第1話「追放聖女、瘴気の森でクワを振る」
灰色の空から、みぞれが音もなく落ちてくる。
枯れ木ばかりが死骸のように並ぶ森の入り口で、ライラは重いボストンバッグを泥の上に下ろした。
振り返れば、馬車の車輪がぬかるみに深い轍を刻みながら遠ざかっていく。
「無能な聖女など、王宮には不要だ。瘴気の森で野垂れ死ぬがいい」
神官長の冷たい声が、耳の奥にこびりついて離れない。
足元には、ねっとりと黒く変色した土がどこまでも広がっている。
鼻を突くのは、腐敗した肉と錆びた鉄が混ざったような異臭。
息を吸い込むだけで、肺の奥がちりちりと焼けるような痛みを覚え、思わず咳き込んだ。
ここは世界の最果て。
濃密な瘴気が立ち込め、命あるものは数日と生きられない死の森だった。
ライラは荷物の脇にくくりつけていた、一本の使い古されたクワを手に取った。
柄は長年の使用で黒ずみ、刃の先は丸く欠けている。
華やかな王宮を追放される際、彼女が唯一持ち出すことを許されたみすぼらしい農具だった。
彼女の能力は「聖なる祈り」でも「治癒の光」でもない。
ただ、土に触れ、種を育てること。
それも、通常の清らかな土では全く芽が出ないという、嘲笑の的となった出来損ないの能力だった。
冷たい風が吹き抜け、粗末な外套の裾をばたつかせる。
ライラは泥に膝をつき、躊躇うことなく素手で黒い土に触れた。
指先から這い上がってきたのは、骨の髄まで凍りつくような冷気。
しかし、その毒に塗れた大地の奥底に、彼女は確かに微かな鼓動のようなものを感じ取った。
『……おいで』
喉の奥で小さくつぶやき、泥だらけの土を両手で包み込む。
ライラの中に眠っていた力が、指先を通って黒い土へと流れ込んでいく。
途端に、土の表面を覆っていた黒いもやが、渦を巻きながらライラの手元へと集まり始めた。
瘴気。
触れれば皮膚を爛れさせるはずの猛毒が、彼女の力を受けて形を変えていく。
毒の煙が淡い緑色の光を帯び、土の中にぐんぐんと吸い込まれていった。
黒く腐っていた土が、ふかふかとした赤茶色の土壌へと変質する。
ライラは目を丸くした。
王宮の豊かな土では何も育たなかった彼女の力。
それが今、この死の森の猛毒を喰らい、命を育む土を生み出している。
ライラは無言で立ち上がり、クワの柄を強く握り直した。
肩幅に足を開き、息を大きく吸い込む。
肺を焼くような痛みは、もうない。
振り上げたクワの刃が、赤茶色の土に深く食い込む。
鈍い音が森に響いた。
手首に伝わる確かな手応え。
硬く冷たかった大地が、彼女の力とクワの刃によって次々とほぐされていく。
一振り、二振り。
息が白く濁り、額に汗がにじむ。
凍えるような寒さの中、ライラの体だけが確かな熱を持っていた。
土を返し、畝を作る。
黒い瘴気がうねりを上げてライラに襲いかかってくるが、彼女の周囲に満ちる緑色の光に触れた瞬間、すべてが純粋な命の養分へと変換されていった。
◆ ◆ ◆
数時間後。
見渡す限りの枯れ野の中に、小さな畑ができあがっていた。
五メートル四方ほどの、ささやかな空間。
ライラは荒くなった呼吸を整えながら、ボストンバッグの底から小さな布袋を取り出した。
中に入っているのは、王宮の厨房からこっそり持ち出したシワだらけのトマトの種。
泥に汚れた指先で丁寧につまみ、等間隔に空けた穴へと落としていく。
そして、赤ちゃんの布団を整えるようにふんわりと土を被せた。
「……育って」
祈るように両手を土にかざす。
ライラの掌から温かな緑色の光がこぼれ落ち、種を埋めた土へと深く染み込んでいく。
ぽこり。
土の表面が、かすかに持ち上がった。
ライラは思わず息を呑む。
ぽこり、ぽこり。
次々と土が内側から押し上げられ、中から鮮やかな双葉が顔を出す。
双葉はみるみるうちに太い茎を伸ばし、青々とした葉を力強く広げていく。
空気中の瘴気を渦のように吸い込みながら、黄色い小さな花を一斉に咲かせた。
花は瞬きする間に散り、その跡には緑色の小さな実が結ばれる。
実は心臓の鼓動に合わせるように膨らみ、緑から薄紅、そして燃えるような真っ赤へと色を変えた。
ずしりと重い大玉のトマトだった。
表面は張り詰めるように艶やかで、微かに金の粒子をまとって発光している。
ライラは震える手で、その一つをもぎ取った。
手首にずしりとした重みがのしかかる。
完熟した皮の向こう側に、はち切れんばかりの果汁が詰まっているのが手のひら越しに伝わってきた。
死の森に、たった一つだけ生まれた命の結晶。
ライラの目から、ほろりと涙がこぼれ落ちた。
無能と蔑まれ続けた自分の力が、初めて確かな命の形になった瞬間だった。
「……すごい」
トマトを大事に胸に抱きしめ、ライラはへなへなと泥の上に座り込んだ。
張り詰めていた緊張の糸が切れた途端、手足が鉛のように重くなり、強烈な疲労が押し寄せる。
見上げれば空はすでに暗くなり始め、夜の闇が森を黒く塗りつぶそうとしていた。
吐く息が白さを増し、冷え込みが一段と厳しさを増す。
ガサッ。
突然、背後の茂みから重い音が響いた。
ライラはびくりと肩を震わせ、振り返る。
枯れ木の間から、ぬっと巨大な影が這い出してきた。
獣ではない。
漆黒の鎧を纏った、人間の男だった。
鎧のあちこちがひしゃげ、深い傷跡からは赤黒い血がどくどくと滴り落ちている。
男は数歩よろめくように歩き、そのまま糸が切れたようにライラの目の前で崩れ落ちた。
巨体が泥に沈み込み、鈍い金属音が響く。
「え……?」
ライラはトマトを泥の上に置き、慌てて男に駆け寄った。
兜のバイザーは跳ね上がり、中の顔が露わになっている。
死人のように青ざめた肌。
彫りの深い顔立ちだが、その頬や首筋には、黒い茨のような痣が不気味に這い回っていた。
痣は脈打つように蠢き、男の体温を奪い続けている。
「しっかりして! 誰か、誰か……っ!」
叫んだ直後、ライラはここが誰もいない最果ての死の森であることを思い出した。
男の胸当てに震える手を当てる。
浅く、途切れがちな呼吸。
厚い金属越しでもわかるほどその体は氷のように冷たく、今にも命の火が消えようとしていた。
首元のマントの留め具には、見覚えのある紋章が刻まれている。
王国の象徴である、双頭の鷲。
それも、最高位の騎士のみが身につけることを許される黄金の装飾。
(王国の騎士団長……?)
なぜ、そんな高位の人物がこんな死の森に。
疑問を抱く間にも、男の首筋を這う黒い痣がさらに色濃く、生々しく広がっていく。
瘴気の呪いだ。
最前線で魔獣の毒を浴び続けた者が発症する、全身の臓器を腐らせる不治の呪い。
男は微かにひび割れた唇を震わせた。
「……水……」
喉の奥から絞り出されたようなかすれ声が漏れる。
水筒など持っていない。周囲に澄んだ水場もない。
ライラの視線が、泥の上に転がっている真っ赤なトマトに向かった。
死の瘴気を喰らい、圧倒的な命の力へと反転させて育った果実。
ライラは迷わずトマトを両手で拾い上げ、男の口元へと運んだ。
トマトの薄皮が破れ、黄金色に輝く果汁が男の乾ききった口内へと流れ込む。
途端に、男の体がびくりと大きく跳ねた。
固く閉じられていたまぶたが、見開かれる。
濁っていた灰色の瞳が、驚愕に大きく見開かれていた。
男の喉が大きく上下に動き、果肉と果汁を貪るように飲み下していく。
「あ……」
ライラの手からトマトを奪い取るようにして、男は泥にまみれた手で一心不乱にかじりついた。
その目から、堰を切ったように大粒の涙がこぼれ落ちる。
男の首筋を這っていた黒い茨の痣が、まるで日の光を浴びた霜のように溶け、肌の奥へと退いていく。
「美味い……」
男は声にならない声でつぶやいた。
それは、十年以上もの間瘴気に味覚を破壊され、血の味しか知らなかった彼にとって、細胞の隅々まで染み渡るような味だった。
「本当に……甘い」
男は最後のひとくちを飲み込むと、深く息を吐き出して目を閉じた。
氷のように冷たかった彼の体に、確かな鼓動と柔らかな熱が戻り始めている。
瘴気の森の深い夜闇の中、ライラの足元にある小さな畑だけが淡い緑色の光を放ち、二人の輪郭を照らし出していた。
彼の穏やかで規則正しい寝息が、夜の静寂に溶けていく。




