初めての買い物
掃除の終わった部屋には、食べ物がなかった。
正確には、マーガリンと麦茶と、賞味期限を三日過ぎた納豆が一つあった。
相沢一人なら夕食と呼べる。
二人になった以上、少し難しい。
「買い物に行く」
七月二十七日、午後四時半。
ナナは流し台の釘に掛けた雑巾を見ていた。
「買い物」
「食べ物を買う。昨日のパンみたいなもの」
「おいしい」
その単語だけは、よく覚えていた。
「そう。おいしいものを買う」
相沢は玄関へ向かった。
ナナも立ち上がった。
床板が鳴った。
「おまえは留守番」
ナナが止まる。
「外は人がいるから」
「人」
「たくさんいる」
ナナは窓の外へ視線を向けた。
商店街を走る自転車。日傘を差した女。買い物袋を下げた老人。道路工事の誘導員。ナナがまだ部屋の中からしか見たことのない人間が、狭い窓の中を通り過ぎていた。
「ナナ。買い物」
「だめ」
「ナナ。買い物」
「部屋で待ってて」
ナナは流し台の雑巾を見た。
次に掃除機を見る。
相沢は考え直した。
誰もいないあいだに掃除を再開される可能性がある。
一人で外へ出す危険と、一人で部屋へ残す危険を比べた。
床を守る方を選んだ。
「一緒に行く」
「一緒」
ナナは、ほんの少し笑った。
今度は遅れなかった。
*
問題は服だった。
灰色の服は、遠目には簡素なワンピースに見える。近くで見ると縫い目も留め具もなく、どこから着たのかわからない。
相沢は押入れを探した。
母親が引っ越しのとき置いていった衣装箱から、白い薄手のシャツが出てきた。ナナに羽織らせると袖は少し長かったが、灰色の服の上半分を隠せた。
靴はなかった。
相沢のスニーカーでは大きすぎる。玄関に残っていた青いゴムサンダルを履かせた。
ナナが一歩踏む。
踵の下で、サンダルの底が半分の厚さになった。
「歩くとき、足の裏全体で」
相沢が歩いてみせた。
ナナは真似た。
二歩目から、底の潰れ方が少し減った。
「あと、外では普通に」
ナナが相沢を見る。
「普通」
説明できなかった。
「床を壊さない」
「理解」
普通より、そちらの方が通じた。
アパートの階段は、下りるたびに鉄骨が鳴った。
相沢は一段下で両腕を広げた。
「ゆっくり」
ナナは一段ずつ下りた。
足が段へ触れる。
体重が移る。
鉄板がわずかに撓み、固定ボルトが鳴る。
それでも、初日の夜より音は小さかった。ナナは足を置く場所と時間を変え、揺れが大きくならないようにしている。
最後の段で、相沢は手を差し出しかけた。
百三十八・五キログラムが自分へ倒れてきた場合、その手にできることはない。
途中で手を下ろした。
ナナは一人で地面へ降りた。
「相沢」
「何」
「一緒」
ナナは、下ろされた手を見ていた。
相沢はポケットへ手を入れた。
「そう。一緒」
商店街まで五分だった。
夕方の道には、買い物帰りの人と自転車が増えていた。電器店の店先では小さなテレビが高校野球の再放送を映し、薬局の赤い回転灯が音もなく回っている。古い街路放送のスピーカーから、違法無線機器の使用を禁じる役所の声が流れていた。
誰も聞いていなかった。
ナナだけが、スピーカーのある電柱を見上げた。
「行くよ」
相沢が言うと、視線を戻した。
通行人はナナを見た。
最初は顔を見る。
次に全身を見る。
もう一度、顔へ戻る。
白いシャツと灰色の服。黒い髪。青い瞳。人間の少女としておかしなところはない。それでも、正面から歩いてきた人は、すれ違う少し前に半歩ずつ道を空けた。
自転車の高校生は、ベルを鳴らしかけてやめた。
犬は飼い主の後ろへ回った。
相沢はナナとの距離を少し縮めた。
自分まで避けられるようになった。
「普通って難しいな」
「床。壊さない」
「それはできてる」
歩道には、ゴムサンダルの踵が擦った黒い跡が続いていた。
床は壊していない。サンダルの方が先に負けていた。
*
近所のスーパーは、夕方の特売で混んでいた。
入口の手書き看板に、卵ひとパック九十八円とある。天井のスピーカーから店員の声が割れ、レジでは硬貨の落ちる音が続いていた。
ナナは入口で止まった。
自動ドアが閉まりかけ、また開いた。
後ろの客がつかえる。
「中へ」
相沢が肘へ触れようとした。
指先が白いシャツへ触れる直前、ナナが歩き出した。
相沢の手は空中に残った。
後ろの主婦が、その手とナナを見比べた。
相沢は買い物カゴを取った。
何もなかったことにした。
惣菜売場の前で、ナナはもう一度止まった。
揚げ物の匂い。冷蔵棚のモーター音。店内放送。買い物客の話し声。カートの車輪。レジの呼び出しベル。
青い瞳が、音の出る場所を順番に追った。
「多い?」
「多い」
ナナは答えた。
相沢はカゴへコロッケを二つ入れた。
ナナが三つ目を取る。
「二人だよ」
ナナはコロッケと相沢を見る。
「相沢。ナナ。二」
「そう」
三つ目を棚へ戻した。
戻す位置が一ミリもずれていなかった。
野菜売場では、形の揃ったトマトを選んだ。
「安い方」
相沢は不揃い品の袋を指した。
ナナは丸いトマトと、少し曲がったトマトを見比べた。
「最適」
「安い方が最適」
ナナは不揃いの袋をカゴへ入れた。
生活には、性能以外の最適がある。
その説明は、相沢にも難しかった。
乳製品売場の前で、小さな子供が走ってきた。
ナナへぶつかりそうになった。
母親が腕を掴み、強く引いた。
「危ないでしょ」
叱られた子供がナナを見上げた。
ナナは動かない。
子供は泣かなかった。
ただ、母親の脚へ隠れた。
「ごめんなさいね」
母親は相沢へ謝った。
なぜナナではなく自分へ謝るのか、相沢にはわからなかった。
「大丈夫です」
自然に答えた。
ナナの右手が、白いシャツの陰で少し動いた。
子供と相沢の間へ入る位置だった。
相沢はカゴを持つ手で、その手を軽く押し下げた。
「大丈夫」
ナナは相沢を見た。
右手を下ろした。
母親と子供は、急いで離れていった。
「今のは守らなくていい」
「相沢。大丈夫」
「大丈夫だから」
同じ言葉を二度使った。
どちらがどちらを安心させているのか、わからなくなった。
レジの女は、ナナを見てから相沢を見た。
「妹さん?」
「親戚です」
相沢は即答した。
自分でも驚くほど自然な嘘だった。
ナナが口を開いた。
「個体識別。ナナ」
「ナナちゃんね」
レジの女は笑った。
「青い目、きれいね」
ナナは相沢を見た。
返答を探している。
「ありがとうございます、だよ」
「ありがとうございます」
完璧な発音だった。
レジの女はもう一度笑い、紙袋へ商品を詰めた。
店を出るまで、誰もナナの足元を見なかった。
そこだけ、床のワックスが細い裸足の形に曇っていた。
自動ドアを出たところで、ナナが言った。
「親戚」
「違う」
「妹」
「それも違う」
ナナは相沢を見た。
「相沢。ナナ」
「それでいい」
「親戚。違う」
「さっきの人に説明するのが面倒だったんだよ」
ナナは少し考えるように黙った。
「相沢。嘘」
覚えなくていい言葉ほど、正確に使った。
「おまえのことを変に聞かれないため」
ナナはまた黙った。
納得したのか、嘘を記録しただけなのかはわからなかった。
相沢にも、親戚の代わりに何と答えれば正しかったのかわからない。
*
帰り道、相沢は紙袋を持った。
コロッケ、トマト、卵、食パン、麦茶。重さは五キログラムもない。
ナナなら指一本で持てる。
「ナナ、持つ」
「俺が持つ」
「相沢。重い」
「おまえに言われると腹が立つ」
紙袋の持ち手が指へ食い込んだ。
ナナが左手を伸ばした。
相沢の手のすぐ横で止める。
「半分」
今朝、雑巾を絞るとき覚えた言葉だった。
相沢は片方の持ち手を渡した。
ナナは指先で持った。
袋が軽くなった。
軽くなりすぎて、相沢の腕が上へ引かれた。
「半分」
ナナの手が少し下がった。
今度は、ちょうど半分になった。
二人で一つの紙袋を下げて歩いた。
持ち手の上で、相沢の指とナナの指は触れなかった。
触れないまま、同じ重さを持っていた。




