第二章 憧れの人
猿山てつは、約束の時間より十分早く到着した。
漫画家になって半世紀近くになる。締め切りに追われて編集者を待たせることはあっても、自分から人に会いに行くときには、時間を守るようにしていた。
都心の高層マンション。
受付を抜け、専用のエレベーターを上がる。廊下には花の香りが漂っていた。猿山は、自分の仕事場のインクと紙の匂いを思い出した。
「先生、お願いいたします」
フジノヤマテレビの担当者が、玄関の呼び鈴を押した。
中から笑い声がした。
扉が開いた。
その場で、担当者の笑顔が固まった。
広いリビングには衣服や酒のグラスが散らばり、二十代、三十代の女性アシスタントスタッフたちが、慌てて身なりを整えていた。来客に見せられるような光景ではなかった。仕事場というより、度を越した私的な宴の途中に踏み込んだようだった。
カメラマンが反射的にレンズを下げた。
ソファーの中央で、さとるだけが慌てなかった。
「ああ、来たの」
女性たちへ、片手を振る。
「ちょっと、どいて。仕事の時間だ」
一人の女性が、さとるを冷たく見た。
肩までの髪をした、黒いシャツの女性だった。
「自分で片づけてよ」
脱ぎ捨てられていた上着を、彼の膝へ落とす。
さとるはそれを羽織り、猿山たちへ歩み寄った。
「失礼しました。毎日忙しくてね」
猿山は差し出された手を取らなかった。
「……これが、君の仕事場か」
「ええ。気に入りませんか」
「取材の日時は、わかっていたはずだ」
「もちろん」
短い返事だった。
わざとであることを、隠そうともしなかった。
対談は、奥の応接室で始まった。
長い机を挟み、二人が向かい合う。照明がつき、カメラの赤いランプがともった。
司会者が、慎重に口を開いた。
「本日は、漫画界の未来について——」
「その前に、ひとつ聞いていいですか」
さとるが遮った。
猿山を見る。
「先生は、俺の漫画を漫画じゃないとおっしゃったそうですね」
「AIが描いた絵を並べることを、私は漫画を描くとは思わない」
「作品は読まれましたか」
「何ページかは拝見した」
「何ページか」
さとるは笑った。
笑い声だけが、机の上を滑った。
「俺はね、毎日、朝から夜まで机に座って絵を描くなんて、不健康な生活はごめんなんですよ」
司会者が身じろぎした。
猿山の眉が動いた。
「なんだと?」
「外へ出たい。世界中を旅行したい。うまいものを食べたい。好きなことをして、面白い人間に会って、その経験を漫画にしたい」
「漫画家は、その経験を作品にするために机へ向かうんだ」
「だから、絵を描くところはAIに任せる」
「それを全部、機械にやらせて、自分は遊んで暮らすというのか」
「遊んで得たものを漫画にしちゃいけないんですか」
「苦労を知らない者に、人間の何が描ける」
さとるの笑顔が、一瞬だけ消えた。
しかし、カメラがその変化を拾う前に、口元は元へ戻っていた。
「苦労の量で面白さが決まるなら、世の中の名作は全部、いちばん不幸な人が描いてますよ」
「君は——」
「絵は、もうAIのほうがうまく描ける部分がある。これからもっと進化する。いずれ、人間の手では追いつけないところまで行くでしょうね」
猿山は机に両手を置いた。
「絵がうまければ漫画になるわけじゃない」
「そのとおり」
さとるは、即座に答えた。
猿山が言葉を止める。
だが、さとるは、その隙間に橋を架けなかった。
代わりに、さらに遠くへ石を投げた。
「ただ、昔と同じ方法で描くことに価値があると信じているなら、その仕事は、いずれ浮世絵みたいな位置になるでしょうね」
「浮世絵を、なんだと思っている」
「素晴らしい古典ですよ。大好きです。でも、今の娯楽の主流じゃない」
猿山の頬に、赤みが差した。
「先生たちの漫画も、いつかそうなる」
椅子が鳴った。
猿山が立ち上がっていた。
「私は、君の成功を妬んで来たわけではない」
「では、何をしに?」
「漫画の話をしに来たんだ」
さとるは、肩をすくめた。
「してるじゃないですか」
猿山はマイクを外した。
担当者が慌てて立ち上がる。
「先生、あと少しだけ——」
「失礼する」
扉が閉まった。
誰も、すぐには口を開かなかった。
さとるは猿山の座っていた椅子を見ていた。
用意された湯飲みからは、もう湯気が出ていなかった。
取材陣が去ったあと、黒いシャツの女性が応接室へ入ってきた。
アキだった。
「満足した?」
「最高だったね。視聴率が取れる」
「テレビの話はしてない」
さとるは答えなかった。
アキは机に置かれた二つの湯飲みを、乱暴にならない程度の強さで盆へ載せた。
「私たちは、あなたが先生に嫌われるための小道具じゃない」
「……悪かった」
「それは、みんなに言って」
さとるは頷いた。
アキが出ていっても、彼は椅子を離れなかった。
初めて会った憧れの人の声を、何度も頭の中で再生していた。
名前を呼ばれたかった。
面白かったと、一言でよかった。
それを言えるはずだった口で、彼は最後まで、相手を傷つける言葉ばかり選んだ。




