第九章 シャルル・ド・ゴール空港
「どうして、全部入らないの!」
桂林のホテルの部屋で、アキが開いたスーツケースを睨んでいた。
畳んだ服の間から、土産物の箱がはみ出している。隙間へ袋を押し込むと、今度は反対側の蓋が持ち上がった。
「買いすぎたからだろ」
「そんなに買ってない」
「その箱は?」
「お土産」
「そっちは?」
「それも、お土産」
「全部そう言うつもりか」
アキは答える代わりに、膝で蓋を押さえた。
手首で、淡い緑色の腕飾りが揺れた。昨日、店のガラスケースの前で、ずいぶん長く選んでいたものだった。
さとるは椅子の背に掛けたTシャツへ目をやった。
広場の若者が描いてくれた主人公が、少し生意気そうな顔でこちらを見ている。
「それ、さとるのほうへ入れてね」
「わかってるよ」
丁寧に畳みかけたところで、机の上のスマートフォンが震えた。
ロボティクスAIの陳濤からだった。
北京で会った礼に続いて、思いがけない提案が書かれていた。
アメリカへ向かう前に、フランスへ寄るつもりはないか。
さとるは、画面を指で送った。
アメリカの企業とは、すでに訪問の日程を調整していた。今使える最高の技術を見たい。その気持ちは、中国へ来る前より強くなっていた。
ありがたいが、今回は。
断りの文面を考えながら読み進めた指が、止まった。
「アキ」
「今、手が離せない」
「アメリカ行きを、少し延ばしたい」
スーツケースの蓋が跳ね上がった。
「今、何て?」
「先に、フランスへ行こうと思う」
アキは膝を床へ戻し、ゆっくり振り返った。
「万里の長城、桂林。今度はフランス」
「うん」
「アメリカって、そんなに遠かった?」
さとるは笑いかけたが、うまく笑えなかった。
もう一度、メールを読んだ。
「マカロン大統領が、俺に会いたいそうだ」
アキの顔から、呆れた表情が消えた。
「……あの?」
「ああ」
「さとるの漫画を、紹介してくれた?」
「あの大統領だ」
アキは立ち上がり、隣から画面を覗き込んだ。
陳は、フランス側とAI事業について意見を交わす機会があったらしい。その席でさとるの中国訪問に触れたところ、面会を打診してほしいと頼まれた、と書いてあった。
「陳さんって、大統領とも話すんだ」
「AIの会社を動かしてると、政治家に聞かれることも多いんだろうな」
さとるは椅子へ座り直した。
礼を伝える機会は、これまでにも探した。出版社を通じて手紙も送った。だが、直接会って話せる日が来るとは思っていなかった。
「俺、どうしても聞きたいことがあるんだ」
「うん」
アキは、もう理由を尋ねなかった。
しばらく画面を見てから、自分の服へ目を落とした。
「……大統領って、何を着て会えばいいの?」
「俺に聞くなよ」
「スーツ、持ってきてない」
「俺だって、ジャケットくらいだよ」
二人は顔を見合わせた。
最初に笑ったのは、アキだった。
「まあ、いいか。フランス、行ってみたかったし」
彼女はスーツケースの前へ戻った。
さっきまでより、少し機嫌よく服を畳み直し始める。
「パリでも買い物するから」
「まず、今ある荷物を収めてくれ」
*
その夜は、旅程の組み直しに追われた。
アメリカの訪問先へ連絡し、航空券と宿を変更する。陳へ返信すると、ほどなくフランス側の担当者から正式な案内が届いた。
四日間の滞在。
面会は、パリで開かれる文化交流イベントに合わせて調整されるという。空港には、通訳を兼ねた案内役が迎えに来てくれることになった。
すべての確認を終えたころには、アキは眠っていた。
スーツケースも、ようやく閉じていた。
さとるはノートを開いた。
毎晩、その日に思いついた漫画の場面を書き留めている。
けれど、その夜は、なかなか次の行へ進めなかった。
最初の一冊。
そう書いたところで、しばらくペンが止まっていた。
*
シャルル・ド・ゴール空港の到着口で、二人を待っていた女性は、白い紙を両手で持っていた。
《白滝さとる様》
さとるが声をかけると、彼女は紙を下ろし、深く頭を下げた。
「初めまして。通訳の鈴木真央です。ご滞在中のご案内も担当いたします」
二十代の終わりくらいに見えた。
きちんと結んだ髪も、胸元に揃えた手も、少し力が入っていた。
「日本の方なんですね。よかった」
アキが笑った。
「私はアキです。こっちは、さとる。よろしくお願いします」
「はい。さとる様、アキ様」
「様は、くすぐったいなあ」
真央は困った顔になった。
「くれぐれも失礼のないようにと、申し付かっておりまして」
「じゃあ、せめて、さんにしてください。ねえ?」
「そのほうが助かります」
さとるが頷くと、真央もようやく笑った。
車が空港を離れると、彼女は翌日の予定を説明した。
イベント開始の二時間前に会場へ入り、打ち合わせと面会を済ませる。到着後の詳しい進行は、現地の担当者が案内するという。
「二時間、ずっと大統領と話せるわけじゃないんですね」
さとるが言うと、真央は頷いた。
「警備の確認もございますし、大統領の日程によって、面会のお時間は変わるかもしれません」
「そうですよね」
さとるは、窓の外へ目を向けた。
伝えたいことを、絞らなければならなかった。
鈴木真央は明日ホテルロビーの集合時間を伝えて帰っていった。
*
ホテルの部屋へ入ると、アキはベッドへ腰を下ろし、そのまま仰向けに倒れた。
「着いたあ。フランスって思っていたより遠かったね。」
さとるは黙って頷き、窓際の机にノートを置いた。
ペンを出したところで、背後から声がした。
「お腹すいた」
「さっきまで、眠いって言ってたろ」
「両方」
「フランス料理でも食べに行く?」
アキは少し考えてから、申し訳なさそうに言った。
「……お寿司が食べたい」
「パリまで来て?」
「パリまで来たから。そろそろ、お醤油の味が恋しい」
ホテルで近くの店を教えてもらい、二人は外へ出た。
店のガラスには、寿司の盛り合わせの写真が貼ってあった。席へ案内され、二人とも真ん中の値段のセットを頼んだ。
運ばれてきた盆を見て、アキの箸が止まった。
寿司と、味噌汁。
その横に、白いご飯を盛った茶碗があった。
「……お寿司をおかずに?」
「そういうセットなんだろ」
さとるも、茶碗を見た。
寿司の横に、白いご飯が山盛りになっている。どう食べるのが正解なのか考えていると、向かいのアキが口元を押さえた。
隣の席を指さし、笑いをこらえている。
「アキ。指をさすなよ。失礼だろ」
「だって……」
アキは手を引っ込めたが、まだ肩が揺れていた。
さとるは軽く咳払いをし、熱いお茶を口へ含んだ。
注意はしたものの、何を見たのかは気になる。
顔は正面に向けたまま、目だけを隣へ動かした。
白人の若い女性が二人、向かい合って座っていた。
二人の前にも、寿司と白いご飯がある。
その一人が、茶碗へ醤油を注いでいた。
少し垂らす、という量ではなかった。
お茶漬けでも作るように、じゃぶじゃぶと。
白かったご飯が、みるみる醤油に染まっていく。それでも、瓶を傾ける手は止まらない。
向かいの女性の茶碗を見ると、そちらのご飯は、もう真っ黒になっていた。
さとるは、お茶を吹き出した。
慌てて口元を押さえたが、間に合わなかった。
「ちょっと、汚いなあ」
アキが紙ナプキンを差し出した。
声は小さかったが、笑いをこらえきれていなかった。
「……悪い。ちょっと待って」
さとるは口元とテーブルを拭き、息を整えた。
「あれ、全部、醤油だよな」
「そう見えるけど」
「お茶漬けみたいに……」
「だから、びっくりしたんだって」
アキが、さとるの顔を覗き込んだ。
「私のこと、怒ったくせに」
「指をさしたのが悪いって言ったんだよ」
「お茶を吹き出すのは、いいんだ?」
さとるは、濡れた紙ナプキンへ目を落とした。
「……よくないな」
アキは、とうとう声を殺して笑った。
さとるも、もう偉そうなことは言えなかった。
食事を終え、ホテルへ戻る道でも、アキはお茶を吹き出した話を蒸し返した。
「明日は、大統領の前でやらないでよ」
「お前が笑わせなきゃ大丈夫だ」
笑いながら答えたものの、明日の面会を思うと、さとるは少し落ち着かなくなった。
部屋へ戻ると、アキは早々に寝る支度を始めた。
さとるも休むつもりだったが、机の上のノートが目に留まった。
聞きたいことを、もう一度だけ確かめておこう。
それだけのつもりで、椅子に腰を下ろした。
*
夜中に何度も、時計を見た。
礼を言う。
それから、あの質問をする。
頭の中では、もう何度も面会を終えていた。それなのに、目を閉じると、最初の挨拶からやり直しになった。
隣では、アキが静かに寝息を立てている。
さとるは、ようやくノートを閉じた。
「俺は、本番に強い」
小さく何度も言い聞かせるように、照明を消した。
暗くなってからも、大統領へ尋ねたい言葉だけは、消えなかった。
あなたは、どこで俺の漫画を読んだのですか。




