第六章 北京へ
「アキ。これから世界を回ることになるけど、一緒に来る?」
開いたスーツケースの前で、アキの手が止まった。
膝の上には、畳みかけのシャツがあった。
「疑問形なの?」
笑っていなかった。
さとるは、椅子にもたれていた体を起こした。
「……一緒に来てほしい」
アキは、しばらく彼を見ていた。
それから、手元のシャツを丁寧に畳み、スーツケースへ収めた。
「たまには観光もするなら、行ってあげてもいいけど?」
「ああ。漫画のネタ探しに、観光も一緒に行こう」
「観光はついでかあ」
わざとらしく肩を落とした。
だが、口元にはもう笑みが戻っていた。
「しょうがない。漫画馬鹿に付き合ってあげる」
アキは立ち上がり、さとるの首へ両腕を回した。
さとるも、その背中へ手を添えた。
「ありがとう」
「お礼は、おいしいご飯でお願いします」
「了解」
アキは満足そうに頷くと、腕をほどき、机の端へ寄りかかった。
「それで、最初はどこの国?」
さとるの目が、少し輝いた。
漫画か、新しい道具の話をするときの目だった。
「今、最先端のAIを作っている会社が、どこの国にあるか知ってる?」
「知らなーい。AIに聞こうか?」
アキがスマートフォンへ手を伸ばす。
「いや、いい。俺が使い比べているAIでは、アメリカの三社が抜けている」
「そうなんだ。日本は?」
「この分野では遅れてる。自前で開発するより、アメリカのAIを利用して何をするかに力を入れる会社が多い」
「そのうえ、漫画には使っちゃ駄目になるんだね」
「おかげで、俺たちは世界旅行だ」
さとるは笑った。
アキはスマートフォンを机へ戻した。
「ヨーロッパは?」
「フランスやドイツでも開発は進んでる。でも、俺が欲しいものでは、まだアメリカの三社に差をつけられている」
「じゃあ、やっぱりアメリカ?」
「その前に、行きたい国がある」
さとるは、机の上に重ねてあった書類を脇へ寄せた。
「その三社を猛追している会社があるんだ。アジアに」
「アジアで先端技術って……韓国? 台湾?」
「中国」
「えっ、中国?」
アキは目を丸くした。
「日本より先を行ってるの?」
「昔のイメージのままだと、驚くと思うよ。AIは漫画だけの話じゃない。工場も、自動車も、ロボットも、それこそ軍事技術も関わってくる。中国も本気で育ててる」
「ふうん」
さとるは地図を広げた。
アキも、横から覗き込んだ。
「まずは首都の北京。それから地方へ行って、漫画がどう読まれているかも見てみたい」
地図の上を、さとるの指が動いた。
アキはその指先よりも、彼の顔を見ていた。
「つまり、北京ダックを食べて、万里の長城へ行くってこと?」
さとるは笑った。
「ああ。そういうことだ」
「よし」
アキのこういうところが、好きだった。
日本を離れることも、これからの仕事も、考え始めれば面倒なことはいくらでもあった。拠点を海外へ移すと言ったからといって、明日から何もかもうまくいくわけではない。
だが、アキと話していると、まずは北京ダックを食べればいいような気がしてくる。
「実は、中国の出版社から、『大きな第一コマ』のサイン会の話が来てる」
「それ、先に言ってよ」
「それで、AIの会社の人にも会えないか聞いてみた」
「会えるの?」
「ああ。紹介できる人がいるそうだ」
アキは、もう一度地図へ目を落とした。
北京の文字を指で確かめてから、折り目に沿って畳む。
「じゃあ、北京に出発だ!」
北京に着いて最初に驚いたのは、空港の広さだった。
飛行機を降りてから、ずいぶん歩いた。
長い通路を進み、動く歩道を渡る。その先にも、まだ通路が続いていた。荷物を受け取る場所へ着く前に、アキが小さく息を吐いた。
「ねえ。私たち、本当に出口に向かってる?」
頭上の案内表示を見上げている。
さとるも、同じ表示を見た。
「たぶん」
「たぶんって何?」
「俺も初めてなんだから、知らないよ」
アキは彼を見た。
それから、呆れたように笑い、また歩き始めた。
ようやく荷物を受け取り、空港を出た二人はホテルへ向かった。
だが、部屋でゆっくりする時間はなかった。
スーツケースを置き、身支度を整えると、今度はサイン会が開かれる書店へ向かう。
書店の前で車を降りたとき、さとるは自分の名前が呼ばれるのを聞いた。
顔を向けると、一冊の本が掲げられていた。
中国語版の『大きな第一コマ』だった。
声は、一つでは終わらなかった。
列のあちらこちらから名前が呼ばれ、こちらへ向けて、何冊もの本が持ち上がった。
表紙の真ん中には、見慣れた少年がいた。
さとるは、その場で足を止めた。
書店の入口から始まった列は、建物に沿って延び、角を曲がった先まで続いていた。
「これ、全員?」
迎えに出ていた担当編集者の陸が、笑顔で頷いた。
「先生を待っている方々です」
さとるは、もう一度列を見た。
アキが、彼の肘を軽くつついた。
「ほら。口、開いてる」
「いや……思ったより、ずっと」
「人気者だね」
海外版が売れていることは、知っていた。
出版社から届く報告にも、目を通していた。
けれど、今、目の前にいるのは数字ではなかった。自分の漫画を手に、ここまで会いに来てくれた人たちだった。
さとるは返事をする代わりに、背筋を伸ばした。
列へ向かって頭を下げると、また声が上がった。
サイン会が始まると、机の上から本が途切れることはなかった。
さとるは名前を書き、顔を上げた。
差し出された手を握る。読者が本を抱え直し、何かを熱心に話してくれる。その言葉を、陸が隣で訳してくれた。
好きな登場人物。
泣いた場面。
読み終えたあと、もう一度、最初から読み返したという話。
さとるは頷きながら聞いた。
読者が該当するページを開いて見せると、思わず身を乗り出した。何度も構成を変え、表情を作り直した場面だった。
そこを覚えていてくれた。
それだけで、次の本へ名前を書く手に、また力が入った。
アキは隣で本を開き、書きやすい向きに揃えて、彼の前へ置いた。
写真を撮りたい読者が来ると、スマートフォンを預かって立ち上がる。
「さとる、もう少しそっち」
言われたとおりに体を寄せると、隣の読者も笑った。
言葉は、陸を通さなければわからなかった。
それでも、好きな場面を指すときの顔や、撮った写真を確かめるときの嬉しそうな声には、説明の要らないものがあった。
「続きを、もっと早く出してほしいそうです」
陸がそう訳したときには、さとるも苦笑するしかなかった。
「それは、日本でも言われてます」
再び陸が訳す。
目の前の読者が笑い、順番を待っていた人たちにも笑いが広がった。
予定の時間を過ぎても、サイン会は終わらなかった。
右手が痺れ、ペンを持ち直す回数が増えた。
それでも、新しい本が差し出されると、さとるは顔を上げた。
最後の一人が本を抱えて帰っていくまで、彼は席を立たなかった。
その後の夕食会の席、陸は何度も礼を言った。
「遠いところ、本日は本当にありがとうございました。おかげさまで、大盛況でした」
「すごい行列だったよね」
アキがさとるを見た。
「中国にも、さとるの漫画をあんなに読んでくれている人がいるなんて」
「俺も驚いた」
「ずっと嬉しそうだったもん」
「そりゃ、嬉しいだろ」
さとるは、まだ少し痺れている右手を開いた。
何人と握手をしたのか、途中からわからなくなっていた。
自分が考えた登場人物について、知らない国の人が熱心に話してくれる。陸の通訳を待つ間さえ、もどかしかった。
聞き足りなかった話が、いくつもあった。
円卓に、大きな皿が運ばれてきた。
飴色に焼けた皮が、照明を受けて艶やかに光っている。薄く切り分けられた一枚一枚には、肉もしっかりついていた。
皿が置かれると、香ばしい匂いが広がった。
アキが身を乗り出した。
「あれ。北京ダックって、皮だけ食べるんじゃないの?」
「肉もおいしいんですよ。ぜひ、一緒に召し上がってください」
陸は、隣に置かれたせいろの蓋を取った。
「こちらの薄い皮に、お肉と薬味、たれをのせて、包んでどうぞ」
アキは一枚取り、手のひらへ広げた。
皮のついた肉をのせ、細く切られたネギとキュウリを添える。濃厚な味噌だれをつけ、こぼれないように両端を折り込んだ。
待ちきれない様子で、ひと口頬張る。
その動きが、止まった。
さとるが見ていると、今度はゆっくり目が細くなった。
「おいしい……!」
もうひと口食べ、何度も頷く。
「お肉も一緒だと、こんなにおいしいんだ」
陸が嬉しそうに笑った。
「まだありますから、遠慮なさらず」
「じゃあ、遠慮なく」
アキはさっそく、次の一枚へ手を伸ばした。
今度は迷わなかった。肉をのせる手つきも、たれをつける量も、先ほどより少し大胆になっていた。
「やれやれ」
さとるは呆れたように言った。
だが、口元は緩んでいた。
アキはもう、次のひと口を包むのに夢中だった。
ひとまず、おいしいご飯の約束は果たせたらしい。
「白滝先生」
陸が、店の入口へ目を向けた。
「お会いになりたいとおっしゃっていた方が、いらっしゃいました」
濃い色の上着を着た男が、店員に案内されて近づいてくる。
さとるは箸を置いた。
聞きたいことは、いくつもあった。




