エピローグ「ずっと美味しい日々を」
あれから、五年という豊かで穏やかな歳月が流れた。
かつての忌まわしい死の森は、今や近隣の開拓村だけでなく、遠く国境を越えた商人たちすらもが極上の野菜を求めて足を運ぶ、活気ある広大な農村へと発展していた。
王国からの干渉は、あれ以来一切ない。
レオンハルトの「王城を叩き斬る」という凄まじい殺気が本気であると震え上がり、あの黄金の光で浄化された土地の異常な生命力に心底恐れをなした王宮の上層部は、この地を不可侵領域として扱うことに決めたらしい。
おかげで、泥にまみれた二人の生活は驚くほど平穏で、温かいものだった。
「ふう……。今日もよく晴れて、いい風が吹いていますね」
ライラは大きく頑丈に増築された家の木陰で、冷たいハーブティーを飲みながら、土で汚れた額の汗を拭った。
目の前には、五年前の何十倍にも広がった広大でふかふかな畑が、太陽の光を浴びて青々とした緑の波を打っている。
すっかり一つの村のような規模になったものの、この土地を愛する持ち主であり、世界一の野菜を作る泥だらけの『農場主』は、今でもライラとレオンハルトの二人だった。
ライラの亜麻色だった髪は、あの命を削った代償ですっかり白雪のような色のまま変わっていない。
だが、それを不気味だと蔑む者はこの村には一人もいない。
むしろ、太陽の光を反射してキラキラと輝くその真っ白な髪は、豊かな恵みをもたらす『真の聖女』の証として、周囲の人々から深く愛され、親しまれていた。
「おーい、ライラ!」
遠くの畑の畝から、野太くも底抜けに優しい声が響いてきた。
麦わら帽子を被り、分厚い肩に立派な鉄のクワを担いだ大柄な男――レオンハルトだ。
彼は満面の笑みを浮かべ、もう片方のたくましい腕で何か小さなものをひょいと抱え上げている。
ライラはハーブティーの入ったコップを置き、弾かれたように立ち上がって彼らの元へと小走りで駆け出した。
「レオンハルト! それに、ミアも!」
ライラが大きく手を振ると、レオンハルトの腕の中に抱かれた小さな影が、きゃあきゃあと嬉しそうな高い声を上げた。
陽光に透ける銀色の柔らかな髪に、ライラと同じ灰色の大きな瞳を持った、三歳になる二人の愛娘・ミアだ。
ミアの泥だらけの小さな両手には、自分の顔ほどもある真っ赤に熟れた巨大なトマトが、大事そうにギュッと抱えられている。
「ままー! おっきなとまと、とれたの!」
「あらあら、すごいわね。ミアが自分で見つけたの?」
「ああ。一番大きくて赤いやつを、自分で選んで力いっぱいもぎ取ったんだ。俺に似て、なかなか見る目がある」
レオンハルトは親馬鹿全開のデレデレとした甘い笑顔で、ミアの銀色の頭を大きな手で優しく撫でた。
かつて『氷の騎士』と恐れられ、血の匂いを纏って戦場で無数の命を刈り取ってきた冷酷な男の面影は、もはやどこにもない。
今の彼は、娘の小さな成長にいちいち涙ぐんで感動し、泥だらけの妻の作るご飯を世界一だと豪語して山盛り食べる、ただの不器用で幸せな父親だ。
「パパがね、おっきなとまとのとこで、高い高いしてくれたの!」
「そう。でもレオンハルト、あんまり高く上げすぎないでくださいね。この前もミアがはしゃぎすぎて、夕ご飯の前に寝ちゃったんですから」
「わかっている。だが、この子が俺に『もっと高く』とおねだりする姿が可愛くて、つい……」
肩をすくめる夫の姿に、ライラは呆れたように笑いながら、彼の手からミアを受け取った。
ミアの頬にキスをすると、太陽と土の匂いがした。
「さあ、お昼にしましょう。今日はミアが採ってくれたこの真っ赤なトマトを、たっぷり使った冷製スープにしますね」
「やったー!」
「それは楽しみだ。君のスープを大盛りで食べるために、午前中はいつもより三倍のペースで土を起こしてきたからな」
「もう、無理はしないでくださいっていつも言ってるのに」
ライラがぷくっと膨れっ面を作ると、レオンハルトは心底嬉しそうに目を細め、彼女の白い髪にそっと温かい唇を落とした。
泥まみれの家族三人の笑い声が、突き抜けるような青空の下、どこまでも広がる実りの畑の真ん中に響き渡る。
その日の夕食。
彼が手作りした広々としたダイニングの頑丈なテーブルには、色鮮やかで大ぶりな野菜料理が所狭しと並べられていた。
採れたてのトマトの濃厚な冷製スープに、ホクホクのジャガイモのオーブン焼き、巨大なキャベツとハーブの香ばしい香草炒め。
どれも、かつて猛毒の瘴気の森だったこの土地が力強く育んだ、生命力に満ち溢れた最高のごちそうだ。
「美味しい! ままのごはん、せかいいちおいしい!」
ミアが口の周りをトマトの赤いスープでべったりと汚しながら、満面の笑みで木のスプーンを上下に振る。
「こらこら、こぼれるぞ。服が汚れるからちゃんと拭きなさい」
レオンハルトが清潔な布巾でミアの口元を優しく拭いながら、自分も心底満足げに、深い木皿のスープを大きな口に運んでいる。
その賑やかで温かい光景を眺めながら、ライラは胸の奥がじんわりと熱いもので満たされていくのを感じていた。
王宮の冷たい石床の上で『無能な出来損ない』と蔑まれ、死の森に追放された絶望のあの日。
自分の人生は、あそこで終わったのだと思っていた。
誰にも必要とされず、誰の役にも立てず、ただ一人で泥の中で寂しく土に還るのだと。
けれど、今は違う。
自分の泥だらけの手で育てた野菜が、大好きな人たちの温かい血肉となり、こんなにも明るい笑顔を作っている。
これ以上の幸福が、果たしてこの世界のどこにあるだろうか。
「……どうした、ライラ? 俺の顔に泥でもついているか?」
見つめられていることに気づいたレオンハルトが、不思議そうに首を傾げた。
「ふふっ、なんでもないです。ただ……」
ライラは自分の木皿から、一番赤く熟れて果汁が溢れるトマトの果肉をすくい上げ、レオンハルトの口元へとそっと差し出した。
「あの絶望の森の中で、私を信じて、私の不恰好なトマトを食べてくれて……本当にありがとうございました」
「……」
レオンハルトは一瞬だけ目を丸くし、それから、あの日のすべてを思い出したように、たまらなく優しく微笑んだ。
彼は差し出されたトマトをパクリと食べ、強烈な命の味を噛み締めるように静かに目を閉じる。
「何度食べても、君のトマトは世界一美味い。俺の命そのものだ」
その低く甘い言葉は、泥だらけで初めて二人で食事をしたあの奇跡の夜と、少しも変わっていなかった。
窓の外には、息を呑むような満天の星空が広がっている。
かつて彼を蝕んでいた呪いの痛みも、追放された絶望も、孤独の悲しみも、すべてはあのふかふかの赤茶色の土の下に還り、新しい命の糧となった。
これからはただ、泥まみれの愛する家族と共に、ずっと美味しくて温かい日々を重ねていく。
それが、無能と呼ばれた落ちこぼれ聖女が手に入れた、世界で一番甘くて、泥臭くて、幸せな奇跡だった。
夕食が終わり、泥だらけになって遊び疲れたミアが、ベッドでスヤスヤと安らかな寝息を立て始めた頃。
ライラは一人、小屋のポーチに出てひんやりとした夜風に当たっていた。
心地よい虫の音と、どこまでも広がる畑から漂ってくる温かい生命の土の匂いが、心をすーっと落ち着かせてくれる。
「冷えるぞ」
背後から、レオンハルトが彼が使っていた大きな厚手のマントを持って現れ、ライラの小さな肩にそっと羽織らせてくれた。
彼はそのままライラの隣に並んで立ち、宝石を散りばめたような夜空を見上げた。
「ミアは?」
「ぐっすりですよ。夢の中でも大好きなトマトを食べているみたいで、お口をもぐもぐさせてました」
「そうか。明日は少し、森の奥の甘い果実を採りに連れて行ってやろう」
レオンハルトはひどく優しい瞳で微笑み、自然な動作でライラの肩を強く抱き寄せた。
ライラもまた、彼のがっしりとした分厚い腰に腕を回し、その温かい胸にコトリと頭を預ける。
大きなマントの下で、二人の体温がじんわりと混ざり合う。
「……ねえ、レオンハルト」
「ん?」
「私、この森に追放されて、本当に良かったと心から思っています」
「……」
「もし冷たい王宮にあのまま残っていたら、きっと誰にも必要とされないまま、自分の価値もわからないまま、ただ無能として枯れていくだけだった。でも、泥まみれのここに来て、あなたに出会って……自分の手で土を耕して、種を蒔いて、命を育てる本当の喜びを知りました。自分が生きていてもいいんだって、美味しいものを食べて笑っていいんだって、初めて思えたんです」
ライラの言葉に、レオンハルトは抱き寄せる腕の力をわずかに強めた。
「俺も同じだ。君に出会わなければ、あのまま泥の中で死んでいただろう。君が俺の氷の心を溶かし、もう一度生きる意味を与えてくれたんだ」
彼はライラの顎をそっと持ち上げ、真っ直ぐに見つめ返した。
「愛している。君と、君の作る土の匂いのするすべてを、俺の命がある限り守り抜く」
「私も……あなたを、心から愛しています」
こぼれ落ちそうな星明かりの下、二つの影が静かに重なり合う。
――追放された聖女は、かつての氷の騎士と共に、これからも泥まみれで、美味しい日々を紡いでいく。




