番外編「氷の騎士が溶けるまで」
生臭い泥と、鉄錆のような血の味がする。
それが、俺の壊れた舌に残っている最後の『味』の記憶だった。
王国の第一騎士団長として、瘴気の最前線で魔獣と戦い続けて十年。
慕ってくれた部下たちが次々と呪いに肉体を蝕まれ、絶望の悲鳴を上げながら死んでいくのを見送るたびに、俺の心は氷のように冷たく、少しずつ擦り減っていった。
やがて、日々の食事から一切の味が消え失せた。
王宮が用意する最高級の肉も、甘い果物も、すべてがパサパサとした冷たい泥の灰を噛んでいるようにしか感じられなくなったのだ。
宮廷医師は「重度の心労と瘴気による神経の麻痺だ」とカルテに書いたが、俺自身はそれが、部下たちを死地に送り込み続けた自分への当然の『罰』なのだと理解していた。
そして、ついに俺の肉体も限界を迎えた。
首筋に黒々と浮かび上がった呪いの痣は、もはやどんな薬や高位神官の浄化魔法でも抑えきれないところまで進行し、心臓を鷲掴みにするような激痛を四六時中発していた。
王都の真ん中で狂乱して誰かを傷つけて死ぬくらいなら、せめて最後は誰にも知られず、静かな場所で命を散らしたい。
そう思って、誰にも告げずに王宮を抜け出し、この『死の森』へと足を踏み入れた。
ここはいい。
生命の気配は一切なく、ただ濃密なコールタールのような瘴気と、冷たい静寂だけがある。
俺は朽ち果てた大木の下に座り込み、目を閉じて、この忌まわしい血まみれの命が燃え尽きるのをただ静かに待っていた。
だが。
そんな俺の静かな最期は、泥だらけのひどく不器用な侵入者によって、呆気なく邪魔されることになった。
「よいしょ、よいしょ……っ」
死の森の入り口付近。
小柄な女が、自分の背丈ほどもある重い鉄のクワを必死に振り下ろし、カチンカチンに固まった岩のような黒い土を掘り返そうとしていた。
見覚えがある。
王宮の冷たい廊下の片隅で、いつも怯えたようにしていた聖女候補生だ。
なぜこんな死地に、しかもあんな場違いな農具を持って現れたのか。
幻覚かとも思ったが、彼女の青白い顔から落ちる汗や、マメが潰れて手のひらから滲む血は、あまりにも生々しかった。
放っておけば、数時間で瘴気に当てられて血を吐いて死ぬだろう。
俺は苛立ち混じりに小さく舌打ちをして立ち上がり、彼女の元へと歩み寄った。
「何をやってるんだ、お前は」
俺が声をかけると、彼女――ライラは、本物の幽霊でも見たように目を丸くして泥の上に尻餅をついた。
事情を聞けば、無能だと王宮から追放され、ここで畑を作って生き延びるつもりだという。
正気の沙汰ではない。
この森の土は腐って死んでいる。いくら聖女候補生とはいえ、ここで命ある作物など育つはずがない。
どうせすぐに諦めて、泥の中で泣き言を言って助けを求めるだろう。
そう思っていた。
だが、彼女は決して諦めなかった。
クワを握る手が豆だらけになって破れても、顔が泥だらけになって見すぼらしくなっても、ただひたすらに重い土を掘り返し続けた。
彼女の小さな手からこぼれる微弱な緑色の光が、死んだ黒い土を少しずつ温かい赤茶色に変えていくのを、俺は信じられない思いで見つめていた。
それは、どんな高位の神官にも成し得ない、不器用だが純粋で真っ直ぐな『命の循環』そのものだった。
俺は気づけば、自ら重い斧を振るって枯れ木を切り倒し、彼女のために硬い土を耕して畑を開墾し始めていた。
死を待つだけの氷のような時間は終わりを告げ、代わりに、生命の土の匂いと、彼女の不器用な笑顔に満ちた、奇妙で穏やかな生活が始まったのだ。
そして数日後。
俺は彼女から、泥をかぶった大玉の赤いトマトを差し出された。
初めて収穫できた、命の作物だという。
正直に言えば、味がするとは欠片も思っていなかった。
俺の舌はとうの昔に壊れ切っているし、そもそもこの猛毒の瘴気の中で育ったものが、まともな味であるはずがない。
だが、嬉しそうに泥だらけの顔で目を輝かせる彼女の期待を無下にすることもできず、俺はそのトマトを受け取り、無造作に口へと放り込んだ。
その瞬間の衝撃を、俺は一生忘れることはないだろう。
咀嚼した途端、口の中に弾け飛んだのは、味覚の麻痺を強引に打ち破る、強烈なまでの『命の味』だった。
瑞々しい果肉から溢れ出す果汁。
舌が痺れるほどの、濃厚な甘みと爽やかな酸味。
それはただ美味しいという次元を超えて、干からびて死にかけていた俺の肉体と魂に、強引に命の熱を叩き込むような凄まじい衝撃だった。
「……あ」
気づけば、俺の目からボロボロと大粒の涙がこぼれ落ちていた。
味がわかる。
美味しいと、心から感じることができる。
その事実が、たまらなく嬉しくて、そしてひどく恐ろしかった。
俺はもう、生きることをとっくに諦めていたはずなのに。
この無数の命を奪ってきた血に塗れた手で、美味しいものを食べて笑う資格などないはずなのに。
「あの……お口に合いませんでしたか?」
ライラが不安そうに、俺の顔を覗き込むように見上げている。
その小さな、泥だらけの手。
王宮の誰からも無能と蔑まれ、ゴミのように捨てられた彼女が、たった一人でこの死の土を耕し、名も知らぬ俺のためにこの小さな奇跡を育ててくれたのだ。
氷のように凍りついて俺が失っていたすべてが、彼女のその泥まみれの手の中にあった。
「……美味い」
極度の緊張で震える声でそう告げると、彼女は太陽のように明るく、満面の笑みを浮かべた。
その屈託のない笑顔を見た瞬間、俺の中で張り詰めていた氷の壁が決壊し、そして新しく温かい血が全身を巡った。
もう、泥の中で死を待つのはやめだ。
王国の腐った未来も、騎士団長としての義務も、もはや俺には一切関係ない。
俺の残りの命はすべて、この泥だらけの小さな宝物を守り抜くためだけに使おう。
あの日の夕暮れ、トマトの甘い後味を口の中に噛み締めながら、俺は彼女の背中を前にそう誓ったのだ。
「レオンハルト! 美味しいご飯の準備、できましたよ!」
木の匂いがする新しい小屋の中から、愛しい声が明るく響く。
俺は手にしたクワを置き、振り返った。
そこには、真っ白になった髪を風に揺らしながら、満面の笑みでこちらに小さく手を振る彼女の姿がある。
「ああ、今行く」
俺は足元のふかふかな土を軽く踏みしめ、彼女の待つ温かい小屋へと歩き出した。
あの日の真っ赤な大玉のトマトから始まった、奇跡のような日々。
俺の舌には今、彼女が作ったどんな料理を食べても、飛び切り美味しく、温かい味がする。
この先、どれだけ長い時を共に生きようとも、あの日彼女が泥まみれでくれたトマトの味だけは、俺の魂の奥深くに永遠に刻み込まれていることだろう。
小屋の扉を開けると、湯気を立てる色とりどりの料理がテーブルいっぱいに並べられていた。
大きなトマトの果肉を贅沢に使った煮込み料理、ホクホクに焼き上げられたジャガイモ。
どれも、彼女が一生懸命に土をいじって育て、工夫を凝らして作ってくれたものだ。
俺は向かい合わせの椅子に腰を下ろし、嬉しそうに俺の皿に料理を取り分ける彼女の柔らかな横顔を、静かに見つめた。
真っ白な髪が揺れるたび、俺の胸の奥がチクリと痛む。
彼女が俺を救うために失った命の重さを、俺は一生忘れることはないだろう。
「ほら、冷めないうちにたくさん食べてくださいね」
「ああ、いただく」
スプーンで熱々の煮込みをすくい、口に運ぶ。
今日も変わらず、涙が出るほど美味い。
俺の体が、細胞の隅々から命の歓喜の声を上げているのがわかる。
王国の連中は、権力だの領地だのと言って血眼になっているが、馬鹿なものだ。
世界で一番美味い飯と、世界で一番尊い愛情がここにあるというのに。
こんな温かい生活に背を向けて、泥にまみれた冷たい玉座にしがみついているのだから。
「どうしました? 今日の味付け、お塩が少し濃かったですか?」
「いや。最高に美味いよ、ライラ」
俺が心の底から微笑むと、彼女はパァッと花が咲いたように顔を輝かせた。
彼女のこの屈託のない笑顔が、俺のすべてだ。
剣を振るう理由も、明日を泥まみれになって生きる意味も、すべてがここにある。
俺はもう、何者にも、どんな過去にも縛られない。
ただ一人の男として、彼女と共にこの実りの大地を耕し、生きていく。
氷のように冷たく凍りついていた俺の心は、彼女の不器用な温かい優しさに触れて、とっくに溶け出していたのだから。




