掃除機の敗北
七月二十七日、午前十時。
相沢は、掃除機の断末魔で目を覚ました。
うおおおおん、という音が六畳間を満たしていた。
布団から顔を上げる。
ナナが掃除をしていた。
灰色の服の裾を揺らし、古い掃除機のホースを両手で持っている。円筒形の本体はちゃぶ台の脚へ引っかかり、横倒しになったまま唸っていた。
排気口から埃が噴き出している。
「止めろ」
ナナはノズルを止めた。
掃除機は止まらなかった。
「本体。赤いボタン」
青い瞳が横倒しの本体を捉えた。
ナナはホースを持ったまま、一歩近づいた。
コードが足首へ巻きついた。
もう一歩進む。
掃除機本体がちゃぶ台の脚を中心に半周し、麦茶の入っていたコップへ衝突した。
相沢は布団から飛び出した。
コップを受け止める。
その間に、掃除機はさらに埃を吐いた。
「動くな。全部動くな」
ナナが静止した。
相沢は赤いボタンを押した。
轟音が消えた。
六畳間に、埃だけが残った。
首振り扇風機が右を向き、きゅ、と鳴った。
舞い上がった埃を、相沢の方へ公平に運んだ。
「止める順番を間違えた」
相沢は扇風機も止めた。
静かになった部屋を見回した。
昨日より汚れていた。
「何してるの」
「掃除」
ナナは即答した。
言葉を覚える速度だけは、掃除機の扱いより速かった。
「なんで」
ナナは部屋を見た。
「相沢。汚い」
「俺?」
「相沢。部屋。汚い」
一語増えた。
増えたことで、傷が深くなった。
「部屋が汚い。相沢は関係ない」
ナナは相沢の寝癖を見た。
視線が、昨日から着たままのシャツへ下がる。
裸足の足元まで確認してから、顔へ戻った。
「相沢。汚い」
「掃除を続けよう」
議論を打ち切った。
相沢は窓を開けた。
朝と呼ぶには遅い日差しが入り、埃の粒を白く浮かせた。外では蝉が一斉に鳴いている。気温はすでに昨日の続きを始めていた。
「いつからやってた」
「七時。四十二分」
二時間以上だった。
部屋を見直すと、ナナなりの成果はあった。
本棚の本は高さ順に並べ替えられている。工具箱のドライバーは長さ順に整列し、ちゃぶ台は壁からきっかり同じ距離になるよう移動されていた。脱いだ服は畳まれ、洗っていないものまで枕元へ積んである。
整ってはいる。
暮らしやすいかどうかは、別だった。
「この本、順番があるんだけど」
ナナは本棚を見た。
「高さ」
「巻数」
「高さ。最適」
「読む人間には最悪」
ナナは答えなかった。
相沢は本を巻数順へ戻そうとした。
三冊目で諦めた。
掃除機のコードをほどき、本体を起こす。紙パックが外れかけていた。排気で埃を撒いた原因はこれだった。
「これは、引っ張るとき本体も見る」
相沢はホースを引き、掃除機を転がしてみせた。
「角に引っかかったら、先に外す」
「理解」
ナナはノズルを受け取った。
相沢が赤いボタンを押す。
掃除機が唸り始めた。
ナナは畳の端から、まっすぐノズルを動かした。
一往復。
ノズル一本ぶん横へずれる。
一往復。
また同じ幅だけずれる。
畳の表面へ、正確な縞ができていく。
「うまい」
ナナが相沢を見た。
ノズルは動いたままだった。
壁へ当たった。
ごつ、と音がした。
「前見て」
ナナは壁へ視線を戻した。
畳一枚を終え、次へ移る。
そこで、深いへこみが残っていた。
ナナの足跡だった。
昨日、合板を外れて歩いた場所に、細い裸足の形が沈んでいる。足の裏の形だけなら少女のものだが、畳は大型家具を置いていたように潰れていた。
ナナは足跡の上へノズルを当てた。
吸い込む。
へこみは戻らない。
もう一度、ゆっくり往復する。
戻らない。
ナナは掃除機の強ボタンを押した。
モーターの音が上がった。
ノズルが畳へ吸いついた。
ナナは持ち上げた。
畳が一緒に持ち上がった。
「待て!」
ナナが手を止めた。
畳の端が十センチほど浮いている。
下から古い床板と、何年分かわからない埃が見えた。
相沢は赤いボタンを押した。
吸引が止まる。
畳が落ちた。
どん、と建物が鳴った。
下の部屋から、天井を棒で突く音が三回返ってきた。
相沢とナナは、同時に床を見た。
「今のは謝るやつだ」
ナナも床へ向かって頭を下げた。
相沢は笑った。
笑うつもりはなかった。
掃除機を持ったまま、真顔で床へ謝る百三十八・五キログラムの少女が、あまりに正しかった。
ナナが顔を上げた。
相沢の口元を見る。
唇の端を上げた。
完璧な笑顔だった。
形だけなら。
笑い始める時刻が、相沢より十五秒遅かった。
相沢は余計に笑った。
ナナの笑顔が少し深くなる。
それも、相沢の表情を見てからだった。
「そのうち合うよ」
何が合うのか説明しなかった。
ナナは笑顔を保ったまま、掃除を再開した。
コードが本棚の角へ引っかかった。
ナナは今度こそ気づいた。
右手でコードを外そうとした。
指が本棚へ触れる寸前で止まった。
笑顔も止まった。
右手だけが、空中に残った。
「ナナ?」
返事がない。
一秒。
二秒。
指先で、青白い光が小さく弾けた。
焦げた配線に似た匂いがした。
ナナの右手が動いた。
コードを外す。
何もなかったように、相沢へ顔を向けた。
「大丈夫」
相沢が聞く前に言った。
昨夜、相沢が何度か口にした言葉だった。
「手、見せて」
ナナは右手を下ろした。
「見せて」
相沢は手のひらを上へ向けた。
ナナは少し遅れて、自分の右手を載せた。
重さはほとんど感じなかった。力を抜くことは、もう覚えているらしい。
人差し指の腹に、針の先ほどの黒い点があった。
相沢が親指で触れる。
硬く、少し熱い。
「これ、大丈夫じゃないだろ」
「大丈夫」
「便利な言葉を覚えたな」
ナナは手を引こうとした。
相沢は離さなかった。
強く握ったわけではない。ナナが本気で動かせば、相沢の腕ごと持っていける。それでも彼女は動きを止めた。
「今日はもう掃除しなくていい」
ナナの視線が、途中までしか掃除されていない畳へ移った。
「掃除」
「俺がやる」
「ナナ。掃除」
「じゃあ、役割を変える」
相沢は掃除機のホースを取り、流し台から濡らした雑巾を持ってきた。
ナナの左手へ渡す。
「掃除機は俺。雑巾はナナ」
ナナは雑巾を見た。
「雑巾」
「そう。拭くほう」
相沢がちゃぶ台を一度拭いてみせる。
ナナは左手で雑巾を持ち、同じ場所を拭いた。
相沢の拭いた跡より、少しだけきれいになった。
「そこは張り合わなくていい」
ナナはもう一度拭いた。
相沢は掃除機の電源を入れた。
ナナが言った。
「掃除機。相沢」
雑巾を持ち上げる。
「雑巾。ナナ」
「そういうことで」
相沢が畳を一列進む。
ナナがちゃぶ台を一面拭く。
掃除機の音と、濡れた布の音が、六畳間で重なった。
一時間後、部屋は少しだけ暮らしやすくなった。
本棚は高さ順のままだったが、畳から埃が消えた。工具は箱へ戻り、ちゃぶ台の表面には指で触れても跡がつかない。
ナナの足跡だけは残った。
掃除機も雑巾も、それを消せなかった。
「これはもう、模様だと思うしかないな」
ナナはへこんだ畳を見た。
「模様」
「そう。ナナ模様」
青い瞳が相沢へ向いた。
冗談は、まだ通じなかった。
ナナは流し台へ行き、左手の雑巾を水で洗った。
布を二つ折りにする。
さらに二つ折り。
両手で挟み、絞った。
水が一滴も残らないほど固くなった。
「待て。それは絞るじゃなくて圧縮だ」
ナナが手を開いた。
雑巾は薄い板のようになっていた。
相沢は端をつまみ、広げた。繊維が伸び、ところどころ向こうが透けている。
「力、半分」
「半分」
「いや、おまえの半分はたぶん多い。十分の一」
「十分の一」
もう一度濡らし、今度はゆっくり絞る。
水が細く落ちた。
「それくらい」
ナナは雑巾を正方形に畳んだ。
流し台の脇に一本だけ出ている釘へ掛ける。角と角が合い、下の線は床と平行だった。
「明日。掃除」
「毎日はやらなくていい」
「相沢。汚い」
「部屋が」
「相沢。汚い」
ナナは、ほんの少しだけ唇の端を上げた。
今度は相沢が笑うより先だった。
流し台の釘に、四角い雑巾が一枚増えた。




