第3話「二人だけの開拓生活」
「本当に、王宮へ帰らなくていいんですか?」
ライラが泥だらけの手を止めて不安げに尋ねると、レオンハルトは無言のまま小さくかぶりを振った。
彼は上半身裸のまま、真新しいクワを力強く振るっている。
ライラが王宮から持ち出した使い古されたクワとは違う。
レオンハルトが森の倒木と、自分の傷ついた鎧の一部を削り出して作った、実戦の武器のように頑丈な手製の農具だ。
「俺は軍の記録上、すでに死んだことになっている。今更王宮に戻ったところで、不要な混乱と瘴気の呪いを広めるだけだ」
淡々とした彼の声は、事実だけを述べていた。
トマトを食べて臓器の腐敗は止まったが、首筋に残るかさぶたのような黒い痣が完全に消え去ったわけではない。
十年以上蓄積された呪いは、まだ彼の体内に深く巣食っているのだ。
「それに……」
レオンハルトは太い腕で額の汗を拭い、ライラの方へ振り返った。
その顔には、かつて「氷の死神」と呼ばれた冷酷さは欠片もなく、彼自身も気づいていないほど穏やかな光が宿っていた。
「ここでの生活は、悪くない」
「……そうですか」
ライラはほっと胸をなでおろし、膝に抱えていた麻袋の口を開けた。
今日まくのは、同じく王宮の厨房から持ち出したシワだらけのジャガイモの種芋だ。
レオンハルトが強靭な腕力で深くまで耕してくれたおかげで、畑の面積はたった半日で昨日の三倍に広がっている。
「じゃあ、お願いします」
ライラは等間隔に掘られた穴に種芋を置き、さらにボストンバッグの底に転がっていたキャベツやニンジンの種も取り出すと、赤子を包むようにふわりと土を被せた。
両手を土にかざし、目を閉じて小さく祈る。
指先からこぼれ落ちた淡い緑色の光が、黒い瘴気を貪るように吸い上げ、反転させながら土の奥深くへと浸透していく。
足元から伝わる、地鳴りのようなかすかな鼓動。
土が内側から大きく盛り上がり、鮮やかな緑色の芽が一斉に顔を出した。
芽はあっという間に太い茎へと成長し、可憐な白い花を咲かせ、そして瞬きする間に枯れ落ちる。
地中の奥深くで、丸々としたジャガイモが熱を帯びながら結実していくのが、ライラには手足の感覚のようにわかった。
「……信じられんな」
レオンハルトが呆れたように深い息を吐き出した。
「猛毒の瘴気を養分にして作物を育てるなど。王宮の神官どもが束になって何十年祈祷を捧げても、この森の瘴気を浄化することすらできないというのに」
「でも、私が育てた野菜、栄養を吸いすぎたせいか形がちょっと不格好ですよ?」
「味は天下一品だ。文句などあるはずがない」
彼は大真面目な顔でそう言い切り、分厚い手で足元の土を掘り返し始めた。
ごろり、と大きなジャガイモが顔を出す。
一つ一つが人間の子供の頭ほどもある、特大のジャガイモだった。
黄金色の皮には、トマトの時と同じように微細な光の粒子が纏わりついている。
死の瘴気を喰らい尽くし、清浄な生命力へと変換された確かな証拠だ。
レオンハルトは泥を払い、そのずしりとした重みを確かめるように何度も深く頷いた。
◆ ◆ ◆
その日の昼下がり。
ライラとレオンハルトは、黒い泥を払って畑の脇に腰を下ろし、遅めの食事をとっていた。
焚き火の上の小さな鍋で、収穫したばかりのジャガイモがぐつぐつと音を立てて煮えている。
味付けは、ライラが持っていたわずかな岩塩だけ。
それなのに、立ち昇る白い湯気からは、胃袋を掴むような甘い香りが漂っていた。
「……美味い」
熱々のジャガイモを口に運んだレオンハルトが、喉の奥から唸るような低い声を出した。
ホクホクとした黄金色の果肉が口の中でとろけ、舌の奥の細胞が粟立つほどの濃厚な甘みが染み渡っていく。
大地そのものの生命力を凝縮したような、力強い味がした。
「本当ですか? よかった……」
ライラも自分の分のジャガイモを小さくかじり、熱さに口元を両手で仰いだ。
食べ物を口にする時だけは、まるで長年飢えていた子供のように純粋な顔になる。
ライラは耐えきれずにくすりと笑い声を漏らした。
「……何がおかしい」
「いえ、騎士団長様って、もっと近寄りがたい怖い人だと思ってましたから」
「俺は怖いぞ。最前線では魔獣すら道を譲る『氷の死神』と呼ばれていた」
「でも、今は泥だらけでジャガイモを食べて笑ってます」
「……俺は笑ってなどいない」
レオンハルトは不器用に顔を背け、誤魔化すように木の器のスープを音を立ててすすった。
だが、その耳の裏がかすかに赤く熱を持っているのを、ライラは見逃さなかった。
冷たかった風が、少しだけ温かく感じられる。
風が吹き抜け、立ち枯れた木々が不気味にざわめいた。
森の奥からは、依然としてどろどろとした黒いもやが絶え間なく流れ込んできている。
しかしライラの畑が発する柔らかな浄化の光が、その死の空気をかすかに、だが確実に押し返していた。
「……なぜ、君はそんなに明るいんだ」
不意に、レオンハルトがぽつりとこぼした。
視線は手元の木の器に落ちたまま、表情は窺えない。
「無能と罵られて王宮を追放され、こんな死の森に放り出されたというのに。絶望しないのか」
「絶望、しましたよ。最初は」
ライラは泥だらけの膝を抱え、ひび割れた遠くの灰色の空を見上げた。
「でも、泥に触れたら、土が心臓みたいにドクドクと応えてくれました。私はずっと、誰かの役に立ちたかったんです。偉大な聖女として国を救うことはできなかったけど、こうして小さな畑を作って、目の前にいる人に『美味しい』って言ってもらえる。それが、すごく嬉しいんです」
「……」
「だから、泥だらけのここが私の居場所なんだって、今はそう思ってます」
レオンハルトは何も言わず、ただ静かに、何か眩しいものでも見るかのようにライラの横顔を見つめていた。
その灰色の瞳の奥には、長年の殺戮で凍りついていた心が溶け出すような、静かで深い感情が渦巻いている。
剣を振るい、命を奪うことしか知らなかった彼の血塗られた人生に、生まれて初めて『温かい日常』という光が差し込んできた瞬間だった。
夜の帳が下りる頃。
底冷えする空気が森を包む中、二人は小さな焚き火を囲んで身を寄せ合っていた。
炎の明かりが、黒い木々の影を魔物のように不気味に揺らしている。
ピィ、ピィ。
ふと、ガラスを引っ掻くようなか細い鳴き声が耳に届いた。
ライラが顔を上げると、畑の隅の土の上に、小さな黒い影がうずくまっている。
カラスほどの大きさの、羽の生えた獣だった。
だが、その全身はコールタールのようにどろどろとした黒い瘴気に覆われ、苦しげに羽ばたこうとしては泥の上を転げ回っている。
森の濃密な瘴気に当てられ、まさに今、魔獣へと変異しかけている小鳥だった。
「下がれ」
レオンハルトが空気を裂くような鋭い声を発し、赤く燃える焚き火の薪を一本手に取った。
魔獣は、どんなに小さくとも人間の肉を食いちぎる存在だ。
だが、ライラは迷うことなく彼の前に両手を広げて立ち塞がった。
「待ってください。あの子は、まだ完全に魔獣になっていません」
「ライラ、危険だ!」
レオンハルトの悲痛な制止を振り切り、ライラは小鳥の元へと駆け寄った。
近づくだけで黒いもやがライラの手にまとわりつき、皮膚をちりちりと焼こうとする。
だが、ライラは痛みに顔をしかめながらも、熱を持った両手で優しく小鳥を包み込んだ。
「大丈夫……。もう、痛くないよ」
指先から、眩いほどの緑色の光が溢れ出す。
それは植物を育てる時と同じ、純粋な命の力。
光は小鳥を蝕む瘴気を貪るように引き剥がし、そしてライラの足元にある豊かな土へと一気に流し込んでいく。
ジュッ、と肉が焦げるような生々しい音がして、どろどろの黒いもやが完全に霧散した。
後に残されたのは、透き通るような美しい瑠璃色の羽を持つ、温かな小さな鳥だった。
チチッ。
瑠璃色の鳥はライラの手の中で感謝するように一度高く鳴くと、星ひとつない夜空へと勢いよく羽ばたいていった。
それを見送り、ライラはほっと安堵の息をつく。
「……驚いたな」
背後から、レオンハルトが心底からの感嘆の声を漏らした。
薪を下ろし、呆然とした顔で鳥が消えた夜空を見上げている。
「君の力は、作物を育てるだけじゃない。魔獣化する直前の命すら、元の姿に引き戻すことができるのか」
「理屈はわかりません。でも、土と繋がっている命なら、どれほど毒に侵されていても助けられるみたいです」
ライラが振り返って柔らかく微笑むと、レオンハルトは小さく息を吐き、そして、初めて声を出して笑った。
腹の底から響くような、重く、心地よい笑い声。
「王宮の腐った連中は、世界で一番の宝を、自ら泥の中に捨てたというわけだ」
「宝だなんて、そんな……」
からかわれたのかと思いライラが唇を尖らせると、レオンハルトは真面目な顔に戻り、一歩距離を詰めた。
炎に照らされた彼の真っ直ぐな灰色の瞳が、ライラの目を射抜く。
「俺が保証する。君は、誰よりも尊い力を持っている」
静かな森に、パチパチと焚き火の爆ぜる音だけが響く。
お互いの心臓の鼓動すら聞こえそうなほどの距離。
ライラは胸の奥をぎゅっと締め付けられるのを感じ、慌てて火照る頬を隠すように視線を逸らした。




