第八章 好漢と漫画家
「アメリカの前に、桂林へ行こう」
「けいりん?」
アキは聞き慣れない地名を繰り返し、隣のさとるを見上げた。
「陸さんに聞いたんだ。絵を描く若い人たちが集まってるところがあるらしい。紙とかTシャツとか、いろんなものに、その場で絵を描いて売ってるんだって」
「また漫画?」
「現地で、どんなふうに楽しまれてるのか見たいだろ」
「見たいけど」
「川も山も、きれいなところらしいよ」
「それを先に言ってよ」
アキはスマートフォンを取り出した。
桂林、と入力する。画面に現れた写真を見た途端、指が止まった。
「あ、本当だ。すごい」
水面の向こうに、切り立った山々が幾重にも重なっていた。
何枚か写真を眺めていたアキの指が、別の画面で止まった。
「あ」
「今度は何?」
「翡翠のお店もある」
「あるらしいな」
「行こう」
返事は早かった。
さとるは思わず笑った。
「決まりだな」
「ただし」
アキが人差し指を立てた。
「万里の長城に行ってからね。そっちがまだ残ってるから」
「……覚えてたのか」
「もちろん」
アキはにっこり笑った。
さとるも、そのときは笑っていた。
翌朝、万里の長城の石段で、さとるは早くも後悔していた。
「ちょっと……待って」
立ち止まり、両手を膝につく。
息を整えようとしても、胸ばかりが忙しく上下した。顔を上げた先には、まだ石段が続いている。
「まだ行くの?」
「行くよ」
少し先を歩いていたアキが振り返った。
「もう十分見ただろ。万里の長城」
「写真を見るだけじゃなくて、登りに来たんでしょう?」
「俺は漫画家なんだぞ。登山家じゃない」
「机に座ってばかりの生活は、不健康なんでしょう?」
さとるは、恨めしそうに彼女を見た。
「……昔の発言を、こういうときだけ持ち出すなよ」
アキが声を上げて笑った。
それから、何かを思い出したように足を止めた。
「そういえば、中国には有名な言葉があるんだって」
「嫌な予感がする」
「不到长城非好汉」
「何?」
「『長城に到らざれば、好漢にあらず』」
「……好漢?」
「英雄とか、立派な人って感じかな。もともとは毛沢東の詞に出てくる言葉なんだって」
「へえ」
返事をしている間にも、息が切れた。
アキは、上へ続く石段を指さした。
「ということで、途中でへばってる人は、まだ好漢じゃありません」
「その解釈は絶対お前が足しただろ」
「さあ?」
悪びれもせず、また歩き始める。
「ほら、好漢。頑張って」
「誰が好漢だ」
「登りきったら、そう呼んであげる」
さとるは大きく息を吐いた。
目の前にも、その先にも、石段があった。どこまで行っても、まだ石段だった。
「……AIで何とかならないかな」
「ならないよ」
「即答かよ」
「自分の足で登ってください」
「こういうときだけ人間に厳しいな……」
ぶつぶつ言いながら、さとるは重い足を持ち上げた。
ようやく見晴らしのよい場所までたどり着くと、さとるは城壁にもたれた。もう、文句を言う余裕もなかった。
その隣で、アキは遠くを眺めていた。
「さとる」
「……何」
「見て」
促されて、顔を上げた。
山の稜線に沿って、城壁が延びていた。
一つの峰を越え、次の峰へ渡り、さらに遠くの山へ続いている。振り返れば、さっきまで二人で登ってきた道も、その長い城壁の一部にすぎなかった。
写真では何度も見ていた。
けれど、画面の中では小さく見えた起伏の一つを越えるのに、自分の足ではこれだけかかった。
さとるは、遠くの峰へ目を戻した。
「……すごいな」
「でしょう?」
「ああ」
しばらく、二人とも黙っていた。
息が落ち着いたころ、さとるはスマートフォンを取り出した。
「漫画の資料?」
「それも撮るけど」
カメラを自分たちへ向け、アキを手招きする。
「先に、二人で撮ろう」
アキは少しだけ目を丸くした。
それから、嬉しそうに隣へ寄ってきた。
「やっと観光らしくなったね」
「最初から観光してるだろ」
「ずっと仕事のこと考えてたくせに」
肩が触れるところまで近づいたアキと、背後の城壁が画面に収まった。
「ほら、撮るぞ」
「好漢になった記念?」
「うるさい」
アキが笑った。
つられて、さとるも笑った。
その瞬間に、シャッターが切れた。
北京での滞在を終え、二人は桂林へ移った。
街を走る車の窓から、いくつもの山が見えた。
日本で見慣れた山とは、形が違う。地面からそのまま立ち上がったような峰が、建物の向こうで幾重にも重なっていた。
アキが窓へ顔を近づけた。
「漫画の背景みたい」
「そうだな」
「今、仕事のこと考えた?」
「……少し」
「だと思った」
呆れた声だったが、アキも窓から目を離そうとはしなかった。
翌日、二人は陸に教えられた広場へ向かった。
途中の通りには、装飾品を扱う店が並んでいた。ガラスケースの中で、緑色の腕飾りや小さな彫り物が光っている。
「すごい。翡翠、いっぱいある」
アキが足を止めた。
さとるは止まらなかった。
通りの先に並んだ絵の中に、見覚えのある顔を見つけていた。
「あ、ちょっと」
「翡翠の店は、あとでゆっくり寄ろう」
「今、言ったからね」
「ああ」
さとるは片手を上げた。
聞いてはいた。
ただ、目はもう、通りの先へ向いていた。
広場には、絵があふれていた。
壁に掛けられた紙。頭上の紐に吊るされたTシャツ。机に並べられた布の鞄。その一つ一つに、漫画やアニメの人物が描かれている。
日本で見慣れたキャラクターもいた。
「あっ」
追いついてきたアキが声を上げた。
「さとるの」
「ああ」
いちばん目立つ場所に、『大きな第一コマ』の主人公がいた。
さとるは、しばらく絵を見上げていた。
口元が、勝手に緩んでいく。
「ここでも、読まれてるんだね」
「そうみたいだ」
「また、その顔」
「どの顔だよ」
「嬉しくて、どうしようもない顔」
さとるは否定しなかった。
ここは、出版社が用意した会場ではない。自分が来なくても、あの絵は今日もここに掛けられていたのだろう。
少し離れた机で、若い男が白いTシャツを広げていた。
客がスマートフォンの画面を見せる。若者は一度頷くと、筆を取った。
さとるは、その手元に目を留めた。
迷いのない線だった。
輪郭ができ、目が入り、髪が流れる。筆が何度か動くうちに、何もなかった布の上に表情が生まれた。
「早い」
アキが呟いた。
「ああ」
隣の机では、別の若者が似顔絵を描いていた。目の前の客の特徴を拾いながら、漫画の登場人物のように仕上げていく。
絵を見た客が笑うと、描いていた若者も笑った。
代金と絵が交換され、客が席を立つ。間もなく、次の客が同じ椅子へ座った。
「ここって、何でも描いてくれるの?」
「ああ。好きなキャラクターを言ったり、画像を見せたりすると、その場で描いてくれるらしい。紙でも、Tシャツでも、鞄でも」
「みんな若いね」
「絵で食べていこうとしてる人たちが集まってるんだって。陸さんが言ってた」
さとるは若者の足元へ目を落とした。
線や色を試した紙が、何枚も重なっていた。同じ目を繰り返し描いた紙もあれば、輪郭の途中でやめたものもあった。
今、客の前で迷いなく動いている手は、何もないところからそうなったわけではなかった。
昔の自分の机にも、こんな紙が積まれていた。
「上手くて、早くなきゃ、隣の店へ行かれる。今日いくら描けたかが、そのまま生活費になる」
さとるが言うと、アキはもう一度、机の並ぶ広場を見渡した。
「厳しいね」
「ああ」
描いている人がいる。
その向こうには、出来上がりを待っている人がいる。
値段を聞いて立ち去る客もいた。それでも若者たちは、次の紙や布を広げ、また筆を取った。
「こういうところへ来ると、やる気が出るな」
アキが横から顔を覗き込んだ。
「まだ足りないの?」
「いくらあっても困らないだろ」
さとるは笑い、客の途切れた机へ向かった。
「何を描いてもらうの?」
「決まってるだろ」
スマートフォンを取り出し、『大きな第一コマ』の主人公を画面に出した。
「もちろん、こいつさ」
画像を見せて白いTシャツを指さすと、若者はすぐに頷いた。画面を確かめる時間も短かった。
知っているのだ。
それがわかって、さとるはまた嬉しくなった。
示された値段は、日本円にすれば千円ほどだった。
こんなに安くていいのか。
一瞬ためらったものの、さとるは代金を払った。
若者は白いTシャツを机へ広げ、手のひらで布のしわを伸ばした。それから筆を取り、最初の線を引いた。
さとるは、その手元を見つめた。
何百回も見てきた、自分の漫画の主人公だった。
だが、描く人が違うと、少し違って見えた。
眉が強い。笑い方が、少し生意気だった。肩を大きく開いた姿は、今にもこちらへ何か言い出しそうだった。
さとるは身を屈めた。
「……いいな」
若者が顔を上げた。
言葉は伝わらなかったらしく、わずかに首を傾げる。
さとるは親指を立てた。
若者の顔に笑みが広がった。小さく頷き、また筆を動かし始める。
アキは、その二人を少し離れたところから眺めていた。
出来上がった絵が乾くのを待ち、さとるはTシャツを受け取った。両手で広げ、アキへ向ける。
「どうだ」
「いいね」
アキは絵を見てから、さとるの顔を見た。
「すごく気に入ったんだね」
「わかるか」
「顔に書いてある」
さとるはもう一度、Tシャツの中の主人公を見た。
やはり、少し生意気そうな顔だった。
それが、たまらなくよかった。
丁寧に畳んで袋へ入れ、若者に礼を言う。広場を離れるときに振り返ると、さっきの机では、もう次の注文が始まっていた。
アキが、さとるの持つ袋を覗き込んだ。
「最高のAIを探しに中国まで来たのに、手描きのTシャツを買っちゃったね」
「いいだろ」
さとるは笑った。
「俺の漫画の主人公を、あんなに格好よく描いてくれたんだぞ」
「うん。来てよかったね」
「ああ」
袋の口から、畳まれたTシャツが少し見えていた。
汚さないように持ち直し、さとるは顔を上げた。通りの向こうには、切り立った山々が見える。
「アメリカも、面白くなりそうだな」
アキが、彼の腕をしっかりつかんだ。
「その前に」
「ん?」
「翡翠」
さとるは黙った。
「……忘れてたでしょ」
「いや。覚えてたよ、ちゃんと」
「本当に?」
「ああ。たぶん」
「たぶんって何!」
アキの声に、さとるは笑ってしまった。
「ほら。翡翠、見に行くぞ」
「見るだけじゃないからね」
「買うの?」
「それは、見てから決める」
「一番怖いやつだな」
二人は並んで、来た道を引き返した。
アキはさっきの店を見つけると、さとるの腕を引いた。今度は、彼も足を止めた。
ガラスケースに顔を近づけるアキの隣で、さとるはTシャツの入った袋をそっと持ち替えた。
通りの向こうでは、桂林の山々が夕暮れの中に重なっていた。
次はアメリカ。
そのときのさとるは、もうそう決めたつもりでいた。




