第2話「味覚喪失の騎士団長と、甘すぎるトマト」
朝の刺すような冷気が、剥き出しの肌を撫でる。
王国騎士団長であるレオンハルトは、ゆっくりと鉛のように重いまぶたを開けた。
ぼやけた視界に広がるのは、ひび割れた灰色の空と、黒く立ち枯れた木々の枝。
体を起こそうとして、彼は思わず微かに息を呑んだ。
いつもなら骨を軋ませ、全身を引き裂くような激痛が走るはずの関節が、油を差したように滑らかに動く。
呼吸をするたびに肺の奥を焼いていたあの絶望的な瘴気の痛みも、嘘のように消え去っていた。
「……生きている、のか」
自身の両手を顔の前にかざす。
血と泥にまみれたガントレットの隙間から見える肌。
首筋から顔の半分までを侵食していた黒い茨のような痣が、完全に色を失い、かさぶたのようなかすかな痕跡を残すのみとなっている。
信じられない光景だった。
一度発症すれば、命が尽きるまで全身の臓器を腐らせ続けるはずの瘴気の呪い。
それが、たった一晩でここまで後退している。
ゆっくりと体を起こし、周囲を見渡した。
そこは見渡す限りの枯れ野で、自分は冷たい泥の上で孤独に死ぬはずだった。
だが彼のすぐ目の前には、五メートル四方ほどのふかふかとした赤茶色の土が盛り上がり、青々とした葉を茂らせた植物が力強く根を張っている。
その植物の傍らで、一人の少女が丸くなって眠っていた。
粗末な外套に身を包み、身を切るような寒さに耐えるように体を縮こまらせている。
足元には、使い古された一本の無骨なクワ。
(彼女が、俺を……?)
昨夜の記憶が断片的に蘇る。
限界まで瘴気を吸い込み、死を覚悟して森の最奥へと足を踏み入れた。
這いずるようにして進み、誰にも看取られず、一人でひっそりと息を引き取るつもりだった。
意識が途切れる直前、何か甘く、みずみずしいものを口に含ませてもらった記憶がある。
それは十年以上忘れていた、細胞が粟立つような鮮烈な「味」の記憶。
レオンハルトは立ち上がり、泥を踏む音を殺しながら少女へと近づいた。
透き通るような白い頬に、黒い泥が跳ねている。
王宮で見かけるような煌びやかなドレスを纏った貴族の令嬢とは違う。
だが、土にまみれて眠るその横顔には、どんな高位の聖女よりも神聖な空気が漂っていた。
ふと、少女の足元に転がっている赤い実が目に入った。
昨夜の混濁した意識の中にあるものと同じ、燃えるように真っ赤なトマト。
レオンハルトはゆっくりとしゃがみ込み、その実を一つ手に取った。
手首にずしりとした確かな重みがあり、張り詰めた表面は朝露に濡れて微かに光を反射している。
死の瘴気が渦巻く森の真ん中で、こんな瑞々しい命が育つはずがない。
だが、彼の手の中にあるその重みと冷たさは、紛れもない現実だった。
レオンハルトは、何かに操られるように無意識のうちにトマトを口元へ運んでいた。
躊躇わずにかぶりつく。
薄い皮が弾け、口の中に黄金色に輝く果汁が爆発するように溢れ出した。
甘い。
そして、かすかな酸味が舌の細胞一つ一つを叩き起こすように踊る。
果肉のしっかりとした歯ごたえと、焼け焦げていた喉の奥へと流れ込んでいく清冽な水分。
「……っ」
レオンハルトは大きく目を見開き、呼吸を止めた。
全身の血管を駆け巡る血が、歓喜の声を上げているような強烈な感覚。
味覚喪失。
瘴気の呪いが彼から奪った最初の感覚だった。
どんな高級な肉を食っても、どんな熟成されたワインを飲んでも、ただ血の混じった泥水を飲んでいるような無味乾燥な日々。
それが今、ただのトマト一つで、脳髄が痺れるほどの衝撃を叩き込まれている。
彼は残りのトマトを、飢えた獣のように一心不乱に胃の腑へと流し込んだ。
果肉を噛み砕き、果汁を飲み込むたびに、乾ききっていた心臓の奥底が温かな熱で満たされていく。
「あ、起きたんですね」
ふいに、澄んだ鈴の音を転がすような声が空気を震わせた。
レオンハルトが弾かれたように顔を上げると、少女が泥だらけの目を擦りながらゆっくりと体を起こしているところだった。
彼女はレオンハルトと目が合うと、緊張が解けたように柔らかく表情を和ませる。
「よかった。顔色がすごく良くなってます。まだ呪いの痣は少し残ってますけど、進行は完全に止まっているみたい」
「君が……これを育てたのか?」
レオンハルトは、手に残った小さなトマトのヘタを示しながら問うた。
長い間使っていなかった楽器のように、声が酷くかすれていた。
少女は小さく頷き、立ち上がって膝の泥をパンパンと払う。
「はい。私の力は、土に触れて植物を育てることしかできないんです。王宮では『無能な出来損ない』って呼ばれて、この森に追放されちゃいましたけど」
彼女はどこか自嘲気味に笑った。
「でも、どうやら私の力は、猛毒の瘴気を吸収して純粋な命の養分へと反転させるみたいなんです。このトマトも、死の森の瘴気を吸って育ちました。だから、瘴気の呪いを受けているあなたには、解毒剤みたいに効いたのかもしれません」
瘴気を吸収し、純粋な命へと反転させる。
神話の時代にすら語り継がれていないような奇跡を成し遂げる彼女が、王宮から「無能」として追放されたというのか。
レオンハルトは絶句し、ただ目の前の小柄な少女を見つめることしかできなかった。
「俺は……レオンハルト。王国第一騎士団の団長を務めている」
低く重い声で名乗ると、少女は「えっ」と素っ頓狂な声を漏らし、慌てて背筋を伸ばして姿勢を正した。
「そ、そんな偉い方がどうしてこんな死の森に……っ。私はライラと申します。元・聖女候補生です」
「畏まる必要はない。俺はすでに瀕死の身だった。これ以上部下たちに自分の腐っていく無惨な姿を見せたくなくて、ここでひっそりと死ぬつもりだったんだ」
レオンハルトは自嘲するように視線を落とし、無骨な手で自身の首元の古傷に触れた。
「だが、君が俺の命を繋ぎ止めた。あのトマトは、俺がこれまでの血塗られた人生で味わったどんな料理よりも美味かった」
ライラの目が丸くなる。
そして、みるみるうちに青白かった頬が赤く染まっていった。
「お、おいしいって……。ただの泥だらけのトマトですよ?」
「いや、奇跡の味だ。十年ぶりに、食事が美味いと腹の底から感じた。この地獄のような世界で生きていてよかったと、そう思えた」
静かな、だが確かな熱を帯びたレオンハルトの真っ直ぐな言葉に、ライラは照れくさそうに視線を彷徨わせた。
無能と蔑まれ、石を投げられるように追放され、すべてを失った最果ての地。
そこで初めて、出来損ないと呼ばれた自分の力が誰かの命を救い、心からの感謝を向けられた。
ライラの胸の奥で、じんわりと小さく温かいものが広がっていく。
「……なら、もっと作りますね」
ライラは使い古されたクワを両手で握り締め、ふかふかの赤茶色の土へと向き直った。
「トマトだけじゃなくて、ジャガイモも、キャベツも。この森には瘴気がいっぱいあるから、いくらでも豊かに育てられます。たくさん食べて、元気になってください」
細い肩と泥だらけの背中は、粗末な服を着ているにもかかわらず、どんな屈強な騎士よりも頼もしく見えた。
レオンハルトは立ち上がり、彼女の隣へと静かに並ぶ。
王国の盾としての威厳も、孤独な死を待つだけの絶望も、今はもう彼の肩には乗っていない。
そこにあるのは、澄み切った朝の空気と、隣でクワを握る少女に対する底知れない興味だけだった。
「俺にも手伝わせてくれ。命の恩人を一人で泥だらけにさせるわけにはいかないからな」
「えっ、でも王国騎士団長様が土いじりなんて……」
「今の俺は、ただの腹を空かせた男だ。それに、早く次の『美味いもの』が食いたい」
不器用なレオンハルトがかすかに口元を緩めて微笑むと、ライラは毒気を抜かれたようにくすくすと笑い出した。
死と絶望しか存在しなかった森に、初めて穏やかな空気が流れ込む。
こうして、追放された無能な聖女と、死に損ないの騎士団長による二人きりの開拓生活が幕を開けた。
レオンハルトは、無数にひしゃげた漆黒の鎧をゆっくりと脱ぎ捨てた。
金属がすれる重い音が響き、下に着ていた厚手のチュニックがあらわになる。
血と泥で汚れ、獣の爪痕でところどころが破れていたが、その下には過酷な戦場を生き抜いてきた鋼のような筋肉が隠されていた。
彼は十年以上背負い続けてきた見えない重圧から解放されたように、大きく息を吐き出す。
「まずは、この畑の周りにある石を退かせばいいか?」
「あっ、はい。でも絶対に無理はしないでくださいね。まだ病み上がりなんですから」
「これくらい、なんともない。体が驚くほど軽いんだ」
レオンハルトは太い腕の袖をまくり上げ、泥に半分埋まっていた巨大な岩を片手で軽々と持ち上げた。
ライラはその常軌を逸した腕力を見て、ほうっと目を丸くして息をつく。
王国の最高戦力である屈強な騎士団長が、真顔で畑の石拾いをしている。
もし王宮の人間がこの姿を見たら、全員が揃って卒倒しそうな光景だった。
だが、巨大な岩を運ぶ彼の手つきはひどく丁寧で、騎士の誇りを傷つけられたと嫌がる素振りは微塵もなかった。
(不思議な人だな……)
ライラは再び柄を握り直し、ふかふかになった赤茶色の土をクワで均していく。
肌を刺すように冷たかった風が、いつの間にか春の陽気のように和らぎ始めていた。
分厚い雲の切れ間から差し込んだ一筋の薄日が、二人の並んだ影を黒い大地へと長く落としている。
瘴気に包まれた最果ての死の森で、生まれて初めて感じる穏やかな時間。
ライラは目を閉じ、大きく深呼吸をして、土の匂いを胸いっぱいに吸い込んだ。
それは決して腐敗した死の匂いではない。
新しい命を力強く育む、優しくて温かいにおいがした。




