第四章 描けなかった一コマ
数日後、猿山はさとるの自宅兼仕事場を訪れた。
玄関で、アキが応対した。
「さとるは、出かけています」
「そうか」
「伝言でしたら、お預かりします」
猿山は帰るべきだった。
だが、彼女の顔を見て、あの取材の日の光景が蘇った。
「君も、これで少しは安心しただろう」
「何がですか」
「もう、あんな男の言いなりにならなくて済む」
アキの表情が変わった。
怒鳴りはしなかった。
その代わり、一つ一つの言葉を、はっきりと置いた。
「私がここで働くかどうかは、私が決めます」
「いや、私は——」
「それに私は、アシスタントになる前から、あの人と付き合っています」
猿山は口を閉じた。
アキは、彼の背後の廊下を見た。それから扉を大きく開けた。
「少しだけ、お時間ありますか」
仕事場は、取材の日とは別の場所のようだった。
酒の瓶も、散らかった衣服もなかった。
あるのは、本だった。
壁一面の本棚。床に積まれた資料。付箋の突き出た漫画の単行本。印刷された原稿と、赤い字で埋め尽くされた構成表。
猿山は、思わず足を止めた。
本棚の中央に、自分の作品が並んでいた。
初版本、文庫版、画集、雑誌掲載時の切り抜きまであった。
背表紙の角が擦り切れている。
飾るために集めた本ではなかった。
「この棚は、私が触ると怒るんです」
アキが言った。
「並べ方が決まってるらしくて」
「……私の本ばかりじゃないか」
「そうですよ」
彼女は引き出しから、薄い箱を出した。
中には、サイン会の整理券が入っていた。
一枚ではなかった。
日付の違う券が、何枚も、何枚も、透明な袋に収められていた。
「子供のころから好きだったそうです。働き始めてからも、休みが取れると行っていたって」
猿山は、一枚の写真を手に取った。
若い自分が写っていた。
その横に、ひどく緊張した顔の青年が立っている。
頬が今より痩せ、髪も多かったが、目元にはさとるの面影があった。
「握手してもらった日は、ずっと手を眺めていたそうです」
アキが、少しだけ笑った。
「『俺、この手、一生洗わないぞ』って」
猿山は写真を戻せなかった。
そんなことを言う読者には、何人も会ってきた。
一人一人の顔までは、覚えていなかった。
覚えていなかったことが、初めて痛かった。
次にアキが運んできたのは、紐で括られた原稿だった。
紙が古い。
角は曲がり、消しゴムをかけすぎた部分が毛羽立っていた。
猿山は、一枚目を見た。
絵は、うまくなかった。
人物の顔はコマごとに違い、走る足には重さがなく、奥行きのある背景を描こうとした線が途中で迷っていた。
だが、読ませようとはしていた。
ページをめくる直前に、何を置くか。
どこで台詞を止めるか。
未熟な絵の下に、そうした工夫の跡が見えた。
「昼間は物流倉庫で働いて、帰ってから描いていました。私が知り合ったころも、ずっと」
アキは別の束を置いた。
投稿した原稿の控え。
出版社からの返却票。
短い講評。
《着想には興味を引かれるが、画力の向上が望まれる》
同じような言葉が、違う年の紙にも書かれていた。
「漫画の教本も、通信講座も、デッサン教室も。できることは、いろいろ試していました」
猿山はページをめくった。
一人の少年が、誰かへ手を差し伸べている。
その手だけが、何度も描き直されていた。
紙の端には、小さな手の練習がいくつもあった。
指が硬い。
関節がおかしい。
直せば直すほど、不自然になっていた。
「ある晩、そのページを破ろうとしたんです」
アキの声が、低くなった。
「『なんで俺は絵がうまく描けないんだよ』って」
部屋の冷蔵庫が、小さく唸った。
「『頭の中にはあるんだ。こいつがどんな顔で、どんなふうに手を出すか、ちゃんと見えてる。それなのに、なんで俺の手は描けないんだよ』って」
猿山は、原稿から目を上げられなかった。
「なだめても、駄目でした。そのあと、しばらく何も描かなくなりました。漫画を読むことまで、やめかけたんです」
「……それで、AIを」
「はい」
アキはモニターの電源を入れた。
画面に、制作の記録が現れた。
「初めて、自分の考えた場面に近い絵が出たとき、子供みたいに喜んでいました」
彼女は、その日のことを思い出すように、画面を見つめた。
「『これなら描ける。俺、まだ漫画家になれるかもしれない』って」
生成された画像の横に、短い文章が残っていた。
《名前をつけよう。おまえはコマだ》
《俺が描けなかった最初の一コマを、一緒に描いてくれ》
猿山は椅子へ座った。
その名前を、どこかで聞いた気がした。
取材のあと、廊下へ出る間際だったか。
さとるが奥の部屋へ向かって、「コマ」と呼びかけていた。
スタッフの名前だと思っていた。
画面には、膨大なやり取りが保存されていた。
《この笑顔は違う。安心して笑っているんじゃない。怖いけど、相手を安心させたくて笑っている》
《ここは大ゴマにしない。次のページで驚かせたい》
《効果音が大きすぎる。足音は聞こえる程度。台詞より目立たせない》
《右上から視線が流れるように、顔の向きと吹き出しを直して》
時刻は、午前一時を過ぎていた。
次の記録は二時。
その次は四時だった。
「旅行の写真は?」
猿山が尋ねた。
「旅行には行きますよ。でも、移動中も宿でも、こんなことをしています。半年前の旅行の写真を、何日にも分けて投稿したりもします」
「遊んで暮らしていると言っていた」
「そう見られたかったんでしょうね」
「朝から晩まで机に向かうのは嫌だと」
アキは、疲れたように笑った。
「嫌なんでしょう。結局、そうなってしまうから」
猿山は画面を見た。
一枚の絵を出して終わりではなかった。
作り、捨て、組み直し、戻り、また作る。
やっていることの形は違う。
だが、その執拗さを、猿山は知っていた。
自分の仕事場にも、同じものがあった。
「それでも、あの日の態度は許されない」
猿山の声には、先ほどまでの力がなかった。
「そう思います」
アキはすぐに答えた。
「あの人は、傷つくと、相手よりひどいことをしようとする。あの日も最低でした。私、今でも怒っています」
彼女は散らばった原稿を揃えた。
「でも、最低な態度を取ったことと、あの人の漫画が漫画じゃないことは、別の話です」
猿山は、何も言えなかった。
アキは机の端から、小さな額を持ってきた。
伏せられていた色紙だった。
猿山自身の字があった。
《さとる君へ。いつか、君の漫画も読ませてください。猿山てつ》
「対談のお電話が来たとき、本当に嬉しそうだったんです」
アキは色紙を机に立てた。
「先生に、読んでもらえると思ったんですよ」
猿山は、自分が何をしにこの家へ来たのかを思い出した。
もう言いなりにならなくて済む。
そう言った自分の声が、耳の奥で鳴った。
彼は本棚へ目を向けた。
『大きな第一コマ』の第一巻があった。
「これを……借りてもいいだろうか」
アキは本を抜き取った。
すぐには渡さなかった。
「最後まで、読んでくださいますか」
猿山は、頷いた。
今度は、はっきりと。




