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俺はAI漫画家さ  作者: 白滝さとる


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8/11

第八章 好漢と漫画家

「アメリカの前に、桂林へ行こう」


「けいりん?」


 アキは聞き慣れない地名を繰り返し、隣のさとるを見上げた。


「陸さんに聞いたんだ。絵を描く若い人たちが集まってるところがあるらしい。紙とかTシャツとか、いろんなものに、その場で絵を描いて売ってるんだって」


「また漫画?」


「現地で、どんなふうに楽しまれてるのか見たいだろ」


「見たいけど」


「川も山も、きれいなところらしいよ」


「それを先に言ってよ」


 アキはスマートフォンを取り出した。


 桂林、と入力する。画面に現れた写真を見た途端、指が止まった。


「あ、本当だ。すごい」


 水面の向こうに、切り立った山々が幾重にも重なっていた。


 何枚か写真を眺めていたアキの指が、別の画面で止まった。


「あ」


「今度は何?」


「翡翠のお店もある」


「あるらしいな」


「行こう」


 返事は早かった。


 さとるは思わず笑った。


「決まりだな」


「ただし」


 アキが人差し指を立てた。


「万里の長城に行ってからね。そっちがまだ残ってるから」


「……覚えてたのか」


「もちろん」


 アキはにっこり笑った。


 さとるも、そのときは笑っていた。


 翌朝、万里の長城の石段で、さとるは早くも後悔していた。


「ちょっと……待って」


 立ち止まり、両手を膝につく。


 息を整えようとしても、胸ばかりが忙しく上下した。顔を上げた先には、まだ石段が続いている。


「まだ行くの?」


「行くよ」


 少し先を歩いていたアキが振り返った。


「もう十分見ただろ。万里の長城」


「写真を見るだけじゃなくて、登りに来たんでしょう?」


「俺は漫画家なんだぞ。登山家じゃない」


「机に座ってばかりの生活は、不健康なんでしょう?」


 さとるは、恨めしそうに彼女を見た。


「……昔の発言を、こういうときだけ持ち出すなよ」


 アキが声を上げて笑った。


 それから、何かを思い出したように足を止めた。


「そういえば、中国には有名な言葉があるんだって」


「嫌な予感がする」


「不到长城非好汉」


「何?」


「『長城に到らざれば、好漢にあらず』」


「……好漢?」


「英雄とか、立派な人って感じかな。もともとは毛沢東の詞に出てくる言葉なんだって」


「へえ」


 返事をしている間にも、息が切れた。


 アキは、上へ続く石段を指さした。


「ということで、途中でへばってる人は、まだ好漢じゃありません」


「その解釈は絶対お前が足しただろ」


「さあ?」


 悪びれもせず、また歩き始める。


「ほら、好漢。頑張って」


「誰が好漢だ」


「登りきったら、そう呼んであげる」


 さとるは大きく息を吐いた。


 目の前にも、その先にも、石段があった。どこまで行っても、まだ石段だった。


「……AIで何とかならないかな」


「ならないよ」


「即答かよ」


「自分の足で登ってください」


「こういうときだけ人間に厳しいな……」


 ぶつぶつ言いながら、さとるは重い足を持ち上げた。


 ようやく見晴らしのよい場所までたどり着くと、さとるは城壁にもたれた。もう、文句を言う余裕もなかった。


 その隣で、アキは遠くを眺めていた。


「さとる」


「……何」


「見て」


 促されて、顔を上げた。


 山の稜線に沿って、城壁が延びていた。


 一つの峰を越え、次の峰へ渡り、さらに遠くの山へ続いている。振り返れば、さっきまで二人で登ってきた道も、その長い城壁の一部にすぎなかった。


 写真では何度も見ていた。


 けれど、画面の中では小さく見えた起伏の一つを越えるのに、自分の足ではこれだけかかった。


 さとるは、遠くの峰へ目を戻した。


「……すごいな」


「でしょう?」


「ああ」


 しばらく、二人とも黙っていた。


 息が落ち着いたころ、さとるはスマートフォンを取り出した。


「漫画の資料?」


「それも撮るけど」


 カメラを自分たちへ向け、アキを手招きする。


「先に、二人で撮ろう」


 アキは少しだけ目を丸くした。


 それから、嬉しそうに隣へ寄ってきた。


「やっと観光らしくなったね」


「最初から観光してるだろ」


「ずっと仕事のこと考えてたくせに」


 肩が触れるところまで近づいたアキと、背後の城壁が画面に収まった。


「ほら、撮るぞ」


「好漢になった記念?」


「うるさい」


 アキが笑った。


 つられて、さとるも笑った。


 その瞬間に、シャッターが切れた。


 北京での滞在を終え、二人は桂林へ移った。


 街を走る車の窓から、いくつもの山が見えた。


 日本で見慣れた山とは、形が違う。地面からそのまま立ち上がったような峰が、建物の向こうで幾重にも重なっていた。


 アキが窓へ顔を近づけた。


「漫画の背景みたい」


「そうだな」


「今、仕事のこと考えた?」


「……少し」


「だと思った」


 呆れた声だったが、アキも窓から目を離そうとはしなかった。


 翌日、二人は陸に教えられた広場へ向かった。


 途中の通りには、装飾品を扱う店が並んでいた。ガラスケースの中で、緑色の腕飾りや小さな彫り物が光っている。


「すごい。翡翠、いっぱいある」


 アキが足を止めた。


 さとるは止まらなかった。


 通りの先に並んだ絵の中に、見覚えのある顔を見つけていた。


「あ、ちょっと」


「翡翠の店は、あとでゆっくり寄ろう」


「今、言ったからね」


「ああ」


 さとるは片手を上げた。


 聞いてはいた。


 ただ、目はもう、通りの先へ向いていた。


 広場には、絵があふれていた。


 壁に掛けられた紙。頭上の紐に吊るされたTシャツ。机に並べられた布の鞄。その一つ一つに、漫画やアニメの人物が描かれている。


 日本で見慣れたキャラクターもいた。


「あっ」


 追いついてきたアキが声を上げた。


「さとるの」


「ああ」


 いちばん目立つ場所に、『大きな第一コマ』の主人公がいた。


 さとるは、しばらく絵を見上げていた。


 口元が、勝手に緩んでいく。


「ここでも、読まれてるんだね」


「そうみたいだ」


「また、その顔」


「どの顔だよ」


「嬉しくて、どうしようもない顔」


 さとるは否定しなかった。


 ここは、出版社が用意した会場ではない。自分が来なくても、あの絵は今日もここに掛けられていたのだろう。


 少し離れた机で、若い男が白いTシャツを広げていた。


 客がスマートフォンの画面を見せる。若者は一度頷くと、筆を取った。


 さとるは、その手元に目を留めた。


 迷いのない線だった。


 輪郭ができ、目が入り、髪が流れる。筆が何度か動くうちに、何もなかった布の上に表情が生まれた。


「早い」


 アキが呟いた。


「ああ」


 隣の机では、別の若者が似顔絵を描いていた。目の前の客の特徴を拾いながら、漫画の登場人物のように仕上げていく。


 絵を見た客が笑うと、描いていた若者も笑った。


 代金と絵が交換され、客が席を立つ。間もなく、次の客が同じ椅子へ座った。


「ここって、何でも描いてくれるの?」


「ああ。好きなキャラクターを言ったり、画像を見せたりすると、その場で描いてくれるらしい。紙でも、Tシャツでも、鞄でも」


「みんな若いね」


「絵で食べていこうとしてる人たちが集まってるんだって。陸さんが言ってた」


 さとるは若者の足元へ目を落とした。


 線や色を試した紙が、何枚も重なっていた。同じ目を繰り返し描いた紙もあれば、輪郭の途中でやめたものもあった。


 今、客の前で迷いなく動いている手は、何もないところからそうなったわけではなかった。


 昔の自分の机にも、こんな紙が積まれていた。


「上手くて、早くなきゃ、隣の店へ行かれる。今日いくら描けたかが、そのまま生活費になる」


 さとるが言うと、アキはもう一度、机の並ぶ広場を見渡した。


「厳しいね」


「ああ」


 描いている人がいる。


 その向こうには、出来上がりを待っている人がいる。


 値段を聞いて立ち去る客もいた。それでも若者たちは、次の紙や布を広げ、また筆を取った。


「こういうところへ来ると、やる気が出るな」


 アキが横から顔を覗き込んだ。


「まだ足りないの?」


「いくらあっても困らないだろ」


 さとるは笑い、客の途切れた机へ向かった。


「何を描いてもらうの?」


「決まってるだろ」


 スマートフォンを取り出し、『大きな第一コマ』の主人公を画面に出した。


「もちろん、こいつさ」


 画像を見せて白いTシャツを指さすと、若者はすぐに頷いた。画面を確かめる時間も短かった。


 知っているのだ。


 それがわかって、さとるはまた嬉しくなった。


 示された値段は、日本円にすれば千円ほどだった。


 こんなに安くていいのか。


 一瞬ためらったものの、さとるは代金を払った。


 若者は白いTシャツを机へ広げ、手のひらで布のしわを伸ばした。それから筆を取り、最初の線を引いた。


 さとるは、その手元を見つめた。


 何百回も見てきた、自分の漫画の主人公だった。


 だが、描く人が違うと、少し違って見えた。


 眉が強い。笑い方が、少し生意気だった。肩を大きく開いた姿は、今にもこちらへ何か言い出しそうだった。


 さとるは身を屈めた。


「……いいな」


 若者が顔を上げた。


 言葉は伝わらなかったらしく、わずかに首を傾げる。


 さとるは親指を立てた。


 若者の顔に笑みが広がった。小さく頷き、また筆を動かし始める。


 アキは、その二人を少し離れたところから眺めていた。


 出来上がった絵が乾くのを待ち、さとるはTシャツを受け取った。両手で広げ、アキへ向ける。


「どうだ」


「いいね」


 アキは絵を見てから、さとるの顔を見た。


「すごく気に入ったんだね」


「わかるか」


「顔に書いてある」


 さとるはもう一度、Tシャツの中の主人公を見た。


 やはり、少し生意気そうな顔だった。


 それが、たまらなくよかった。


 丁寧に畳んで袋へ入れ、若者に礼を言う。広場を離れるときに振り返ると、さっきの机では、もう次の注文が始まっていた。


 アキが、さとるの持つ袋を覗き込んだ。


「最高のAIを探しに中国まで来たのに、手描きのTシャツを買っちゃったね」


「いいだろ」


 さとるは笑った。


「俺の漫画の主人公を、あんなに格好よく描いてくれたんだぞ」


「うん。来てよかったね」


「ああ」


 袋の口から、畳まれたTシャツが少し見えていた。


 汚さないように持ち直し、さとるは顔を上げた。通りの向こうには、切り立った山々が見える。


「アメリカも、面白くなりそうだな」


 アキが、彼の腕をしっかりつかんだ。


「その前に」


「ん?」


「翡翠」


 さとるは黙った。


「……忘れてたでしょ」


「いや。覚えてたよ、ちゃんと」


「本当に?」


「ああ。たぶん」


「たぶんって何!」


 アキの声に、さとるは笑ってしまった。


「ほら。翡翠、見に行くぞ」


「見るだけじゃないからね」


「買うの?」


「それは、見てから決める」


「一番怖いやつだな」


 二人は並んで、来た道を引き返した。


 アキはさっきの店を見つけると、さとるの腕を引いた。今度は、彼も足を止めた。


 ガラスケースに顔を近づけるアキの隣で、さとるはTシャツの入った袋をそっと持ち替えた。


 通りの向こうでは、桂林の山々が夕暮れの中に重なっていた。


 次はアメリカ。


 そのときのさとるは、もうそう決めたつもりでいた。

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