第十章 初めての一冊
翌朝、さとるは朝食に出されたフランスパンをかじった。
外側の皮が硬いのは、日本で食べるものと同じだった。だが、噛んでみると、中の生地まで硬かった。
「……フランスのフランスパンは中も硬いんだな」
向かいでアキも、パンの切り口を覗き込んでいた。
「日本のフランスパンって、外は硬くても、中はふわふわしてるよね」
「ああ。もっと柔らかい」
さとるはもう一口かじり、ゆっくり噛んだ。
「俺、日本のフランスパンのほうがおいしいと思う」
「私も。本場のを食べるの、楽しみにしてたんだけどなあ」
アキは少し残念そうに、手の中のパンを見た。
「昨日のお寿司も、日本のほうがおいしかったね」
「ああ。まさか、フランスパンまでそう思うとはな」
アキが笑い、さとるもつられて笑った。
さとるはコーヒーをひと口飲んだ。
寿司も、フランスパンも、日本で食べていたもののほうがおいしい。
海外まで来てそう感じたことが、さとるには少し嬉しかった。
*
イベント会場の入口には、何台もの警備車両が止まっていた。
真央に案内され、受付で名前を告げ、持ち物の確認を受けた。長い廊下を進むと、扉の向こうから人の話し声が聞こえた。
さとるはジャケットの裾を直した。
アキも、隣で襟元を確かめていた。
扉が開いた。
数人の職員と話していた男が、こちらを向いた。
テレビで見た顔だった。
男は会話を切り上げると、まっすぐ歩いてきた。
「白滝、さとるさん」
ゆっくりした日本語だった。
フランス大統領、マカロン。
差し出された手を見て、さとるは少し前のことを思い出していた。
AI漫画家として、まだデビュー間もない頃のことだった。
*
「ねえ、さとる。近くで同人誌の即売会があるんだって!」
アキが、スマートフォンの画面を見せてきた。
「私が、さとるの漫画をいっぱい売ってくるよ。さとるは、続きを描いてて」
即売会の朝、アキは印刷した『大きな第一コマ』を、大きな鞄へ詰めた。
玄関を出るとき、鞄を一度床へ下ろし、肩ひもの位置を直した。
さとるは立ち上がりかけた。
「そんなに持って重いだろう。やっぱり俺も——」
「二巻はいつ出るんですかって聞かれたら、困るでしょ」
そう言って、彼女は手を振った。
帰ってきたのは、夜だった。
アキはひどく疲れた顔をしていた。朝と同じように膨らんだ鞄を床へ下ろすと、肩を落として、大きく息を吐いた。
「おかえり」
アキが顔を上げた。
さとるの顔を見た途端、ぱっと笑顔になった。
「ただいま! 売れたよ」
人差し指を立てた。
「一冊!」
さとるは、何と言えばいいかわからなかった。
アキは靴を脱ぎながら続けた。
「ちゃんと中を読んで、買ってくれたんだよ。立ったまま、けっこう長く読んでた」
「……そうか」
「だから、今日は記念日です」
彼女は冷蔵庫を開けた。
「初めての一冊が売れた日。乾杯しよう」
缶を二つ、机へ置く。
さとるは、そのうちの一つを受け取った。
缶を合わせると、アキは嬉しそうに笑った。
「一冊売れた記念日。忘れちゃ駄目だよ」
「ああ」
アキはひと口飲むと、買ってくれた人の話を、また楽しそうに始めた。
それから、しばらく経ったころだった。
酔いが回り、机に頬を伏せていたアキが、急に声を上げた。
「……馬鹿野郎!」
さとるは顔を向けた。
「アキ?」
「AI漫画だから何だよ! 読んでから言いなよ! 中も見ないで……」
アキのことだから、一生懸命売ろうとして、何か言われたんだろう。
「さとるの漫画、面白いんだから!」
アキが袖で目元を拭った。
さとるは、自分の無力さが悔しくて、胸が張り裂けそうになった。
*
翌日、アキはいつものように、電子書籍の販売画面を開いていた。
「電子書籍のKinbleに登録したのに、全然売れないね。さとるの漫画は面白いのに、なぜなんだろうね」
画面には、零が並んでいた。
「面白い漫画が名作になるんじゃない。売れた漫画が名作と言われるんだ」
「どういうこと?」
さとるは俯いたまま答えた。
「俺の漫画は、面白くても誰も読んじゃくれない。出版社も扱ってくれない」
「なぜなの?」
「俺がAI漫画家だからさ」
アキは、さとるの顔を覗き込んだ。
「私は、さとるのAI漫画、大好きだよ!」
「……もういいよ」
「さとる?」
それでも顔を上げない彼に、アキが身を寄せた。
「実家から、見合い話が来たって言ってただろう」
「その話は断ったって言ったじゃん!」
「アキは、もう三十だろう?」
アキの表情が変わった。
見たこともないほど、怒っていた。
「三十だから何? 見合いしろって? 本気で怒るよ?」
「俺は、アキのことを思って……」
「私には、選ぶ権利がないの?」
アキの目から、涙がこぼれた。
さとるは何も言えなかった。
口を開けば、自分も泣いてしまう。
アキのためだと言いながら、そのアキを泣かせていた。
自分が情けなくて、顔を上げられなかった。
さとるは立ち上がり、机へ向かった。
次の話を考えていたノートを開く。
何も考えないように、ひたすらペンを走らせた。
漫画は相変わらず売れなかった。
それでも、翌日にはアキの笑顔が戻っていた。




