第七章 二年後の世界
アキが北京ダックを楽しむ隣で、さとるは店の入口へ目を向けた。
「ところで、AIの会社の方は……」
「少し遅れると連絡があったのですが……」
陸も入口を振り返り、言葉を止めた。
「ああ、ちょうどいらっしゃいました」
店員に案内されて、濃い色の上着を着た男が近づいてきた。四十代ほどに見えた。スマートフォンで短い返信を済ませ、それをしまってから、こちらへ手を差し出した。
「遅くなりまして、申し訳ありません」
陸が立ち上がり、紹介した。
「ロボティクスAIのCOO、陳濤です。私の高校時代の同級生なんですよ」
陳濤――チントウ。
AI技術で急速に存在感を増している会社の、最高執行責任者だった。
さとるも立ち上がり、差し出された手を握った。
「初めまして。白滝さとるです。お忙しいところ、ありがとうございます」
挨拶のあとは、陸が通訳を引き受けた。
席に着いた陳は、茶をひと口飲み、ようやく息をついた。
「AIバブルだと言われていますが、少なくとも、忙しさだけは本物です」
「今日は、仕事を増やさないようにします」
「それは助かります」
陳は笑い、茶碗を置いた。
「私に、聞きたいことがあるそうですね」
「はい。単刀直入に伺います」
さとるの前には、まだほとんど手をつけていない料理があった。
「これから先、AIの開発で先頭に立つのは、どの会社だと思いますか」
アキが顔を上げた。
「いきなり、そこから聞くの?」
「俺は、いちばんうまい絵が欲しい」
迷いのない返事だった。
「だから、いちばん先の技術を知っておきたい」
「コマから、別のAIに替えるの?」
さとるはアキを見た。
先ほどまでの、からかうような声ではなかった。
「使うAIは変わるかもしれない。でも、コマを置いていくわけじゃないよ」
「そうなの?」
「一緒に考えた話も、何度もやり直した記録も、全部持っていく。それを引き継いで、今まで描けなかったものを描けるようにするんだ」
「じゃあ、コマはコマのまま?」
「ああ。もっと腕のいい相棒に成長するだけさ」
アキの表情が和らいだ。
「俺は、もっと面白い漫画を作りたい。だから、俺もコマも、ここで満足するつもりはないんだ」
陳は、陸の通訳を最後まで聞いていた。それから、面白そうにさとるを見た。
「ずいぶん、欲張りな方ですね」
「ようやく漫画家になれたんですから。描きたいものは、まだまだありますよ」
「なるほど」
陳は椅子に座り直した。
「では、私の見立てをお話ししましょう。確定した未来ではありませんが」
「今、この競争の先頭にいるのは、アメリカの企業です」
陳はそこで、一度言葉を切った。
「ただし、二年後もそうだとは限りません」
「二年後?」
さとるが聞き返すと、陳は頷いた。
「私たちが今、入手に苦労しているのは、最先端の半導体です。AIを学習させるにも、動かすにも、大量の計算が必要ですから」
「アメリカの半導体輸出規制ですか」
「ええ。必要なだけ手に入れられるわけではありません。作りたいAIがあっても、計算する設備が足りない。それで失う時間は大きい」
陳は指を二本立てた。
「提携する半導体メーカーと、新しい半導体の開発を進めています。順調にいけば二年で、私たちの計算設備を大きく増やせる」
「では、二年後には追いつく?」
「その可能性はあります。ただ、それだけなら、アメリカも同じ二年間で先へ進みます」
二本の指のうち、一本が折られた。
「問題は、その前です。私は、早ければ一年後、アメリカ側の開発を鈍らせるほどの壁が現れると見ています」
アキも箸を止めた。
「壁?」
「電力です」
さとるは少し身を乗り出した。
「AIの計算設備を増やせば、それを動かす電力も要ります。ところが、発電所や送電設備は、同じ速さでは増やせません」
「機械はあるのに、動かせない?」
アキの問いに、陳は頷いた。
「ええ。今の勢いで設備が増えれば、早いところでは一年ほどで、電力の供給が追いつかなくなる。私はそう見ています」
「世界一のAIでも、電気がなかったら駄目なんだ」
「ええ。そこは、とても正直です」
陳は笑った。
だが、さとるは笑わなかった。
一年。
二年。
頭の中で、二つの数字を並べていた。
「半導体を確保した中国の企業が、電力で足を止めたアメリカの企業を抜く。そういう見通しですか」
「そこまで単純なら、ありがたいのですが」
陳は首を振った。
「相手も、黙って待ってはいません。国内で電力が足りなければ、国外に計算拠点を置く方法もある。たとえば、オーストラリアなどの電力会社や事業者と組むことも考えられます」
「電力を確保できる場所へ、AIを動かす設備を持っていく?」
「そうです。計算する場所まで、アメリカ国内である必要はありませんから」
さとるは腕を組んだ。
どの会社のAIを使えば、もっといい絵が描けるのか。それを聞きに来たはずだった。
だが、その答えは、海の向こうの半導体工場や、まだ建っていない発電所にまでつながっていた。
「新しい半導体、電力の確保、少ない計算で同じことをする技術。どこで突破口が開くかによって、結果は変わります」
「中国が勝つと、決まったわけではない」
「ええ。私たちは勝つつもりで働いています。ただ、競争相手も同じでしょう」
陳はそこで、ようやく料理へ箸を伸ばした。
「ほかにも、聞きたいことはありますか」
「あります」
さとるは即座に答えた。
スマートフォンを取り出し、制作途中の原稿を開く。画面を陳へ向け、隣り合う二つのコマを指で示した。
「絵を作る速度が上がるのはありがたい。でも、俺が欲しいのは速さだけじゃない」
同じ少年が描かれていた。
正面を向いた顔と、振り返った顔。髪も服も同じなのに、振り返ったほうだけが、少し大人びて見えた。
「同じ人物を百コマ描いて、百コマとも同じ人間に見せられますか。髪型や服だけじゃない。表情が変わっても、角度が変わっても、読者が迷わないくらいに」
「そこ、いつも直してるもんね」
アキが画面を覗き込んだ。
「ああ。一枚だけきれいな絵が作れても、それだけじゃ漫画にならない」
陳は箸を置いた。
通訳を聞きながら、二つのコマを見比べていた。
「以前に比べれば、かなり改善しています。同じ人物を保ったまま、違う構図や表情を作ることもできます」
「完璧に?」
「いいえ」
返事は早かった。
「長い作品になればなるほど、細かな違いは出ます。それに、どこまでを同じ人物と認めるかは、作者によっても違う。今はまだ、人間の確認と修正が必要です」
さとるは小さく頷いた。
「その答えのほうが信用できます」
「私も、できないことまでできると言って、漫画家に嫌われたくはありませんから」
アキが吹き出した。
「賢明です」
「アキ」
「だって、さとる細かいもん」
「細かくなきゃ漫画は作れないんだよ」
陸が訳すと、陳も笑った。
「参考になりましたか」
さとるは、もう一度、画面の原稿へ目を落とした。
直したいところは、まだいくつもあった。
今日のサイン会でも、早く続きを読ませてほしいと言われたばかりだった。
「ありがとうございます。アメリカで確かめたいことが増えました」
アキが彼を見た。
「じゃあ、予定どおり?」
「ああ」
さとるはスマートフォンをしまった。
「今、先頭にいる会社の現場を見たい。二年後の一番を待つより、今使える最高の技術で描きたいんです」
陸の通訳を聞くと、陳の口元に笑みが浮かんだ。
「二年は、待っていただけませんか」
「二年も待ったら、その間に漫画が何冊出せると思います?」
陳は声を上げて笑った。
「中国まで来て、アメリカへ行く決心を固めて帰るわけですね」
「その代わり、もっといいものを作ったら、呼んでください」
さとるも笑った。
「すぐに、また来ます」
陳は改めて手を差し出した。
「その言葉、覚えておきますよ」
「こちらこそ」
握手をする二人の横で、アキが口を開いた。
「そのときも、北京ダックはお願いします」
店を出るころには、街はすっかり夜の色になっていた。
アキは満足そうに、お腹へ手を当てた。
「おいしかった」
「よかったな」
「さとるは、話ばっかりだったね」
「大事な話だったから」
「知ってる。でも、食べないから、私がいっぱい食べちゃった」
悪びれる様子もないので、さとるは笑ってしまった。
アキが、彼の腕へ自分の腕を絡めた。
「じゃあ、次はアメリカだね」




