的な質量で放たれる『清浄な命の熱』に飢え、狂ったように引き寄せられてきたのだ。
それは、暗黒の深海を彷徨う者にとって、本能を焼き尽くすほどの強烈な光そのものだった。
「キシャアアアアッ!」
一頭が黒い泥を蹴り上げ、畑に向けて矢のように跳躍した。
速い。
だが、レオンハルトの動きは、その理性を失った獣の速度を遥かに凌駕していた。
彼は一歩も退かず、流れるような無駄のない動作で剣を真一文字に振り抜く。
銀の閃き。
空中で魔獣の胴体が紙切れのように両断され、ドロドロの黒い血を撒き散らしながら地面に墜落した。
悲鳴を上げる間すら与えない、冷酷なまでに完璧な一撃。
残る二頭が、左右に分かれて同時にレオンハルトの首元へ襲いかかる。
彼は氷のように冷静な視線で左の魔獣の鋭い爪を剣の腹で受け流し、その勢いを殺さずに刃を返し、右の魔獣の首を綺麗に跳ね飛ばした。
そして、体勢を崩した左の一頭の脳天に、鋼の柄頭を正確に叩き込む。
頭蓋がぐしゃりと砕ける重く鈍い音。
三頭の魔獣が動かなくなるまで、わずか数秒の出来事だった。
「……す、すごい」
ライラは震える息を呑んだ。
これが、王国最強の盾と謳われた第一騎士団長の真の力。
感情も無駄な動きも一切なく、ただ命を刈り取るためだけに極限まで洗練された剣技。
だが、レオンハルトは剣の血振りも鞘への納刀も行わず、足元でピクピクと痙攣する魔獣の死骸を泥の中にじっと見下ろしていた。
その彫りの深い横顔には、敵を打ち倒した勝利の誇りなど微塵もなく、ただ果てしない徒労感と哀しみが張り付いている。
「……哀れなものだ」
彼が喉の奥からぽつりとこぼした言葉に、ライラははっとした。
魔獣たちは、悪意を持って人間を襲ってきたのではない。
ただ、この死の森の終わらない瘴気の苦しみから逃れたくて、温かい命の光にすがりつこうとした哀れな犠牲者なのだ。
レオンハルトの剣の軌道には、一片の迷いもなかった。
だが、彼の心は、斬り捨てた命の重みと痛みを、その刃越しに確かに感じ取っていた。
ライラは無言で歩み寄り、血に濡れた彼の左手をそっと両手で包み込んだ。
冷たい鉄のガントレット越しに、彼女の脈打つ命の温もりが静かに伝わっていく。
「……ありがとう。守ってくれて」
レオンハルトは少し驚いたように目を見開き、やがて深く息を吐き出して長剣を鞘に納めた。
彼の血まみれの大きな手が、ライラの泥だらけの小さな手を不器用に、けれど絶対に離さないように握り返す。
枯れ木の間を吹き抜ける風が、鼻を突く黒い血のにおいを森の彼方へと運んでいった。
その日の夜は、二人だけのささやかな『収穫祭』となった。
畑で採れたばかりのトマト、ジャガイモ、キャベツ、ニンジンをふんだんに使い、ライラがありったけの腕を振るって具沢山のスープを作った。
味付けはわずかな塩と、森の入り口で見つけた野生のハーブだけ。
だが、浄化作物の暴力的なまでの旨味と甘みが溶け出したスープは、黄金色に輝き、焚き火の光を反射して宝石のようにきらきらと光っていた。
「さあ、たくさん食べてくださいね」
ライラが木の器にたっぷりとスープを注いで渡すと、レオンハルトは真剣な顔でそれを受け取った。
彼はまず一口、熱いスープをすする。
途端に、彼の強張っていた眉間がふっと解け、肩の力が抜けた。
野菜の甘みと温かさが染み渡り、冷え切っていた体を芯から溶かしていく。
彼は無言のまま、次々とスプーンを口に運び、あっという間に大きな器を空にしてしまった。
「おかわり、まだいっぱいありますよ」
「……頼む」
少し恥ずかしそうに空の器を差し出すレオンハルトを見て、ライラはくすくすと笑いながら底からたっぷりとよそった。
二人で肩を並べて炎を見つめながら、静かに食事を進める。
夜の死の森は暗く恐ろしいほど静かだが、隣で彼がスープをすする音を聞いているだけで、不思議と心から安心できた。
「美味いな」
三杯目のスープを飲み終えたレオンハルトが、揺れる炎を見つめながらぽつりと言った。
「俺が騎士になったばかりの頃……まだ瘴気との終わらない戦争が激化する前は、王都の薄汚れた食堂でもこんな温かいスープが出た。貧しい家の出だった俺にとって、それは何よりのごちそうだったんだ」
彼が自分の個人的な過去を語るのは、これが初めてだった。
ライラはスープをすする手を止め、息を潜めて彼の静かな声に耳を傾ける。
「だが、戦争が長引き、瘴気が国土の土壌を侵食し始めると、作物は全く育たなくなった。まともな食事は消え、兵士たちは味のしない石のような干し肉と、泥水のようなスープですすり泣きながら腹を満たすようになった」
彼の声はひどく淡々としていたが、その奥底にどれほどの絶望と悲しみが沈殿しているか、ライラには痛いほど伝わってきた。
「俺が味覚を失ったのは、ちょうどその頃だ。瘴気の呪いのせいでもあるが……昨日まで笑い合っていた部下が死んでいく重みを感じるたび、舌先から少しずつ『味』が消えていった。心を壊さないための、防衛本能だったのかもしれない」
レオンハルトは自嘲するように口元を歪め、そして、隣に座るライラへとゆっくり顔を向けた。
炎に照らされた彼の灰色の瞳が、深い愛情と感謝を込めてライラを見つめている。
「君が命を込めて作ってくれたあのトマトを食べた時、思い出したんだ。俺がそもそも、何を守るために剣を握ったのかを。誰もが笑って、美味い飯を食える当たり前の世界を取り戻すためだったと」
彼はライラの泥だらけの小さな頭に大きな手を置き、壊れ物を扱うように優しく撫でた。
「君の力は、世界を救う。俺は、君と君の畑を、命に代えても絶対に守り抜く」
その低く、魂の底からの誓いの言葉に、ライラの胸の奥が火傷しそうなほど熱くなる。
視界が急激ににじみ、ポロポロと大粒の涙がこぼれ落ちた。
悲しい涙ではない。
無能と捨てられた自分という存在が、誰かの魂の最も深い場所に届き、救いになったという事実が、たまらなく嬉しかったのだ。
ライラは泥で汚れた涙を拭うのも忘れ、満面の笑みで彼を見つめ返した。
「……はいっ」
死の森の真ん中で、二人の間に決して切れることのない確かな絆が結ばれた夜だった。
星のない暗黒の空の下、畑の作物たちが彼らを祝福するように、淡く温かい緑色の光を放っていた。




